歴声庵

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陸奥:二本松城址

2012年02月25日 19時46分29秒 | 登城記・史跡訪問


二本松城址遠景と、二本松少年隊の銅像

 この二本松城址を訪れたのは5年前の2007年だったりします。いつか戊辰戦争二本松城の戦いの記事を書く時に使おうと色々撮影したものの、未だ二本松城の戦いの記事を書く予定がありません。折角撮影したのに勿体無いと思い、丁度最近本ブログ上で登城記を更新しているので、便上して五年越しで紹介させて頂きたいと思います。


 二本松城址の城壁と、本丸が建つ白旗ヶ峰。

 二本松城は、以前紹介した鳥取城と同じく、畠山氏の居城だった中世の山城の麓に、近世城郭を築いた平山城です。中世山城が築かれた白旗ヶ峰をすっぽり城壁で囲ってしまう縄張は好みなので、個人的には鳥取城と一、二を争うほど好きな城です。


 二の丸の二重櫓と箕輪門


 白旗ヶ峰の山頂に築かれた本丸の石垣。当たり前ですが、この石垣が畠山氏時代から在った訳ではありません。


 本丸に築かれた天守台跡。この天守台跡は東北震災で被害を受けたらしく、現在は立ち入り禁止になっているそうです。


 天守台跡から見た二本松市街


 搦手門跡の石垣


 搦手付近から麓を見て

 戊辰戦争二本松城の戦い
 二本松城と言えば二本松少年隊が有名ですが、何故二本松少年隊が戦う羽目になったかを簡単に説明させて頂きます。まず二本松城攻防戦になったかの経緯については、こちらを参照下さい。
 第三次白河城攻防戦で、白河城を伊知地正治(薩摩)率いる新政府東山道軍(後に会津追討白河口総督府に改編)に奪取された奥羽越列藩同盟軍は、白河城を奪回しようと、その後数度に渡る奪回作戦を実施するものの、尽く新政府軍に撃退されていました。その間に白河城には、板垣退助(土佐)率いる東山道軍の援軍が五月後半辺りから入城した事により戦力が増強されていきます。また新政府軍の事実上の総司令官である大村益次郎(長州)は、上野戦争の勝利によって得た余剰戦力により、海路平潟に上陸させ同盟軍の側面を衝く別働隊を編成し、河田景与(鳥取)・渡辺清(大村)・木梨精一郎(長州)を参謀に任命しました。平潟軍(会津追討平潟口総督府)は六月十六日に平潟に上陸し、浜通りへの進軍を開始します。こうして戦力が増強された白河城の新政府軍は、守勢から攻勢に転じて、白河城周辺の守山藩と三春藩を恭順させました。そして三春藩を恭順させた白河口板垣隊と平潟口渡辺隊は連携して、二本松と郡山宿の中間に位置する本宮宿を7月27日に急襲して、この地を確保占領します。
 当時二本松藩兵の主力は、白河城攻撃の為に郡山宿に駐屯しており、本宮宿を占領された事により、二本松城と二本松藩兵主力は分断されてしまったのです。本宮宿を占領した新政府軍が、更に二本松城を狙う姿勢を見せた事を知った二本松藩首脳部は、主力不在の二本松城で新政府軍と戦うか、それとも新政府軍に降るかを決断する会議を行います。これについて会津贔屓の小説家などは、「二本松藩は会津藩の正義に共感して、新政府軍に挑んだ」とか「奥羽越列藩同盟の大義に殉じた」など妄言を言っていますが、実際には会津贔屓が考えるような単純な物ではなく、二本松藩史には以下のように書かれています。「縦令西軍に降り、一時社稷を存せんも東北諸藩皆我に敵たらば何を以てか能く孤城を保たん。夫れ降るも亡び、降らざるも亦亡ぶ、亡は一のみ、寧ろ死を出して信を守るに若かずと議輙ち決す」
 つまり今や対新政府軍の最前線となった二本松藩が、新政府軍に恭順した所で会津藩と仙台藩に背後から攻められて亡んでしまう。一方主力が居ない現状で新政府軍と戦っても亡んでしまう。どちらにしても亡ぶのならば、裏切ったと言う汚名を着ずに新政府軍と戦って亡ぼうと言う二本松藩首脳部の悲壮な決意が伝わってきます。
 このように会津贔屓の小説家(星亮一とか早乙女貢とか)や数学者の渡部由輝大センセイが主張するような、二本松藩は会津の正義などと言う紛い物に共感した訳ではなく、むしろ同盟の会津藩も仙台藩も信じる事は出来ないと言う判断から、同盟軍として新政府軍と戦って亡ぼうと言う悲壮な決断をしたのです。
 しかし新政府軍との戦いを決めたと言っても、城下に主力が居ない二本松藩が戦力として期待したのが、本来予備兵力扱いだった少年兵や老人兵であり、農兵隊だったのです。
 そんな二本松藩の悲壮な決意をよそにして、新政府軍は7月29日に二本松城攻撃を開始、奥羽街道を進軍して南方から二本松城を目指す部隊と、阿武隈川を渡河して東方から二本松城を目指す部隊のニ方向から二本松城を目指しました。これに対して二本松藩は大壇口や倶中口などに守備兵を配置します。大壇口での少年兵の奮戦など、個々の戦いで二本松藩兵は善戦したものの、新政府軍の勢いを防ぐ事は出来ず、藩主を米沢藩に脱出させた後に重臣達は本丸で自刃し、ここに二本松城は落城します。


 奥羽街道筋の大壇口古戦場の碑。実際の古戦場から工事の為に、この地に碑は移動しました。尚、新政府軍の薩摩藩城下士小銃六番隊長の野津道貫(後の日露戦争第四軍司令官)は、この大壇口の戦いを戊辰戦争最大の激戦と評して、二本松少年隊の勇戦ぶりを称えています。


 阿武隈川の東岸に建つ、倶中口古戦場解説版と三浦権太夫戦死の地碑。二本松藩士の中では尊王精神の持ち主だった三浦は、朝廷に敵対するのは不本意だったものの、かと言って藩主による新政府軍との開戦と言う命にも藩士としては逆らうことが出来ませんでした。苦悩の末に自らが率いる農兵隊を開戦前に解散させ、自らはやじりの付いていない矢を新政府軍に放った後に、新政府軍の銃撃を受けて戦死すると言う悲劇的な最期を迎えます。
 この三浦の苦悩に対して、前述の『数学者が見た二本松戦争』の著者である渡部由輝大センセイは、自らの矮小な正義感と乏しい歴史知識から、「二本松人だけは三浦権大夫を<義人>などと称えてはいけない」と三浦を誹謗しています。大センセイが矮小な正義感を燃やすのは勝手です。しかし歴史哲学の無いそのような矮小な価値観を他者に強要するのは傲慢であり、数学者がそんなに偉いのかと指摘したくなります。このようにさほど歴史を調べもせずに三浦の苦悩を否定する、その識見の狭さと歴史知識の乏しさには軽蔑せざるを得ません。


 二本松城落城時に自刃した、家老丹羽一学の慰霊碑。

 以上、五年前に撮影した二本松城址の画像と、簡単ですが二本松攻防戦について書かせて頂きました。今回二本松城攻防戦について書かせて頂いた事で、本格的な記事作成はまだでも史跡紹介がてらに、簡単な概略を書かせて頂く手法が有ると言うのが判りました。今度は二本松城攻防戦後に、新政府軍がいよいよ会津藩領に攻め込んだ、2008年に訪問した母成峠古戦場のブログ記事を書かせて頂きたいと思います。

 訪問日:2007年06月22日
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