ある博物館に行ったら、縄文時代の食事を展示してあったが、現在の食事と比較し興味をそそられた。中世の食事については古文書等に残っているが縄文時代となると遺跡からの出土物からの推測、想像でしかない。
今回は、最近、世界文化遺産に認定された北海道・北東北の遺跡を中心に、1992年より三内丸山遺跡担当し、現在、青森県世界文化遺産登録専門監の岡田康博氏の講演である。
Part 1 調理道具は縄文土器と黒曜石 ~①縄文キッチン~
今回、「北海道・北東北の縄文遺跡群」の17の遺跡が認定されました。縄文時代は今から約15000年前~2400年前の1万年以上続きました、氷河期から温暖化が始まり、針葉樹から落葉広葉樹に、魚介類が豊富に生息できる環境となった。遊動から定住となり、定住を支えた生業は、西アジアでは牧畜・農耕、縄文遺跡群では、狩猟・漁撈・採集であった。
生物多様性に富んだ森林資源のブナ林が海岸線まで見られた。(北海道・北東北)また、サケ・マスの資源量が多く、上手く利用した。海流が東北沖で暖流と寒流が交差し、縄文時代における地域文化圏があった。土器を見ればわかる。
昔に比べてカラーになったが、カラー化の技術ではなく、いろんな情報が分かってきた。
・集落の家の数が多く、丸木舟、犬、隣の集落が書いてある等々。
〇縄文時代(文化)の特徴
「採集・狩猟・文化で定住を実現」
①土器と弓矢の登場
②村の出現(家・墓・ゴミ捨て場)
③持続的な資源利用技術の開発
④大規模記念物(環状列石、盛り土、大型掘立柱建物など)の構築
⑤精神世界の発達
⑥広域での交流、交易
〇土器は人々の生活を変えた
・縄文時代になって土器が登場
⇒環境の変化がもたらした森林資源の利用
・土器は煮沸に使用
⇒利用できる自然の恵みが拡大
*固い物が食べられる、あく抜き処理
・衛生環境の改善
煮沸により衛生的に
⇒生活の安定に貢献
*土器は偶然の発見ではなく初めから目的を持って作られた
〇最古の土器は青森県
・石器を作る材料(原材料)があった
・川があった・・・サケが遡上する川だと考えられる
まだ竪穴住居なかった、本格的な定住ではなかった。
考古学的には土器は定住の条件と考えられている、土器は移動には適さない。
〇土器の起源
・「自生説」と「伝播説」
・古い段階の土器は、本州北半と九州北部、日本列島の両端
・自生説では日本列島南北に起源がある多元説となるが・・・
・沿海州などでも古い土器は見つかっている。
*土器の使い分け
大きいのは----貯蔵用
小さいは----煮炊き用
土器は、煮炊き用煮沸として生活に重要な容器でこれを持つことにより縄文時代は 長く続いてきた。
〇良質な黒曜石が持ち込まれた
一方、調理するとき鋭く切れる利器が必要になります。そうした石器の黒曜石は北海 道が原産地で活発な物流があり、津軽海峡を越えてもたらされた。その他にも新潟 県のヒスイ、石斧の石材が海峡を利用していた。
Part 2 栽培する縄文人と生活環境の変化 ~②縄文フード~
〇縄文人の食卓を復元する
・遺跡に遺されている情報が少なく偏りがある
⇒有機質の情報は分解され残りにくい
⇒目に付く土器や石器が中心でミクロの情報を得るには相当の努力と覚悟が必要
・これまで考古学では当時の生活そのものを研究対象としてこなかった。
⇒縄文研究は歴史ではなく家庭科、生活科の分野である
〇食材
①ムラの中のゴミ捨て場や貝塚などに残された、食物残滓を分析する。
⇒シカ、イノシシ、ノウサギ、ムササビ、カモなどの鳥類や海辺では魚介類も豊 富。
⇒クリの果皮やクルミの殻なども多く出土。しかし、有機質のものは分解されや すい。
*利用されない物が捨てられる。
〇貝塚は情報の宝庫
貝塚には、道具(土器や石器)、食べ物の残滓(骨や貝殻、魚の鱗、木の実の殻)、 火を焚いた後に生 じた灰や炭が堆積している。
*縄文人には単なるゴミ捨て場だが情報の宝庫である。
〇土は貴重な情報源
フルイにかけて顕微鏡で種類を特定する。
〇小さい貴重な情報
マグソコガネ、ショウジョウバエのサナギ、クリの花粉化石など。
*昆虫で暖かい寒い、きれいな所など調べられる。
〇三内丸山遺跡で出土した魚骨
*フルイにかけて集めると、魚がたくさん見つけられる。ヒラメを見ると三枚に おろしていたのではと推測される。何を食べたのか、どう調理したか想像でき る。シャコ、イカ、タコも縄文人は好きだった。
〇出土した骨や貝
ネズミザメ、ホホジロザメ、アカエイ、マイワシ、ニシン、カタクチイワシ、アナ ゴ、サケ、コイ、マ ダラ、サヨリ、メバル、ホッケ、アイナメ、カジカ、ス ズキ、いなだ、マアジ、サバ、カツオ、マグ ロ、サワラ、ヒラメ、カレイ、カ ワハギ、フグ
⇒現在も陸奥湾内で捕れる魚がほとんど50種類以上の魚類、タコ・イカ類、シャ コ・カニ類も出土。
*ハマグリが出てくると暖かい所と示している、北海道でもハマグリが発見され た。
*アジ・サバなど、今も食べられている物も縄文では食べられていた。いろんな 魚を捕っている。魚も生息している所がそれぞれ違う、深さも違う海の様子を 陸地と同じように知っていたのでは。フグも食べていた。
〇魚の大きさ
縄文人は、今日食べている魚より大きい物を食べていたのでは、マダイは1mクラス の物を食べていたのでは、やはりマダイも三枚おろしで食べていたのでは。
〇魚類の組成の違い
*内陸の集落と海側では、違いが見えてきた。物流があるので違ったものを食 べていた。
②湿地などに残された可食植物の種子や花粉化石などを分析する。
⇒クリやクルミ、トチなどが多く、キイチゴ、サルナシ、ヤマグワ、ヤマブドウ、ニ ワトコなども出土。ドングリ類はほとんど出土しない。
*クリは、たくさん出ている。炭化したクリは残りやすい。割った跡が見られる。
ふるいにかけて見つかった種にヒョウタンのタネもあった。ヒョウタンは、亜熱帯に生息。
当時は暖かった。ヒョウタンは、人間が管理しないと成長しない植物のため、植物の管理をしていたのでは。その他、ヤマブトウ、キイチゴなど森の恵みを利用したのがわかってきた。教科書にはドングリをたくさん食べたと書いてあるが、見つかるのはクリに関する情報が多い。三内丸山は、ブナ、ドングリ、クリが急に増える。本州から持ち込んだと思われる、クリは食料の安定に貢献した。縄文里山ができていく。
③土製品を観察する
⇒イノシシ型土製品やキノコ型製品、クルミ型土製品が出土。
*キノコ型には数種類のパターンがあり、図鑑的という説もある。自然に対する思 いもある、東北の縄文の特徴でもある。
④縄文人の歯や骨を分析する
⇒骨に含まれる、コラーゲン分析によると摂取している食料の8割が植物性。
*森が支えた
〇炭素・窒素安定同位体分析
人骨から抽出したタンパク質(コラーゲン)、土器に付着した炭化物の炭素と窒素の 安定同位比を測定し、当時の人々の食性を推定。
・人骨・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・食の傾向
・土器付着炭化物・・・・・・調理された食物
*魚を煮た手がかり
縄文時代は、米や雑穀はほとんど食べられていない、クリやトチが食べられている。北海道を中心として動物性タンパク質が主要な位置を占めていた所がある。(オットセイ、イルカ)土器付着炭化物をみてもヒエやアワは食べられていない、こういった物があるのはまちがいないが積極的に利用することはなかった。
⑤出土した食品を分析する
⇒縄文ハンバーグとクッキーが出土しているが、食材がそのまま口に入るということ ではない。
*さまざまな植物性、動物性タンパク質があった。
〇マメ、ヒエの検出
最近、注目されているのがマメ、エダマメ、野生のマメ類、食をささえる食材であ った。野生のヒエ(イヌビエ)が大量に出てくる、主たる食料としてはシフトしな かった。イヌビエが将来的にはヒエに変わっていたかもしれない。
Part 3 縄文人の食卓とニワトコの謎 ~③縄文ダイニング~
縄文人の食事風景を考えてみます。土器から調理方法が推定できる、基本的には「煮る」や「煮込む」で焼くとかはあまりされていない可能性がある、火を受けた骨は少ない。焼くという調理の仕方は、うま味、脂肪分が落ちてしまうので決して効率的ではなかった。他に「蒸す」が基本であろう。
シチューや寄せ鍋がそんなイメージでしょうか。
味付けはどうしたか?塩・油・キハダ・サンショウなどのタネが出てきますので調味料として使えるでしょう。味噌、醤油はその証拠はない、縄文時代には無かっただろう。塩は、海産物で手に入る、塩を作る土器が遺跡から出てきている、状況証拠から考えられる。食べられなかったのは甘味である。
〇いろんな道具類
石器を見ると加工に使われた石器が見られる。デンプン粒が残存していることから 植物加工具の可能性大。地下に保存できる土器、切れる石器、石匙(セキシ)は、 イネ科植物特有の使用痕が見られる。土器を炉の中央に置いて、まわりで火をた く、火を受けた所は赤く色が変わり、上の方はススになる。40~50cmの土器は、 水を入れると40分位で沸騰する、しかし壊れやすく、土器がたくさん見つかるのは 耐久性に問題があった。
石器は、デンプンの粒子など残されているが、木の実のたぐいをすりつぶす、たた くなどの 道具あった。
・石皿・・・・いまのマナ板
・手に持った丸石は・・・・タタキ石、スリ石
〇その他の石器
北海道の石器では半円状扁平打製石器、半円状の石器ですが、これはデンプンを取り出すために使われたかのうせいもある。利器は、ガラスと同じ鋭い、付着している物を調べるとイネ科の植物を処理するために使われた。今で言うカマの仲間である。こうした石器を何に使われたか調べると縄文の食のイメージが広がる。
イメージとして総合的に見ると、主流は鍋料理?が非常に効率的、合理的である。主食という考え方は無く、縄文人は季節に応じて手に入れられるものを食べていた。春・秋には森の恵みが豊富で、夏になると海や川など水産資源、魚介類を利用し始める、そうした事により一年をそこで暮らすことが出来る。冬は狩りのシーズン、四季折々の物を加工していた。四季の魚の骨が遺跡から出てくる、一年間そこで暮らしていた証拠である。遺跡でも鍋で使うオタマの様な物が見つかる。スプーンの様な物も見つかる、汁のような料理もあったのでは。
携帯食としてクリ、干し肉が食べられた、三内丸山では15cmぐらいの袋が出てきて、その中からクルミの殻が出てきている。縄文人は、そういう物を入れて森に出かけていた。動物を捕る、森の恵みを集めてくる際の携帯食と考えられている。
砂糖的な甘味はなかったが、山ブドウのような酸味ではなかったか、ハチミツは考えられるが証拠はない。秋はサケ、いろんな食べ方をした、縄文を支えたのはサケだと言われたりした。しかし縄文遺跡からサケの骨がたくさん見つかる事は非常に少なかった。サケは、残りずらい魚で、捨てる所がない魚のため、土壌の分析で見つかるようになった。サケの利用には大きな労働力を必要とする、そのため、この辺は大きな集落、ネットワークがあったのだろう、早く出来上がっていたと思われる。調理の痕跡で珍しいのは、フグ、当然毒があるが石器で解体した時の痕が残されている。
〇食事の作法・・・食べ方
煮炊きした食材は、寄せ鍋の雰囲気だとすると小盛するような銘々皿は見つかって ない。個々の食器が明確にあるわけではない。オタマやスプーン状の木製品が見つ かっている。
〇食事はいろんな意味がある
縄文時代は、家族の時代と言われている、竪穴住居を見ると、三内丸山では、大き さがあまり変わらない、家族が一つのまとまり単位であった。縄文人の平均寿命か ら言うと三世代同居は珍しかったと思う。夫婦親子が一つのまとまり、そういう時 間は、単なる栄養補給ではなく、家族の団欒、お互いの絆を強める、食事の持つ意 味は、協同に反映されている。
〇酒を飲んだか縄文人
遺跡を調査すると、大量にタネが見つかる場所がある。これはニワトコと言う植物 のタネ、初夏に赤い実を付けるが食べられない。新芽を食べる事はあっても大量に 食べることはなかったが大量に見つかりそれと一緒にショウジョウバエのサナギが 出てくる。タネもヤマブドウ、キイチゴ、サルナシなどいろんな種類がブレンドさ れている、ショウジョウバエのサナギがあることは発酵物であり、諸説ある一つの 選択しとして、お酒を造った可能性はないのか議論されている。
※ニワトコ
人間が関わった人為的生態系が、長時間続いていたが、自然に依存していたわけでなく自分達でさまざまな働きかけをしていることが分かってきた。そうした生活のバランスが出来なくなった事もある。三内丸山は大きい集落だが自然とのバランスが寒冷化によりズレてしまったことにより、小さく分散した集落となった。
【まとめ】
①基本は植物食である。
⇒季節によって変化、旬な食材を利用加工して保存食もあり、地産地消の原点
②食材が加工される場合がある。
③基本的には「煮る」である。
④資源(食材)を徹底利用するのでゴミは少ないはず。骨のズイまで利用している。
⑤食の安心安全は生活の基本であり、食を通してコミュニケーションを図り、互いの結 び付きを確認し、より一層深める格好の機会でもあった。
食は単なる栄養補給でなく人間が社会で生きていく情報、経験、コミニュ形成をつくる事が調査でわかってきた。
土器は、縄文時代になって登場したとのこと、縄文人の発明もしくは使われてきた土器は、生活そのもの、定住化を促進し、細かい所では、狩猟採集から食料の保存、加工、調理、食器へと発展した。土器の起源も興味のある所だが、粘土質の土壌が火によって固まったのか?
いずれにしろ、縄文人が自然との繋がりを持ち、四季折々の植物や動物を食べ暮らしてきた、人為的な生態系を保ことにより縄文時代が長く続いてきた。単なる生きていくための食のみでなく、今日でも考えさせる内容であった。
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