爺の社会科見学

年金生活12年目に突入。好きな地理と写真を生かした、一味違ったブログを目指して。

オンライン講座4 「高僧・徳一と理想の仏都」を聞いて   ~仏像で訪ねる会津の仏教文化~

2021-03-20 18:46:10 | 日記

「退職者の会」で寺社めぐりをする事が多い、お寺では本堂の仏像に合掌するが、仏像を深く考えることはなく、彫刻の見事さにただ感嘆するのみであった。
テーマである「徳一」や、会津の「仏都」についても初めて聞く、今回の講演で、仏教の信仰対象である仏の姿を表現した仏像が,今後のお寺の参詣の際に,
仏像の見方が変わればと思う。

講師は、元福島県立博物館学芸課長 若林 繁氏である。

パート1 仏都・会津の礎を築いた高僧・徳一
平安時代前期、都が奈良から京都に移り、奈良の仏教界を批判する僧が現れた、贅沢を極めた僧侶などを嫌い高僧・徳一は、修行の旅にでた。東国に向かい落ち着いた先が会津であった。なぜ会津にと思うところであるが、会津が東北、関東、越後の中心に位置していた。都から離れ正常な地を求め、磐梯山もあり神聖な場所と思ったのだろう。徳一は、この地に徳一の考える仏教の理想郷を求めた、自身の修行の地であり、ここ会津の地から理想とする仏教を広めたいと願がった。彼は、それまで上層階級の文化・教養であった仏の教えを庶民に広めるため、会津一円の民衆教化に尽力した。

会津の大きいお寺は、徳一が開いたと言われる伝説が残っているが、確実なのは慧日寺(807年)と勝常寺の2ヶ寺である。特に慧日寺は、僧兵を擁する勢力を持ち寺院統治下のような会津となり、まさに仏教都市となった。


会津・湯川村の勝常寺には、希少な平安時代前期の仏像12体が伝わる。そのうち本尊である薬師如来と脇侍像の日光・月光菩薩は東北で初めて国宝に指定されており、会津仏教文化の至宝といえる。
  勝常寺の仏像は、都の仏師により造立されたと考えられている。平安前期から中期の造像はそうして始まり、やがて造像の技術が会津に根付いていく。徳一の業績とともに、仏都・会津の幕開けである。

 


パート2 一木造りにこだわり続けた会津の造像とその理由
平安時代後期に入ると、地方的な素朴な像が現れてくる。都の影響受けながらも在地の仏師による仏像が現れる。 一方で、中央で造られて当地に流入したものや、中央からこの地に来て活躍した仏師による仏像もある。
仏像が在地化し、仏像の種類も多様化した。京都の仏師・定朝が創出した寄木造りも「定朝様(じょうちょうよう)」と呼ばれ、定朝が確立し広まった、会津の地にも早い時期にもたらされた。  
反面、この時期に在地化した会津の仏像は、独特な個性を携えるようになる。その最も顕著な特色が、一木造りによる造像である。中央では寄木造りが主流だったが、会津では一木造りに対する強いこだわりが見られ、鎌倉時代まで根強く踏襲されるものが多い。※一木式寄木造りもあった。
典型的な定朝様の作例として中善寺の薬師如来坐像や、法用寺の金剛力士立像などが挙げられる。

しかし勝福寺の不動明王立像、毘沙門天立像、薬師寺の阿弥陀如来坐像など会津では一木造りに強い執着があった。
なぜ、一木造りが鎌倉時代まで続いたのか?
それは、徳一の仏像の造形に対する考え方が現れているのだろう、仏像の木を霊木とし仏教伝来以前から存在した神道での「神木」が一木造にこそ魂が宿るとし、主流の寄木造りのなかでも一木造りを基本とする造形にこだわったのではないか、一人の仏師の制作のため仏師の思いがこもるのだろう。

      


パート3 仏都会津めぐりをより深める仏像鑑賞術
仏像は時代により変遷する、会津の場合、平安前期の仏像は奈良時代の趣を携え、平安後期は定朝様の優美を漂わせる。鎌倉期の仏像、武士好みの力強く写実性に富んだ造形が流行する。また、仏像は種類により、それぞれに特有の意匠や造像作法がある。ここ会津では、平安・鎌倉時代の仏像の歴史的流れが見ることができる。

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