goo blog サービス終了のお知らせ 

歴声庵

ツイッター纏め投稿では歴史関連(幕末維新史)、ブログの通常投稿では声優さんのラジオ感想がメインのブログです。

会津藩からみた北越戊辰戦争

2010年06月26日 22時34分29秒 | 戊辰戦争・幕末維新史
 幕末ヤ檄団様の許可を頂きましたので、昨年夏コミの新刊に寄稿させて頂いた「会津藩からみた北越戊辰戦争」をアップさせて頂きました。当記事は会津贔屓からもあまり知られていない、会津藩による越後出兵が、どのような経緯を経て破綻したかを書かせて頂いた物です。
 また本記事では本来のテーマとは別に、会津藩による越後の民衆に対する略奪蛮行を詳しく書かせて頂きました。ネットの普及のおかげで、近年越後における会津藩兵の略奪蛮行が知られるようになりました。しかし未だ会津贔屓は匿名掲示板やヤフーの知恵袋などに逃げ込んでこの「史実」を否定したり、罪を衝鋒隊になすりつけたりしています。この会津観光史学の走狗達の行動に対して、もはや逃げ逃れ出来ない様に本記事では各種史料・先行研究・郷土史を駆使して、一連の会津藩による越後での略奪があったか否かの論争に終止符を打つつもりで書きました。
 もっとも元凶は、この会津観光史学の走狗達をけしかけている星亮一等の「小説家」なのですけれどもね。多くの方が北越戦争での会津藩兵の史実を知る事により、この星の如き「小説家」が歴史を捏造出来ないようになれば良いと思っています。
 また、それとは別に、越後の民衆から略奪を欲しいままにした会津藩兵と対比する形で、越後の民衆を大事にした、米沢藩上杉家についても書かせて頂いています。

「慶応四年四月五軍押前行列」追記

2010年06月20日 22時28分53秒 | 戊辰戦争・幕末維新史
 今更ながら、米沢藩の参戦事情を調べるには『戊辰紀事』を一から読み直さないといけないと思い、『戊辰紀事』を一巻から読み直しています。それで読んでいて気付いたのが、先日書かせて頂いた「慶応四年四月五軍押前行列」は、奥羽鎮撫総督府に会津藩追討を命じられた米沢藩が、会津藩追討の為に編成された編成表みたいですね。しかも当サイトで何度も取り上げられている軍政府自体が、会津藩追討の為に設けられた組織の模様です。
 つまり元々会津藩追討の為に設けられた軍政府が、新政府軍との開戦を主導したと言う事になると思います。その際は「慶応四年四月五軍押前行列」の編成を再編成した軍勢で、新政府軍と戦ったと言う事です。しかも凄いのはその会津藩追討の司令部と、対新政府軍の司令部の顔ぶれが変わっていない事です。更に米沢藩は新政府軍に降伏後、再度会津藩討伐の軍勢を出兵させるものの、この時の追討軍首脳部の顔触れも殆ど代わらないのですよね(流石に総督の千坂高雅は居ませんが)。
 この各地で、尊王派と佐幕派の内部抗争が絶えなかった戊辰戦争の中で、所属する陣営が三度代わっても、首脳部の顔触れが代わらなかった事が米沢藩の興味深い所だと思っていますので、今後も『戊辰紀事』を読みながら調べていきたいと思います。

シャスポー銃と伝習隊④

2010年06月13日 19時11分49秒 | 戊辰戦争・幕末維新史
 今日の記事は短いです。
 篠原宏著の『陸軍創設史』の鳥羽伏見の戦いに関する所に以下の記述がありました。「京都薩兵小銃隊20隊はすべて雷管打ミニエー銃で装備されて(中略)一方、幕軍は、伝習大隊は優良な後装銃を持っていたが」 一瞬読んだ時は「伝習隊がシャスポー銃を持っていた根拠となるか!」と興奮したものの、シャスポー銃を装備していたと断言しているものの、根拠となる史料を示していないのですよね。本書はたくさんの史料を引用して説明してくれ、前回紹介させて頂いた『史談会速記録』収録の田島応親の発言や、有名なシャノワンの意見書も収録されている良書なのですけれども、何故かシャスポー銃についてだけは根拠を書いてくれません。まあ確かに『兵器沿革史』によれば、鳥羽伏見の戦いに当って旧幕府は大阪に船でシャスポー銃を輸送したとの事なので、伝習隊は鳥羽伏見の戦いでシャスポー銃を装備していたと書かれたのかもしれませんが、同書には結局シャスポーを輸送したが使用はしなかったと書かれているのですよね。ですので筆者が何を根拠にシャスポー銃を使用していたかが謎だったりします。
 基本的に本書は、タイトル通り幕末の幕府陸軍の西洋化や、明治陸軍の創設期について調べるには必須の良書だと思うものの、良書だけにさらっとにシャスポー銃を装備していたと書かれているのは、問題のような気がする今日この頃。

伝習隊とシャスポー銃③

2010年06月06日 18時14分38秒 | 戊辰戦争・幕末維新史

 先日都立図書館で、田島応親の発言が収録された史談会速記録25巻をコピーしてきましたので、現在までの私なりの途中経過を報告したいと思います。

 まず、きへい様も挙げてくれた『兵器沿革史』について説明させて頂きます。伝習隊がシャスポー銃を装備していたかについて触れた先行研究としては、有馬成甫氏の「幕末における西洋火器」の輸入と、竹内力雄氏の「日本でのシャスポー銃~西南戦争と教導団~」の二つがまず挙げられると思いますけれども、双方とも『兵器沿革史』を根拠としています。ただし、この『兵器沿革史』は戦前の史料で、戦後米軍に接収された経緯があり、現在一般人が見るのは困難らしいのですけれども、「日本でのシャスポー銃~西南戦争と教導団~」が収録されている、『西南戦争之記録第三巻』にシャスポー銃に関連する記述が全文掲載されています。ですので『西南戦争之記録第三巻』に掲載されている『兵器沿革史』の記述の中で、伝習隊がシャスポー銃を装備していたかに関わる部分を引用させて頂きます。
 「慶応二年十二月佛帝那翁三世ハ「シャスポー」銃ニ聯隊分ヲ徳川将軍へ贈呈ス如斯多数銃器ノ贈与アルコト蓋シ」
 「明治三年二月船越権大丞ヨリ「シャスポー」銃ノ在庫品アル筈ナレハ其ノ調査ヲ為スヘシトノ命ニ對シ武庫司ハ在庫品中ノ「シャスポー」銃三千挺弾薬千五百発アリトノ報告ヲ為セリ」
 「明治三年二月ノ調査ニ武庫司ノ貯蔵三千挺を算ス其ノ内番号ノ整然タルモノ二千挺アリ之ヲ佛帝ノ贈呈シタルモノト仮定センカ其ノ他ハ明治ノ初年更ニ處ノモノナラン仙台藩ノ還納兵器中ニモ亦本銃ノ現在スルヲ見ル」
 上記によれば、「慶応四年十二月にフランスのナポレオン三世から、2個連隊分のシャスポー銃が幕府に贈与される」・「明治三年に明治政府が徳川家から接収した武器を調べたところ、三千挺のシャスポー銃を発見した」・「前述の三千挺の内の二千挺にはナンバリングがされており、欠品が無かった」の三点が確認されます。これから判るのは、①徳川家の所有していたシャスポー銃は総数三千挺以上、ナポレオン三世から贈与された二千挺以外に、少なくとも一千挺以上を追加入手していた。②ただし最初に贈与された二千挺(2個連隊分)に限ってはナンバリングがされており、欠番が無かった事を考えると、この二千挺は実戦で使われなかった可能性が高いと言えるのではないでしょうか。

 続いて『史談会速記録』複製版第25巻に収録されている田島応親の発言に以下の文があります。尚、田島は幕府が陸軍士官の養成として開校したフランス語学校に慶応二年に入学し、その後の戊辰戦争では榎本武揚の率いる脱走軍に参加して、箱館戦争に参加した事で知られています。
 「あれは維新の前年あたりのことであります(中略)尤も幕府の時分にありました模範其の当時伝習隊と稱へましたものを除くの外は和蘭ゲベルトを稱へます圓弾の口込めの鉄砲を持って居りました、伝習隊の方は口込めの筋入りの銃で射程の遠いエンピール銃を持って居った」
 本人の記憶もあるので、この田島が伝習隊の訓練を見たのが慶応二年なのか三年なのかは判らないものの、③少なくとも慶応二年(慶応三年の可能性もあり)の時点では、伝習隊はエンピール銃(ミニエー銃の一種)で訓練を行っていたとの証言と言えるのではないでしょうか。

 以上の事から、以下の三点を、今週末までに調べた限りの途中経過とさせて頂きます。
 ①徳川家の所有していたシャスポー銃は総数三千挺以上、ナポレオン三世から贈与された二千挺以外に、少なくとも一千挺以上を追加入手していた。
 ②ただし最初に贈与された二千挺(2個連隊分)に限ってはナンバリングがされており、欠番が無かった事を考えると、この二千挺は実戦で使われなかった可能性が高いと言えるのではないか。
 ③少なくとも慶応二年(慶応三年の可能性もあり)の時点では、伝習隊はエンピール銃(ミニエー銃の一種)を使って訓練を行っていた。

 以上はあくまで文献史料を用いての意見となりますが、あさくらゆう様も言ってくれたように、フィールドワークを伴っての調査も必要ですので、野州戦争が行われた小山・安塚・宇都宮等で弾痕や遺留弾についても調べたいと思います。またこれに伴って新政府軍が大鳥軍から鹵獲した小銃についても調べたいと思います。もしこの中に元込銃の記述があれば、シャスポー銃を使っていたと言う根拠になりますからね。
 ただ申し訳ありません。シャスポー銃について調べるのは今回で一旦中断して、また米沢藩の参戦理由について調べたいと思います。その作業が終わりましたら、またシャスポー銃について調べるのを再開しようと思っていますので、宜しくお願いします。


伝習隊とシャスポー銃②

2010年05月30日 23時24分08秒 | 戊辰戦争・幕末維新史
 色々な方を巻き込んでしまい、ご迷惑をお掛けしている本件ですが、とりあえず今回は途中報告をさせて頂きます。コメントを頂いた皆さんには、後述の記事を書いた後に来週末にご返答させて頂きたいと思います。ただし身内の方にはご返事を遠慮させて頂きますので、ご了承下さい。
 さて今週末は、きへい様も挙げて頂いた「西南戦争之記録 第三号」に収録されている、竹内力雄氏の「日本でのシャスポー銃」と、「日本歴史」に収録されている有馬成甫氏の「幕末における西洋火器の輸入」の二つの先行研究をコピーしてきました。両方とも『兵器沿革史』を根拠としており、まだちゃんと読み込んでいないものの、同書に書かれている所で重要な部分としては、「新政府が徳川家から接収したシャスポー銃の総数は三千挺、内の二千挺(二個連隊分?)にはナンバリングされており、欠番が無い状態だった」が挙げられると思います。
 また栗原隆一氏の「幕末日本の軍制」に、旧幕臣の田島応親が「慶応三年の伝習隊の訓練ではエンピール銃(ミニエー銃の一種)を使用していた」との証言が書かれていました。この田島の証言は「史談会速記録」に記述されているそうなので、来週末に図書館に確認とコピーをしてきたいと思います。
 この田島の証言と、今週末にコピーした論文二つを読み込みまして、来週末にまたこの件について書かせて頂きたいと思います。本当はあさくら様が書いてくれたように、小山や宇都宮等の現地に行って、調べる作業も必要なのですが、まずは先行研究の読み込みから始めたいと思いますので、ご理解の程をお願いします。
 この件については、色々な方を巻き込んでご迷惑をお掛けしてしまいましたが、私なりに調べてこれからも途中経過を説明させて頂きたいと思いますので、ご容赦頂きますようお願いします。

伝習隊とシャスポー銃

2010年05月22日 19時21分29秒 | 戊辰戦争・幕末維新史

 紅様と入潮様にコメントを頂きました、先日の軍事史学会で指摘された「伝習隊がシャスポー銃を装備していたとは思えない」について書かせて頂きたいと思います。またこの記事をもって、紅様と入潮様のコメントに対するご返事とさせて頂きたいと思いますので宜しくお願いします。
 さて当サイトの野州戦争の記事を読んで頂ければ判る通り、私は根拠となる文献史料こそ無いものの、状況証拠的に伝習隊がシャスポー銃を装備していたのは間違いないと、当サイトの野州戦争の記事は伝習隊がシャスポー銃を装備していたと言う前提で書いています。
 しかし最近の学説では、伝習隊はシャスポー銃を装備していなかったと言う説が主流であり、今回機会がありましたので、この辺を質問させて頂いた次第です。流石に著書に「シャスポー銃を持っていなかった」と断言しているだけあって、この質問をされるのを予想していたらしく、見事に論破されました。
 まず私が伝習隊がシャスポー銃を装備していたという仮説の根拠にしていたのは、紅様と入潮様にも書いて頂きました、南柯紀行に書かれている「今すでに五千発位は出来たけれども製作良しからず軍用に供しがたく」との記述と、「野州戦争序盤における大鳥軍の優勢」をシャスポー銃を使用していたからではないかとの二点だったのですけれども、二つとも見事に論破されました。
 まず「弾丸の制作の失敗」は、シャスポー弾のハトロンカートリッジを作るのに失敗した事を指しているのではとの私の意見に対し、ミニエー弾でもハトロンは使用しているので、あの言葉だけではシャスポー銃のハトロンカートリッジとは断言出来ないとの言葉には、反論が出来ませんでした。確かにミニエー銃も弾丸と火薬をハトロンに入れて簡易カートリッジにしていますものね。
 続いて野州戦争序盤での伝習隊の優勢こそがシャスポー銃を持っていたと言う状況証拠との主張、結構こっちは自信があったものの、曰く当時はシャスポー銃装備での教本が日本には入ってきていない。当時の日本にある教本は前装施条銃のみ、教本が無いのに小隊規模で後装施条銃の行動が出来るわけがない。そして何より幕府が仏から供与されたシャスポー銃はナンバリングされていて、このナンバリングされている銃がそっくり全部新政府軍に接収されている。数十挺単位なら、別ルートで購入したシャスポー銃と言う可能性もあるが、ニ個大隊分のナンバリングされていないシャスポー銃が存在していたと言うのは有りえないとの意見には反論のすべがありませんでした。ただし個人レベルではシャスポー銃を使っていた者は居ただろう。この言葉には反論すら出来ない、正にぐうの音が出ないと言うものでしたね。
 尚、このナンバリングの件から、六月に大鳥軍が入手した後装銃と言うのはシャスポーではなく、スナイドル等のその他の後装施条銃ではないかとのご意見も頂きました。

 では何故、野州戦争序盤で伝習隊があれだけの精強さを発揮したかと言えば、前装施条銃とは言え教本で散兵戦術を訓練されているので、密集戦闘の訓練しかしていない軍勢では歯が立たないとの事でした。つまり野州戦争序盤の伝習隊の優勢は、装備している銃の性能ではなく、士官と兵の練度が高かった事が原因。つまりハードではなくソフトが優れていたからと説明をされると、確かにその通りと納得せざるを得ませんでした。ある意味私はシャスポー銃と言うハードに拘り過ぎて、伝習隊を見る視野が狭くなっていたのかもしれません。
 そうは言っても、長年「伝習隊=シャスポー銃」と言う印象を抱き続けた身としては、今回の件はショックだったのも事実です。しかし今回第一線で活躍されている研究家の方に自分の意見を述べる事が出来たと言う幸運を得たのですから、今回の経験を糧に「伝習隊が装備していたのはミニエー銃」と言う視点で、野州戦争の記事を書き直したいと思っています。幸いシャスポー銃の存在は否定されたものの、代わりに伝習隊の強さの所以は教えてもらったので、書き直す方針は既に示して頂いていると思っています。


「慶応四年四月五軍押前行列」について、その2

2010年04月04日 20時13分04秒 | 戊辰戦争・幕末維新史

 まず最初にお断りさせて頂きますが、今日の記事は史料的裏付けはなく、単に私の推測で書かせて頂いていますので、史実とは異なる可能性がありますので、ご注意下さい。実際今日は、この推測をだらだらと書き続けているだけなので、はっきりとした結論が出ていない、あまり意味の無い記事ですので、ご了承下さい。

 先日「慶応四年四月五軍押前行列」に書かれている、慶応四年四月時点での米沢藩兵の編成を書かせて頂きました。あの時は編成だけを書かせて頂きましたけれども、ここでこの編成について色々考えて(妄想)してみたいと思います。
 まず中条豊前やら大井田修平など、後の戊辰戦争でも大隊長で活躍した者達が大隊長となった一之手~五之手の4個大隊(尚、四之手大隊が存在しないのは、やはり「四=死」となるから避けたのでしょうか)、何となくこの四つは侍組・馬廻組・五十騎組・与板組の米沢藩上級家臣によって編成された、米沢藩の主力部隊の感があります。もっとも実際には米沢藩兵の大隊長・軍監・小隊長と言った士官の多くは、米沢藩家臣団の頂点に立つ侍組から抜擢されているので、実際に侍組で小隊を構成するのは不可能なんですよね。尚、米沢藩家臣団についての説明は北越戦争第二章の記事を参照下さい。
 次に一之大隊~三之大隊の3個大隊。この三個大隊は藩主一門やら大身の長尾権四郎が大隊長を務めているので、そう言う意味では藩主の親衛隊、言わばエリート部隊と言った印象があるのですけれども、小隊長の顔ぶれを見ると、むしろ○之手大隊の方がエリート部隊と言った印象を感じてしまいます。また組外である徳間久三郎が一之大隊中の小隊長を務めている事を考えても、藩主直属の親衛隊とも言えない気がするのですよね。ただし組外と言えども、徳間久三郎は北越戦争に関する詳細な日記を残してくれているので、歴史研究の面では後世に多大なる貢献をしてくれた人物と言うのを明記させてさせて頂きます。
 そして御視兵隊・軍政府直属・奉行府直属の三部隊、正直この三部隊が一番判り難いのですよね。あえて推測を書かせて頂くとしたら、この慶応四年四月五軍押前行列と言うのは、戊辰戦争参戦前のセレモニーであり、この三部隊は言わば「馬廻」の役割だったのではないでしょうか。実際この三部隊の小隊長の大半は、その後の戊辰戦争史で殆ど名を見ないので(高野広次や畠山修造や山本寺亀太は除く)、この三部隊が戊辰戦争中は藩主親衛隊になったのではないでしょうか。

 さて、それぞれの部隊についての推測を書かせて頂きましたけれども、上記のように○之手大隊と○之大隊を合わせて、米沢藩は開戦前に7個大隊を保有していました。そして実際に北越戦争で米沢藩出兵時から編成されていた大隊も、参戦時に出兵した中条豊前大隊と大井田修平大隊、そして総督色部久長直属の3個大隊、また新庄に出兵した本庄昌長大隊、後に北越戦線に援軍と派遣された横山与一大隊と江口縫殿右衛門大隊、そして上杉主水直率の大隊(ただし「五軍押前行列」時の、主水が大隊長を務めたニ之大隊とは編成が全然違う)の計7個大隊と、一応大隊数は「五軍押前行列」時と同じなんですよね(余談ながら北越戦争終戦時には、既存の大隊を分割整理して、前線で新たに大隊を再編成しているので、7個大隊より多くなっています)。
 しかし大隊数が同じと言っても、「五軍押前行列」時の大隊編成と、参戦時の大隊編成が違うと言うのは前回書いた通りです。しかしこれも中条豊前大隊(ニ之手大隊)や上杉主水大隊(ニ之大隊)が、参戦時の編成と全然違う部隊もあれば、大井田修平大隊(一之手大隊)や江口縫殿右衛門(三之手大隊)のように「五軍押前行列」時の大隊編成と、参戦時の大隊編成があまり変わらない大隊もあったりします。特に江口縫殿右衛門(三之手大隊)は「五軍押前行列」時の大隊編成から、幾つかの小隊が引き抜かれただけで、新たに増えた小隊長は居ないのですよね。

 このように「五軍押前行列」時と実際の参戦時の大隊編成が違うと言うのは判って頂けると思います。しかしそうなると開戦前と言う大事な時期に何故大隊編成を変更したのかと言う疑問ですね。思うに「五軍押前行列」はあくまでセレモニーで、セレモニーが終了して問題点が判ったので、新たに再編成したと言う事でしょうか。
 「慶応四年四月五軍押前行列」に対する考察は今回で終わりとさせて頂きますが、いつかじっくり読み込んで、米沢藩兵の編成についてのドクトリンまで踏み込めれれば嬉しいと思っています。しかし、あの変化を嫌った封建時代にも関わらず、実戦を経験した訳でも無いのに、全藩兵の再編成を実行する柔軟性が米沢藩にはあったと言うのは特筆すべきだと思います。


上杉文書に収録「慶応四年四月五軍押前行列」

2010年03月28日 20時02分49秒 | 戊辰戦争・幕末維新史

 国会図書館にて上杉文書のマイクロフィルムを見ていたら(都立中央図書館に収録の上杉文書ってマイクロフィルム版なのかしら)、個人的には興奮物の史料を見つけました。目録では「五軍押前」としか記述されていないので、今までスルーしていたら、何とこの史料慶応四年四月、つまり米沢藩が参戦する直前の米沢藩兵の編成が書かれています。それも小隊長に留まらず、それぞれの小隊の兵士名まで全て載っている、米沢藩の戊辰戦争史を調べる者にとっては垂涎の史料かと思われます(^^)
 もっとも、幾ら貴重な情報が書かれていたとしても裏付けを取らないといけないものの、一応『戊辰紀事』や『史談会速記録』に断片的に書かれている情報と比べても矛盾が無いですし、『米沢藩慶応元年分限帳』と照らし合わせても二人を除けば実在していた事が確認出来たので、この史料を信用しても良いかと思います(二人の名が見つからなかったのは、慶応四年までの間に代替わりしたのか、はたまた私の照会の仕方が悪かったのか)。それに米沢藩のニ之手大隊の四番小隊長が誰々だからと言って、歴史の評価が変わるわけではないので、信用して良いかと(^^;)
 と言うわけで、この「慶応四年四月五軍押前行列」に書かれている情報の内、各大隊の大隊長と小隊長の氏名を転載させて頂きます。尚、米沢藩は大隊長を大隊頭、小隊長を隊頭と呼称していますが、判り易くする為、「大隊長」「(小)隊長」の呼称で統一させて頂きます。

一之手大隊
大隊長:大井田修平
一番隊長:増岡孫次郎、二番隊長:古海勘左工門、三番隊長:土肥伝右衛門、四番隊長:太田某(米沢藩慶応元年分限帳で発見出来ず)、五番隊長:戸狩左門、六番隊長:長右馬之助、七番隊長:関新右衛門、八番隊長:山下太郎兵衛九番隊長:三俣九左衛門、十番隊長:種村半左衛門、砲一門司令官:石栗善左衛門、砲一門司令官:朝岡兵蔵、砲一門司令官:桐生源作

ニ之手大隊
大隊長:中条豊前
一番隊長:香坂与三郎、二番隊長:関文次、三番隊長:山吉源右衛門、四番隊長:山崎貢、五番隊長:角善右衛門、六番隊長:大関武四郎、七番隊長:青木藤衛門、八番隊長:大熊左登美、九番隊長:小川源左衛門、十番隊長:岡田文内、砲一門司令官:三矢清蔵、砲一門司令官:新屋十次郎

三之手大隊
大隊長:江口縫殿右衛門
一番隊長:桐生丈右衛門、二番隊長:佐藤孫兵衛、三番隊長:山吉新八、四番隊長:安部清兵衛、五番隊長:登坂捴右衛門、六番隊長:上村九左衛門、七番隊長:高村三郎左衛門、八番隊長:山吉一郎左衛門、九番隊長:楠川織右衛門、十番隊長:三本左近、十一番隊長:大石与三郎、十二番隊長:宮政右衛門

五之手大隊
大隊長:桜井市兵衛
一番隊長:桜孫左衛門、二番隊長:温井弥五郎、三番隊長:小幡弥五右衛門、四番隊長:高野鉄右衛門、五番隊長:泉崎弥一郎、六番隊長:小田切兵衛、七番隊長:津田仁左衛門、八番隊長:船田善左衛門、九番隊長:近藤誠次郎:十番隊長:富沢小藤次、十一番隊長:斉藤新右衛門

御出馬隊(一之大隊?)
大隊長:上杉桃之助(一門)
一番隊長:山崎理左衛門、二番隊長:徳間久三郎、三番隊長:斉藤篤信、四番隊長:早川新右衛門、五番隊長:佐藤久左衛門

ニ之大隊
大隊長:上杉主水(支藩世子)
一番隊長:直海新兵衛、二番隊長:野口久左衛門、三番隊長:飯田久右衛門、四番隊長:香坂勘解由、五番隊長:高橋弥左衛門、六番隊長:桃井清七郎、七番隊長:鈴木久左衛門、

三之大隊
大隊長:長尾権四郎
一番隊長:苅野鉄之助、二番隊長:鈴木健助、三番隊長:石川某(米沢藩慶応元年分限帳で発見出来ず)、四番隊長:小幡喜兵営、五番隊長:石井次郎右衛門、

御視兵隊
一番隊長:佐伯金五兵衛、二番隊長:桜井恭次、三番隊長:藤巻与捴

軍政府直属
一番隊長:小山又兵衛、二番隊長:本間伝兵衛

奉行府直属
一番隊長:小倉善左衛門、二番隊長:高野広次、大砲二門司令官:畠山修造・山本寺亀太郎


 以上となります。この史料によれば、戊辰戦争参戦前の米沢藩は66個小隊と4個小隊相当の撤兵隊を保有していた事になり(当史料ではまだ撤兵隊は編成中なのか、一まとめにされています)、これが全兵ミニエー銃を装備していたのですから(当史料には卒身分は掲載されていません。また撤兵隊はスペンサー銃を装備)、菊池明や星亮一の言う、「米沢藩の軍装装備は旧態依然だった」との主張がいかに的外と言うのが判るかと思います。

 ところでこの史料を読んでまず判る事は、その後の越後出兵の際の米沢藩兵の編成は、この史料に書かれているものとはかなり違うのですよね。実際参戦時に一之手大隊長の大井田修平と、ニ之手大隊長が率いる中条豊前がそれぞれ大隊を率いて越後に出兵したのに、この時に両名が率いた大隊は上記の編成とは結構違うのですよね。参考までに書かせて頂くと・・・。

大井田修平大隊
「五軍押前」の編成
 増岡孫次郎隊、古海勘左工門隊、土肥伝右衛門隊、太田某隊、戸狩左門隊長右馬之助隊、関新右衛門隊、山下太郎兵衛隊、三俣九左衛門隊、種村半左衛門隊、石栗善左衛門隊、朝岡兵蔵隊、桐生源作隊
実際の出兵時の編成
 増岡孫次郎隊、古海勘左工門隊、曾根敬一郎隊、戸狩左門隊、長右馬之助隊、山下太郎兵衛隊、桃井清七郎隊

中条豊前大隊
「五軍押前」の編成
 香坂与三郎隊、関文次隊、山吉源右衛門隊、山崎貢隊、角善右衛門隊、大関武四郎隊、青木藤衛門隊、大熊左登美隊、小川源左衛門隊、岡田文内隊、三矢清蔵隊、新屋十次郎隊
実際の出兵時の編成
 香坂与三郎隊、斉藤篤信隊、柿崎家教隊、苅野鉄之助隊、香坂勘解由隊、岩井源蔵隊、芦名但馬隊、芋川大膳隊、小倉吉蔵隊、朝岡俊次隊、松木幾之進隊

 このように全然違う編成(特に中条豊前大隊)になっています、これを米沢藩が実戦に合わせて編成を変えた柔軟さを持ち合わせていたと考えるべきか、単に泥縄式の編成だったと考えるか、これからの勉強次第ですね。
 以上、長々と書いてしまいましたけれども、当史料を読んで一番不思議なのは、この「五軍押前」の編成には、後に七月二十九日の戦いで八丁沖東部西部戦線で共に大隊長として勇戦した、柿崎家教と横山与一の名が見当たらない事なんですよね。両名の指揮下で戦った小隊長の名は発見出来るのに、米沢藩の士官の中では有名と思われるこの両名の名が見つからなかったのが不思議です。
 何はともあれ、読んでいく内に知ってる名前がゴロゴロ出てきて、「へ~この人物はこの部隊の所属なのだな」と楽しみながら照会が出来た、良い週末でしたね。


米沢藩の戊辰戦争における参戦理由 その3

2010年03月22日 19時53分23秒 | 戊辰戦争・幕末維新史

 半年ぶりの続きとなります。元々この項目を書き始めたのは、『歴史評論631巻(02年)』に掲載された上松俊弘氏による「奥羽越列藩同盟の成立と米沢藩」に書かれた、「甘粕継成が主導する軍政府が新政府軍との開戦を主導した」の説に感銘を覚えて、以来この説を私も支持するようになりました。ただ同じ米沢藩の戊辰戦争を調べる身としては、単に支持するだけではいけないと思い、自分なりにこの仮説の根拠と出来る史料を探してみようと言うのが、きっかけです。
 ただ上松氏が根拠とした『米沢藩士 甘粕継成日記』は東大史料編纂所に所蔵されている為、アマチュアである私では見る事は出来ないので、他の史料から米沢藩軍政府の存在や、甘粕らの軍政府主戦派が新政府との交戦を決定した記述を探そうとしたのが、「その1」・「その2」・「千坂高雅について」の記事です。
 昨年の秋から野州戦争第三章の記事を書いていたので一時中断してしまいましたけれども、今年に入ってから色々探してみたものの、中々軍政府について書かれた史料は見つかりませんでした。しかし灯台下暗しとは正にこの事か、米沢藩を調べる者には正に基礎中の基礎史料である上杉文書の中に、思いっきり軍政府の事が書かれた史料がありました。しかも自分が過去コピーした中に(汗) 自分の愚かさにあきれ果てたものの、軍政府の存在を裏付ける史料を見つけて喜んでいます。
 上杉文書とは明治期に上杉家から、米沢藩関連の文書の編纂を任された、郷土史家の故伊佐早謙が編纂した物で、この中の上杉文書(マイクロフィルム版)第173巻に収録されている『戊辰紀事』に軍政府の事が記述されていました。この『戊辰紀事』は、前述の伊佐早自らが纏めた米沢藩の戊辰戦争に対して書かれた全11冊の著書で、一次史料を編纂した者自らが書いた物と言う事で、ある意味『防長回天史』に近い存在と言って良いと思います。実際mixiの『戊辰役戦史』コミュにても「裏付けが取れる史料」があれば二次史料と考えても差し支えないとの返答を頂いています。元々軍政府の存在については『米沢藩戊辰文書』にその名が書かれている書状がたくさん収録されていますし、『史談会速記録』内の千坂高雅の口述筆記にもその名が書かれているので、その存在は間違いないので、『戊辰紀事』の軍政府に対する記述は裏付けが取れていると思います。
 そのようなわけで裏付けが取れた『戊辰紀事』内の軍政府に対する記述を纏めたいと思います。正確な引用については、後日正確な引用が含まれた記事を、本サイト内で作成させて頂くとして、今日のブログでは単に要点を纏めさせて頂きます。

『戊辰紀事』より
 ①慶応四年四月五日に千坂高雅が軍務総督に就任し、軍事に関する全ての権限を一任される。同日甘粕継成も軍務参謀に就任。
 ②同九日に家老毛利上総の屋敷に軍政府が発足し、千坂・甘粕以下の人事が任命される。ここで改めて軍事に関する建言を、藩政府から分離して、軍政府が一任する事が明言される。

『史談会速記録』内の千坂高雅の口述筆記より
 ③千坂が出羽に出兵中に色部長門(家老)・中条豊前(二の手大隊長)・若林作兵衛(中老)・小林五兵衛(御勘定頭)・甘粕継成(軍務参謀)・斉藤篤信(小隊長、後に仮参謀に昇進)が越後出兵を決定した。
 
 この内、米沢藩が新政府軍との開戦を決定したのは、大山格之助とオマケの公家(沢為量)が率いる奥羽鎮撫総督府の別働隊を追って、千坂が本庄昌長大隊を率いて新庄方面に出兵中の最中であり、千坂が開戦の決定に関わっていないと言うのは信憑性が高いと思います。千坂が関わってないと考えると、残りの軍政府のメンバーが開戦を決定した確立が高いと思われるものの、その後の各人の動向を考えると、色部と若林が開戦を主張したとは思えません(むしろ二人とも非戦派)。小林に関しては他の史料では名前を見ないので判らないもの、少なくても主戦派として名前を聞かないので、実質参戦を主導したのは甘粕・中条・斉藤の三人ではないかと思っています(勿論これには奥羽越同盟の発足の影響が大きいと考えられます)。
 この様に『戊辰記事』と『史談会速記録』と『米沢藩戊辰文書』の三つの史料を比較検討する事により、米沢藩の参戦は甘粕一人が主導したとは言い過ぎでも、甘粕を中心とする軍政府主戦派が主導したと言う仮説を成り立てる事が出来るのではないでしょうか。
 
 このように米沢藩参戦のカギは甘粕が握っているのは間違いないと思うものの、そうなると『米沢藩士 甘粕継成日記』が読めないのは辛いです(汗) ただ今回上杉文書のリストを読み直してみると、甘粕と同じく主戦派である斉藤篤信自身による回想録も上杉文書が収録されているらしいので、これをコピーする事により、今までの甘粕一辺倒の視点とは別の視点により、米沢藩の参戦理由についてアプローチしたいと思います。
 予断ですが、後年教育者になっただけあって斉藤は、古文の知識が無い私が見ても読み易い字で、回想録を書いてくれているので助かります。


野州戦争第三章更新しました。

2009年12月26日 23時43分25秒 | 戊辰戦争・幕末維新史

 今日は『乃木坂美夏の麻衣ふぇあれいでぃお!ねくすと!!』と『らじ×ばと!』の合同イベントに行ってきたのですけれども、詳しい感想は後日書かせて頂きます。とりあえず後藤さんが相変わらず可愛かった&美味しい所を持っていったのと、伊瀬さんのファンタジスタぶりが印象的でした(^^;)

 さてさて本日、本当に久々の本サイトの更新となる野州戦争第三章の記事を更新しました。思えば去年の春に転職して以来、中々時間が取れず、第二章の記事を書いて以来二年越しの更新となってしまったものの、何とか完成できてホッとしています。長い時間掛かった分、取材旅行には三回行けたので、画像的には充実した記事になったと思います。またパワーポイントを使った地図を作ってみたりなど、今までには無い取り組みを幾つか挑戦しています。

 この三章では、第二次宇都宮城攻防戦で敗れた大鳥軍が、日光を経由して会津藩兵と同盟を組んで会幕連合軍として復活して、板垣退助率いる新政府軍と、今市宿にて二度に渡って繰り広げられた激戦がメイン記事になっています。会幕連合軍の火力と、土佐藩兵のみで構成された事による新政府軍の意思統一の強さと連帯感の強さを重視した記事になっています。
 当ブログを読んで頂いてる方々は、本サイトを声優ラジオの感想サイトと思っていられる方が多いとと思いますけれども、本サイトの趣旨はこのような戊辰戦争の記事です(^^;) もし私の書かせて頂いている声優ラジオの感想に興味をお持ちを頂いている方が居ましたら、このような記事も書けると言うのを読んで頂けたら幸いです。

 何はともあれ野州戦争第三章の記事を年内に完成出来てホッとしています。来年はこれに勢いを得て第四章の記事を書こうかなと思うものの、地図の作り直しを含めて北越戦争の記事の見直しもしたいかな。でも記事の見直しと言えば、野州戦争と関連する第三次白河城攻防戦の記事の見直しの方が先決の気が・・・。何はともあれやりたい事が満載な今日この頃です。


千坂高雅について

2009年09月19日 22時32分38秒 | 戊辰戦争・幕末維新史

戊辰北越戦争にて米沢藩総督、後には同盟軍総督をも勤めた米沢藩家老の千坂高雅。戊辰北越戦争の同盟軍と言えば司馬遼太郎著の「小説」の影響により、長岡藩が重視されがちですけれども、同盟軍の北越戦線で最大の兵力を有した米沢藩こそ、北越戦線での同盟軍の主力ではないかと言う考えから当サイトの北越戦争の記事を書かせて頂いています。そのように米沢藩の重視した、当サイトの北越戦争の記事ですけれども、その米沢藩の総督を勤めた千坂高雅に関しては厳しい評価をしています。これは後世から見た傲慢かもしれないものの、どうしても千坂の戦略手腕が拙いものに見えてしまうので、千坂に対しては辛口な評価になってしまいした。
 しかし最近この千坂に対する厳しい評価を見直そうかと思っています、北越戦争当時千坂は27歳の若輩に過ぎず、また軍事の専門教育を受けていませんでした。このような軍事の専門家でもない27歳の若者に過ぎない身で、一時は新政府軍と膠着状態に持ち込めたと言うのは、それは賞賛に値するのではないかと思い始めています(まあ新政府軍を率いた山県有朋の消極的戦略が大きいと言う声もあるかもしれませんが)。北越戦争の記事を書いた時は私も若かったので、千坂の年齢に配慮せずにあのような酷評をしたものの、年齢から考えれば千坂の北越戦争時の姿勢は十分賞賛に値するのではないでしょうか。少なくとも自分の27歳時を考えれば、27歳で同盟軍を引きいて新政府軍と戦った千坂はやはり非凡な人物だったと言えましょう(全藩士銃兵化の提言などは慧眼だと思いますし)。
 今は仕事の合間に野州戦争の記事を書こうとしている最中ですけれども、落ち着いたらもう一度北越戦争の記事を書き直して、千坂の評価も改めたいなと思っています。

 ・・・と、若さ故の未熟と言う視点から千坂の評価を改めたいと書きましたけれども、同じ戊辰戦争では若くても優れた手腕を発揮した人物も多いのですよね。ざっと思い出しても二十代で活躍した人間としては、長州の山田顕義(戊辰時24歳)、薩摩の大山巌(同26歳)、土佐の板垣退助(同29歳)、庄内の酒井玄蕃 (同24歳)、桑名の立見尚文(同23歳)が挙げられます。このように二十代で活躍した人物は結構居るのですよね(大鳥軍の瀧川充太郎に至っては18歳!)。う~んそう考えると若さだけで千坂を擁護するのは難しいかしら(汗) まあ個人的には勝ち目の無い戦争に自藩を導いた、会津藩家老の梶原平馬(同26歳))よりかは、まだ千坂の方が有能だと思うのですが・・・。


米沢藩の戊辰戦争における参戦理由 その2

2009年09月06日 18時22分45秒 | 戊辰戦争・幕末維新史

 先月コピーしてきた『上杉家御年譜』と『史談会速記録』をようやく読む事が出来ました。その1で書いた通り、戊辰戦争における米沢藩の参戦理由は、「甘粕継成が主導する軍政府が新政府軍との開戦を主導した」の裏付けを取りたくてコピーしてきた物です。残念ながら裏付ける決定的な記述は無かったものの、中々興味深い記述がありました。
 まず両書とも軍政府との具体的な記述はなかったものの、慶応四年四月五日に千坂高雅が軍務総督、甘粕継成が軍務参謀に任命されたのは間違いないようで、この二人を中核に軍政府が組織された模様です。この軍政府は『史談会速記録』の千坂の言によると、藩内若手の俊英(もっとも三手組以上の身分に限られると思いますが)によって構成されたらしく、この若手達が半ば暴走して開戦を主導したとのニュアンスが書かれています。これだけで断定するのは危険かもしれないものの、当事者である千坂の回想録と言う、一次史料に書かれた記述ですので、信憑性は高いのではないでしょうか。
 『史談会速記録』記載の千坂の口述筆記によれば、千坂が出羽に出兵中に色部長門(家老)・中条豊前(二の手大隊長)・若林作兵衛(中老)・小林五兵衛(御勘定頭)・甘粕継成(軍務参謀)・斉藤篤信(小隊長、後に仮参謀)が越後出兵を決定したと書かれています。この内、後の行動から考えると色部と若林が開戦を主張したとは思えません(むしろ二人とも非戦派)。小林に関しては他の史料では名前を見ないので判らないもの、少なくても主戦派として名前を聞かないので、実質開戦を主張したのは甘粕・中条・斉藤の三人ではないかと思っています。実際この三人は北越戦争で指揮官として勇戦しているので、千坂の言う若手の主戦派とはこの三人ではないでしょうか? もっとも若手と言っても中条と斉藤は千坂より年長なので、やはり開戦を主導した若手と言うのは甘粕のみを差しているのかもしれません。
 このように「甘粕継成が主導する軍政府が新政府軍との開戦を主導した」に関しての裏付けは取れなかったものの、今回『史談会速記録』を読んで思ったのが、千坂が甘粕を快く思っていなかったのでは?の疑念です。総督の千坂からすれば、参謀の甘粕は片腕であり、甘粕に関しての記述が多くても良さそうなのに、甘粕についての記述は少なく、あったとしても否定的なニュアンスが多いのですよね。特に千坂の言によれば七月二日に行われた米沢藩単独の総攻撃は、千坂の許可を取らずに甘粕が独断で行ったそうで、この甘粕の独断による攻撃のせいで米沢藩は甚大な損害を受け、後の行動に支障をきたしたと憤っています。これも千坂が責任を甘粕に負わせた可能性はあるかもしれないので鵜呑みは出来ないものの、千坂の甘粕に対する否定的なニュアンスも考えれば、甘粕が千坂を無視して独断専行の気があったのは可能性が高く、その最大のものが新政府軍との開戦だったのではないでしょうか。

 以上、「甘粕継成が主導する軍政府が新政府軍との開戦を主導した」の裏付けは今後も行いと思いますけれども、今後は千坂と甘粕の関係と言うのも合わせて調べていきたいと思います。
 尚、前述の千坂の不在時に色部・若林・中条・小林・甘粕・斉藤等が越後出兵を決めた理由が、会津藩が越後で乱暴狼藉を働いているので、苦しめられている越後の民衆の救う為と言う口実を挙げていたのが興味深かったです。


米沢藩の戊辰戦争における参戦理由 その1

2009年08月03日 21時01分22秒 | 戊辰戦争・幕末維新史
 戊辰戦争時に奥羽越列藩同盟に参加して新政府軍と戦った、奥羽越後諸藩の参戦理由については、「会津の正義に共感した」等と言う会津観光史学の妄言とは違う、諸藩によって異なるそれぞれ理由があると私は思っています。
 米沢藩の参戦理由についても諸説あるものの、『歴史評論631巻(02年)』に掲載された上松俊弘氏による「奥羽越列藩同盟の成立と米沢藩」に書かれた、「甘粕継成が主導する軍政府が新政府軍との開戦を主導した」との説を私は支持しています。しかし支持すると言っても、甘粕が開戦を主導したと言う根拠となる史料を、実際に自分で見てみたいとは思っているものの、根拠となる『米沢藩士 甘粕継成日記』は東大史料編纂所に所蔵されている分しかなく一般公開はされていないので、アマチュアの私では見る手立てが無いと言うのが現状です(涙)
 だからと言って、ただ上松氏の支持を表明するだけでは無責任かと思うので、甘粕が開戦を主導したと言う明記された史料は見れなくても、せめて甘粕=軍政府の動向が伺える史料は読んでおこうと思って、昨日都立中央図書館にて『上杉家御年譜』の17巻と18巻、そして『史談会速記録』19巻に収録された、当時米沢藩総督だった千坂高雅の口述筆記をコピーしてきました。
 『上杉家御年譜』は名前の通り、藩主別に藩内の出来事や人事などを記録された年表で、これに軍政府の成立や人事に関しての記述がされてないか期待しています。千坂の口述筆記については前述の上松氏が同論文において、甘粕が開戦を主導した事に関して引用としている史料なので、少なくともこれを読めば千坂が、甘粕の開戦主導について述べているのを読めると期待しています。
 まだ両史料ともざっとしか読んでいないので詳細についてはこれからですけれども、何とか米沢藩の開戦理由について自分が納得出来れば良いのですけれども。実際上松氏の説を支持している以上、今回の事は半ば自己満足なのですけれども、一応米沢ファンを自称している以上、これくらいはしないといけないかなと思っています(^^)
 とりあえず何か進展がありましたら、また当ブログ上にて書かせて頂く所存です。

河井継之助の武装中立論について

2009年07月05日 18時36分21秒 | 戊辰戦争・幕末維新史

 今回夏コミの原稿を書くに当たって、幕末の越後における会津藩の動向を調べていく内に、自分が今まで支持していた長岡藩家老河井継之助の武装中立論が詭弁に過ぎないと考えを改めました。この為に本日、北越戦争第一章の記事の「河井の武装中立論」について以下の記述を追記させて頂きました。

2009年7月5日追記
 本記事を書いた2003年当時は、上記のように河井の中立論を支持していました。しかし最近、幕末の越後における会津藩の動向を調べるに当たってこの考えを改めました。
 会津藩は討幕派の動向に備えて、慶応三年六月と翌四年二月に越後の諸藩を自分の陣営に引き込む為の、諸藩会議を開催しています(新潟県史通史編6)。この会議を会津藩と共に指導したのが長岡藩でした。この二回の会議、特に二回目の酒屋会議では、鳥羽伏見で勝利した新政府に対しての敵対姿勢を示す決議をしているのですから、長岡藩はこの二月の時点で会津藩と協力して越後諸藩を反新政府に纏めようと判断して良いでしょう。この諸藩会議の経緯を考えると、会津藩と共同歩調を取る長岡藩が「中立」と表明した所で、絶対主義による国内統一を目指す新政府軍が、長岡藩の姿勢を疑っても仕方ないかと思います。恐らく河井の中立論とは、新政府軍がそう疑ったように、新政府軍との開戦までの時間稼ぎに過ぎなったのでしょう。
 尚、自分自身の考えの変化を記録する為にも、あえて昔の誤った自説を修正せずに残させて頂きます。

 以上が追記させて頂いた文です。ところで一応完成した当サイトの北越戦争の記事ですけれども、あれから色々調べるうちに判ってきた事も多いので、今回の件以外でも追記したい事があるのですよね。
 特に同盟軍について、会津藩兵が民衆からの略奪に狂奔していた事は本サイトの記事でも書かせて頂いたものの、最近は長岡藩兵も領内で起こった巻・曾根一揆に対する対応の為に、前線にはあまり出兵していなかったのではとの疑念が起きています。この為「奥羽越列藩同盟軍」と言っても、越後戦線で真剣に戦っていたのは米沢藩だけと言う自説になっています。
 現状は野州戦争後編の記事の完成を優先していますけれども、いつかこれらの意見の変化も受けて、特に巻・曾根一揆を重視して北越戦争の記事を修正してみたいですね。


ウィキペディアと戊辰戦争

2009年06月28日 18時36分11秒 | 戊辰戦争・幕末維新史

 調べ物をする時に便利と言われるウィキペディアですけれども、複数の偏執的な人間が居れば、記事を事実とは異なる方向に改ざん出来るシステムなので、私はそのシステムに疑問を抱いています。中でも特に酷いと思っているのが、戊辰戦争の記述です。

 以前は本当に史実とフィクションの区別がつかずに、薩長を偏執的に憎む人物がでたらめな記述をしていました。司馬遼太郎や星亮一と言った「小説家」の書いたフィクションを読んだその人物は、その義憤をかき立てられて薩長を誹謗中傷する記述をしていました(彼にすれば、明治維新はテロだそうで、その無知ぶりには呆れる他ありませんでした)。
 そのような昔に比べれば、大分マシになったとは言え、相変わらず偏執的な記述が残っているのが実情です。判り易い例として交戦勢力の欄で、通常勝者側が記述される左側に敗者の旧幕府軍が記述されていて、通常敗者側が記述される右側に勝者の新政府軍が記述されている所に、記述した者の偏執性が感じられます。ただここで注意しなくてはいけないは、あくまで「左側=勝者、右側=敗者」の通例であって、ルールではないのですよね、ですので旧幕府軍を左側に書いてもルール違反には当たらないものの、知らない人が見たら旧幕府軍が勝利者と見えるような書き方をしている所に、記述者の偏執性が感じられます。
 ところでウイキの記述を読んで一番思うのは、会津贔屓・新選組贔屓は佐幕ファンを自称しながらも、会津・新選組以外の佐幕勢力に対して驚く程無関心なんですよね。例えば「鳥羽伏見の戦い」の記述を読むと、新選組に関する記述は確かに充実しています。しかし新選組の兵数はたかだか150名強に過ぎず、総数一万五千と言われる旧幕府軍の中では1/100程度の存在なのが実情です。そのような旧幕府軍の数数の中で1%に過ぎない新選組に関しては詳しい記述がされているのと比べると、旧幕府軍の実に半分近くを占める幕府歩兵の記述が殆どされていない事に、彼等自称佐幕ファンの関心が会津と新選組にしか及んでいないのが察する事が出来ます。
 もっとも多少は仕方ないと思われる面もあります。幾ら数が多いとはいえ、幕府歩兵には「正義」とか「誇り」と言った、会津・新選組信者の大好きな要素が小説家によって未だ書かれていないので、リアリティな存在の幕府歩兵はロマンチストな彼らの琴線には触れないのでしょう。
 しかし学問的には、旧幕府軍を調べるのなら主力である幕府歩兵を調べるのは当然なのですから、旧幕府軍主力である幕府歩兵には注目せず、少数派の会津藩兵と新選組にばかり拘る所に、彼ら自称佐幕ファンが学問ではなく、あくまでフィクションの視点でしか幕末維新史を見ていないと言うのが伝わってきます。そして、そもそも佐幕ファンを自称しながらも、会津と新選組以外の佐幕勢力に関して無関心と言うのを表していると思います。
 この自称佐幕ファンが「会津・新選組以外の佐幕勢力に関してあまりにも無関心」と言うのを示す別の例として、彼ら自称佐幕ファンから半ば神格化されている奥羽越列藩同盟について、これまた会津藩と仙台藩(小説家星亮一が推している)以外については無関心なんですよね。越後戦線については米沢藩兵が主力だったのにも関わらず、「薩長側で書かれた史料は全て捏造!」と叫ぶ彼らが、「真の戊辰戦争の基礎資料」と呼ぶ新選組研究家の菊地明が中心になって書かれた『戊辰戦争全史』に書かれた米沢藩兵の姿が、史実とはあまりにもかけ離れた記述をされているのが彼ら佐幕はファンの実情です。戊辰戦争史を調べる者にとって、基礎文献と呼ばれる『戊辰役戦史』に対抗して書かれたと言われる、言わば彼ら自称佐幕ファンにとっての基礎文献と言って良い『戊辰戦争全史』がこのような体たらくなのですから(まあ菊地明が中心になっている時点で仕方ないかもしれませんが)、自称佐幕ファンを自称する者達の知識の偏りが発生するのも仕方ありません。
 そもそも食わず嫌いをせずに、あらゆる史料を読めば良いのですけれども、自称佐幕ファンは自分達にとって都合の良い書籍(会津・新選組を賛美する)しか読まない傾向があるのですよね。佐幕ファンを自称するなら、会津藩と新選組以外の佐幕勢力にも興味を持って頂きたいと思うのですが・・・。

 結局ウィキの戊辰戦争の記述の偏りは、自称佐幕ファンの史実を軽視してフィクションを重視する偏執性と、そもそも佐幕ファンを自称するくせに、会津と新選組以外の佐幕勢力に対して無関心な者が多いと言うのが原因だと思われます。現在は会津信者が書き込めない処置がされているものの、完全に改善される事は無いでしょう。どうしてもイデオロギーが(それが負け組みに対してのシンパシーと、勝ち組に対しての嫉妬とは言え)関わる戊辰戦争の記述では、不特定多数が参加出来るというウィキのシステムでは史実を書くのは難しいと言わざるを得ません。このように書くと、「ならばお前がウィキに書け」と思われる方が居るかもしれません。しかし私としては、ウィキに参加するより自分のサイトの記事を充実させたいと思っていますので、今後もウィキに参加するつもりはありません。
 
 以上、長々と書いて申し訳ありませんでした。実はこのウィキの記述に続いて、現在起きている会津絶賛に対する揺り返しに対する懸念を書くつもりだったのですけれども、ウィキの記述だけで長くなってしまったので、学問的な手法ではなく、感情論で会津を非難する人達の増加に対する懸念」については、後日書かせて頂きたいと思います。