歴声庵

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伊豆:狩野城址

2014年09月06日 14時10分06秒 | 登城記・史跡訪問


 駐車場に建てられた説明板に描かれた狩野城址の地図

 伊豆狩野城は、北条早雲(伊勢宗瑞)が居城とした韮山城や、堀越(公方)御所の南、伊豆中部に位置しています。狩野川と柿木川が合流する地点に築かれており、またその眼下には下田街道も通っているなど、陸上交通と河川交通の両方を押さえられる戦略上の要所に築かれています。


 狩野城址から柿木川を見下ろして。


 同じく狩野城址から麓を見下ろして。

 明応二年(1493年)に駿河に居た北条早雲が伊豆に討ち入りし、堀越御所を襲撃すると、堀越御所の足利茶々丸は堀越御所を脱出、伊豆南部の国人衆を頼って落ち延びます。この足利茶々丸の呼び掛けに応じた国人衆の中に、狩野城を居城とする狩野氏も含まれていました。かくして早雲と狩野氏は交戦状態に突入します。しかし五年後の明応七年、早雲の攻勢の前に狩野氏は降伏開城し、狩野城は後北条氏に接収されます。尚、狩野氏はその後後北条氏に従う事になり、後の豊臣秀吉による小田原討伐の際に、八王子城に籠もった北条家臣団の中に狩野氏の名が見られます。


 城西部に残る空堀跡


 城西部の削平地、遺構の一部でしょうか?。


 西郭横の空堀跡。


 西郭跡。十人も籠もれば一杯になってしまう程、空間は狭いです。


 二重堀跡。風雨による損壊が大きく、あまり二重堀らしくはありませんでした。


 本郭跡。こちらも面積が狭く、とても本丸とは思えないのですが…。


 中郭跡、奥に見える土塁上の南郭跡と繋がっているので、狩野城址内で面積が一番広く、本陣跡(?)の石碑や神社なども建っています。


 南郭跡から見下ろした中郭跡。やはりこの中郭と南郭の方が本丸っぽい気がします。尚、中郭上に建てられた建物は神社です。


 山頂から南側を見下ろして。断崖絶壁上に築かれているのが実感出来ます。


 東郭跡。やはり中郭と南郭以外はどれも狭いです。


 本郭と東郭間の空堀跡。


 出丸跡。2~3人位しか籠もれるスペースしかなく、出丸と言うより見張小屋っぽいです。

 以上のように狩野城は地形を活かした天然の要害でしたが、一つ一つの曲輪の面積は狭く、大軍が籠もるような城ではありませんでした。そのような意味では戦国時代中後期の城とは違う、室町時代から戦国時代前期までの中世の城らしさを確認出来る城址と思われます。
 尚、後北条氏に接収後に狩野城は廃城になった訳では無く、秀吉による小田原討伐の際にも合戦が行われたそうですが、詳細は不勉強の為に判らないので、今後の課題とさせて頂きます。

訪問日:2014年08月05日


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