大鳥軍の一員として野州戦争に参加した、御料兵の記録である「慶応兵謀秘録」を最近読んでいます。この「慶応兵謀秘録」については、「復古記」に収録されている部分は読んだ事があるものの、通して読んだ事はありませんでした。しかし野州戦争後編の記事を書くに当たって、今更ながら復古記に収録されている部分だけでは無く、全編を読んでおこうと読み始めた次第です。
以上の通り今更ながら読み始めた「慶応兵謀秘録」ですけれども、「もっと早く読んでおけば良かったと」と後悔するほど、私が欲して止まない情報満載の内容でした。まず何と言っても御料兵と、御料兵と動きを共にして後に第三大隊として御料兵と合併する幕府歩兵第七連隊の士官名簿が掲載されていたのは、士官の質が勝敗を決するとの持論を持つ私にとっては嬉しい情報です。
ただ気になるのが、6個小隊で構成される第七連隊に中隊長が4人、小隊長が7人とされ、200名の御料兵に(5~6個小隊?)中隊長が6人、小隊長が8人と書かれていました。この人数は、部隊規模に比して明らかに士官の人数が多いなど疑問点もあったりします。これが途中補充された士官名を最初から書いているのか、本当に部隊規模に比して過剰な士官人数だったのかは、これからの研究に期待したいと思います。
また第二次宇都宮城攻防戦後に、第七連隊・御料兵・砲兵隊で士官の大量脱走が発生した事が書かれていたのはありがたかったです。つい最近まで私は今市戦での大鳥軍の敗因を、「小銃・弾丸の欠乏」と「大鳥の作戦が複雑過ぎた」と考えていました。しかし入潮様のブログで第二次宇都宮城攻防戦後に、大鳥軍(伝習第二大隊)に士官の大量脱走が発生した事を知り、以降この士官の大量脱走こそが今市戦での大鳥軍敗北の最大の要因だと自説を改める事となりました。尚、伝習第一大隊嚮導役が書いた「谷口四郎兵衛日記」にも、第二次宇都宮城攻防戦後に(伝習第一大隊で)士官の脱走が発生した事が書かれています。
しかし今のままでは単に私の「思い込み」に過ぎないので、これを「仮説」に出来るように、これからも第二次宇都宮城宇都宮城攻防戦後に士官の集団脱走が発生した資料を探していくつもりです。そして野州戦争後編の記事は、この仮説を中心にして書きたいと思っています。もっとも正確に言えば脱走者が多かっただけではなく、第二次宇都宮城攻防戦までの死傷者と、第二次宇都宮城攻防戦後の脱走者を合わせて、士官を大量に失った事が、今市戦での大鳥軍の敗因だったとなるのでしょうが。ただこの士官の集団脱走を重視した記事にしたいと思っています。
ところで、大鳥軍に参加した部隊については各部隊毎に資料が揃っているのがありがたいです。列挙させて頂きますと・・・。
伝習第一大隊:「谷口四郎兵衛日記」
伝習第二大隊:「南柯紀行」「浅田惟季北戦日誌」「野奥戦争日記」
歩兵第七連隊:「慶応兵謀秘録」
御料兵 :「慶応兵謀秘録」
桑名藩兵 :「泣血録」「戊辰戦争見聞略記」
凌霜隊 :「心苦雑記」
別伝習隊 :「別伝習書記」
以上の通り資料が充実しているのですけれども、回天隊・草風隊・貫義隊の資料は知らないのですよね。暴言させていただければ、回天隊と貫義隊は刀槍部隊なので調べるつもりはないものの、優良装備部隊の草風隊については、詳しい内情を調べたいので、草風隊の資料は探したいと思っています。
最後に、メモ代わりに「慶応兵謀秘録」に書かれていた、歩兵第七連隊・御料兵・砲兵隊の小山宿周辺の戦いから第二次宇都宮城攻防戦までの戦死及び負傷者の人数と、第二次宇都宮城攻防戦後の脱走者の人数を書かせて頂きます。
第七連隊
戦死及び負傷2名(小隊長1人、小隊長補佐1人)、脱走1名(小隊長補佐1人)
御料兵
戦死及び負傷3名(中隊長1人、小隊長補佐2人)、脱走9名(大隊長補佐1人、小隊長2人、小隊長補佐6人)
砲兵隊
戦死及び負傷5名(中隊長1人、小隊長1人、小隊長補佐3人)、脱走2名(中隊長1人、小隊長1人)
計
戦死及び負傷10名(中隊長2人、小隊長2人、小隊長補佐6人)、脱走12名(大隊長補佐1人、中隊長1人、小隊長3人、小隊長補佐7人)
*判りやすくする為、改役=大隊長補佐、指図役頭取=中隊長、指図役=小隊長、指図役並・指図役下役=小隊長補佐としています。
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