不肖コロ健、大学で教職に就いているような偉い医者ではないのだが、年に数度人様に講義をすることがある。講義する対象は学会/研究会で専門/非専門の医師であったり、医師以外の医療従事者であったり、医学生、看護学生であったりする。先日も勤務先の病院に実習にきている学生数名を相手に講義をする機会があった。
以前は、講義というもの、相手によって話すレベルが違っているものと思っていたが、実際のところどれも同じくらいに難しい。
学会などで“専門家”を相手にして話す場合、”相手もこっちもある程度のことがわかっている”という前提での話になる。これって、裏を返すと、「わかってないことって、いっぱいあるんだけど、そこは目をつぶって聞いて、あまりつっこまないで下さい」ということになる。
あと、「ここのところはよくご存知でしょうが、こっちのことはよく知らないんです」みたいなことにもなる。ある意味専門バカが話すことになる。
意地の悪い聴衆など、なんとか演者の鼻を明かしてやろうと奇抜な質問をしてくるものがいる。とくに、苦手な分野についてはあまり勉強しないので忘れてしまったことも多く、基本的な構造、発生についてもあやふやだ。だから、質問で、そういったところに引き込まれそうになった場合、以前は、立ち往生、なんてこともあったが、そういうことにはなるべく触れないような話の持っていき方、ちょっとだけずらして、知っている範囲で返事をすることができるようになってきた。
これが、医師以外の医療職の人向け、さらに、学生向けの話となるとまた違ってくる。
普遍的な話をしないといけないという意味でつらい。
学生に向けての話というのは基本中の基本をおさえておかなくてはいけない。
だが、科学の場合、基本中の基本こそあまりよくわかっていないし、理解するのは大変難しい。
この前発見された、ヒッグス粒子にしたって、ビッグバンのとき、すなわち宇宙のはじめからあったにもかかわらず、やっとその存在がわかってきたわけであるし、質量を与える、といわれても物理音痴の私からしてみれば、一体何のことかわからない。物理選択の高三の息子に説明を受けたが、あまりの理解の悪さに、途中で打ち切られてしまった。同じようなことは人間にもあって、発生も、発癌も、老化も、わかっているようでわかってないことがたくさんある。
というようなわけで、その日は、基本中の基本を、教科書をひっくり返して横須賀線の中で熟読して出勤した。おかげで、よく理解できていなかったことが、目からウロコが落ちるように良くわかった。すぐれた教科書というのは、その一文一文に深い洞察が含まれており、相互に有機的に結びついて、1冊の本となっている。
人にものを教えるということは、自分自身がよく理解できるということからとてもよいことだという。大学の先生達は、普段から学生にものを教えているから、物事を良く理解しているのだろう。
私がこれまでに学んできたこと、経験してきたことを自分の中で死蔵して死んでいくのももったいない。私も多少は大学人を見習って、もっと人に話をする機会、自分の学んできたことを伝えていく機会を探していこうと思うが、何度やってもそうなったらそうなったでとても大変なことになる。
以前は、講義というもの、相手によって話すレベルが違っているものと思っていたが、実際のところどれも同じくらいに難しい。
学会などで“専門家”を相手にして話す場合、”相手もこっちもある程度のことがわかっている”という前提での話になる。これって、裏を返すと、「わかってないことって、いっぱいあるんだけど、そこは目をつぶって聞いて、あまりつっこまないで下さい」ということになる。
あと、「ここのところはよくご存知でしょうが、こっちのことはよく知らないんです」みたいなことにもなる。ある意味専門バカが話すことになる。
意地の悪い聴衆など、なんとか演者の鼻を明かしてやろうと奇抜な質問をしてくるものがいる。とくに、苦手な分野についてはあまり勉強しないので忘れてしまったことも多く、基本的な構造、発生についてもあやふやだ。だから、質問で、そういったところに引き込まれそうになった場合、以前は、立ち往生、なんてこともあったが、そういうことにはなるべく触れないような話の持っていき方、ちょっとだけずらして、知っている範囲で返事をすることができるようになってきた。
これが、医師以外の医療職の人向け、さらに、学生向けの話となるとまた違ってくる。
普遍的な話をしないといけないという意味でつらい。
学生に向けての話というのは基本中の基本をおさえておかなくてはいけない。
だが、科学の場合、基本中の基本こそあまりよくわかっていないし、理解するのは大変難しい。
この前発見された、ヒッグス粒子にしたって、ビッグバンのとき、すなわち宇宙のはじめからあったにもかかわらず、やっとその存在がわかってきたわけであるし、質量を与える、といわれても物理音痴の私からしてみれば、一体何のことかわからない。物理選択の高三の息子に説明を受けたが、あまりの理解の悪さに、途中で打ち切られてしまった。同じようなことは人間にもあって、発生も、発癌も、老化も、わかっているようでわかってないことがたくさんある。
というようなわけで、その日は、基本中の基本を、教科書をひっくり返して横須賀線の中で熟読して出勤した。おかげで、よく理解できていなかったことが、目からウロコが落ちるように良くわかった。すぐれた教科書というのは、その一文一文に深い洞察が含まれており、相互に有機的に結びついて、1冊の本となっている。
人にものを教えるということは、自分自身がよく理解できるということからとてもよいことだという。大学の先生達は、普段から学生にものを教えているから、物事を良く理解しているのだろう。
私がこれまでに学んできたこと、経験してきたことを自分の中で死蔵して死んでいくのももったいない。私も多少は大学人を見習って、もっと人に話をする機会、自分の学んできたことを伝えていく機会を探していこうと思うが、何度やってもそうなったらそうなったでとても大変なことになる。
人にものを教える、とはいつの時も畏れ多いことですね。よくわかります。学生の立場で教わっていたときは気楽なものだと思っていたのに。とくにコロ健さんのように深くまじめに思索するひとは大変そうですね。
(注):宮島さん(カープの応援歌)
宮島さんの神主がおみくじ引いて申すには、今日もカープが 勝~ち勝~ち勝ち勝ち!
「ワッショイワッショイ」、今日もカープが 勝~ち勝~ち勝ち勝ち!「バンザ~イバンザ~イバンザ~イ!」
話を本題に戻しますて、大学での授業でしたが、大学在籍時に学生実習を一部、受け持ちましたが、面倒くさいのなんのって・・・。学生に変に嫌われたくもなかったし、学生に対しては甘いことばかりで、授業は適当でした。大学の教員が毎年、授業を行っているからといって(ほぼレコード講義に近い)、内容を良く理解しているのは、ごく限られた自分の専門分野のみですよ。ようするに、専門バカという感じかな?。大学では通常は忙しい(ルーチンワークをこなし、かつ大学で業績を出そうと思えば)ので、学生をまともに相手にしている暇はなかったですよ。自分の周りで、比較的に学生の面倒見のいい先生の大部分は、教室では所謂、“○X教室、paper less”軍団と揶揄されていたヒト達でした。懐かしい思ひ出です(回想)。
今日は、Gが負けて(といっても主力温存なので仕方ないのか?)、ちょっとガッカリしたのでこのへんで。オヤスミナサイ。