西益津小学校校門前に建つ、田中城址本丸跡の標柱。
同心円状の縄張で有名な、駿河田中城址を訪問しました。田中城は元々今川氏の城だったそうですが、武田氏の今川領侵攻後に整備拡張され、現在知られる同心円状の縄張りになったそうです。
遠江高天神城落城後の武田氏支配の末期には、対徳川氏の最前線拠点となり、城将依田信蕃の奮戦もあって、徳川氏の攻撃の前に決して落城する事はありませんでした。結局武田氏親族衆筆頭であり、駿河支配の長だった江尻城主穴山梅雪が徳川氏に降った事により、梅雪の説得を受けて田中城は開城する事になりますが、軍事的には遂に屈しなかった事は同心円状の田中城の防御力を伺い知る事が出来ます。
その後も田中城は存続し、江戸時代には田中藩の居城となるものの、本丸跡には現在は学校が建ち、その他も住宅開発により遺構はあまり残っていないと聞いていました。しかし、いざ訪れた田中城址は遺構が多く、解説版や標柱が数多く建ち、同心円状の縄張も偲ぶ事が出来て堪能する事が出来ました。
大手一の門付近の土塁跡。
三日月堀跡
三の丸土塁跡
三の堀土塁跡。このように土塁跡があちこちに現存しています。
田中城の特徴である、同心円状の縄張を偲ばせるように、田中城址内の道路は画像のように、カーブを描いているのが確認出来ます。
同じく円を描いているのが実感出来る、現在の道路。
三の堀と土塁跡。現在は西益津中学校の隣に位置しています。
二の掘。現在は西益津小学校の前に位置しています。
田中城下屋敷跡に移築された本丸櫓と、復元冠木門。
田中城城主として奮戦した依田信蕃は、武田氏を滅ぼした織田信長が本能寺で横死した後に発生した、北条氏・徳川氏・上杉氏による旧武田領争奪戦の「天正壬午の乱」では、かつての敵だった徳川氏の為に奮戦すると言う不思議な人生をおくる事になります。今回は依田が武田家臣時代の居城だった田中城址を訪れましたが、徳川家臣時代の依田が天正壬午の乱で活躍した、信濃の城にもいつか訪れたいと思っています。
訪問日:2012年02月08日
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