私コロ健は朝日新聞の購読者であり、天声人語はほぼ毎日読む記事のひとつである。天声人語子が日々あれこれ思うことを書き綴っているという意味では、こんきもと同じブログである。同じブロガーとして、ライバルというわけではないが、新聞休刊日に休める天声人語子のことをうらやましく思うことがないわけではない。
それはさておき、天声人語に興味深い内容、共感できる内容、疑問に思う内容があればそれを引くこともある。トラックバックである。今日もそんな記事があった(文末参照)。
今日のテーマは「キレやすい中高年男性」についてであった。この、キレやすい、というか怒りやすいというのは、こんきもの重要なテーマの一つ、というか私コロ健、人生最大の悩みの一つである。
ついこの間も、心が乱れてしまうことをつらつら訴えてしまったが、私と同じような中高年男性というのはそこらへん、どこにでもいるようである。
私の場合、さすがに”怒鳴る”ようなことはしていないと思っているが、しょっちゅう心の中で腹を立てしまうし、目に余ることであればやっぱり直接注意する。
つい先日、病院の手前の公園のテニスコートの横の「禁煙」の看板の前でタバコを吸っている若者数人に向かって、20メートルほど離れたところにある喫煙所でタバコを吸うように言った。
また、数年前であるけれど電車で靴を履いたままシートに登っている子供の靴を脱がせるように親に向かって注意したこともある。私は声が小さくはないほうなので、こういったとき怒鳴っているように見えやしないかと、この文章を読んで心配になった。
たとえば、私に言われても禁煙の看板の前でタバコを吸い続けながら、「あれ?ここ禁煙になったんですか?」と私に言い返してきた若者達は、公共施設内で禁煙の場所というのは、タバコを吸ってはいけない場所ということがわからずに、
「なに、あのジジイ、キレやがって」と思ったかもしれない。
靴を履いたままシートに座って外を見ていた子供の父親は、シートに登る前に靴を脱がせるのが最低限のマナーであるとは考えずに、「なんだ、このクソオヤジ、今、靴を脱がせようと思っていたところなのに」と思ったかもしれない。
私は、ただのキレた口うるさいオヤジだろうか?
怒鳴る、キレる、というのは地震雷火事親父とも言うように、中高年男性の専売特許のようなものだった。暴君のごとく振る舞う理不尽なオヤジはいただけないが、なんに対しても見て見ぬ振りのオヤジこそが歓迎されるのか。
「最近の大人は無関心で、悪いことをしているのを見ても注意するような人がいない」
「ダメなものはダメと、ちゃんと言ってくれる人がいない」
などと、都合のいい時だけそう言う。
感情の堤防を守らなくてはならないことなど、よくわかっている。わかっていたって、還暦も過ぎれば耳もずいぶん遠くなって、大声になってしまう人だって大勢いるはずだ。
天声人語子に逆らうつもりはさらさらないが、「他山の石」としてあげつらわれたおじさん達の心の声を代弁することも必要ではなかろうか。言われた側はつらかったろうが、言われる理由があったのと同じで、言った側にだって、そう言わざろう得なかったやむにやまれぬ事情があったのだと思う。
そもそも、人に注意をする、などということ、誰が好き好んでするだろうか。
なにをもって、「刹那(せつな)的で貧相な怒気」を定義しているのか。
かつて、毎日新聞の編集者が片瀬江ノ島の駅前で暴走族に暴走行為をやめるよう注意したところ、殺されてしまったという痛ましい事件があった。これも鉄パイプを持って暴走族に注意しようとした”キレたオヤジ”が悪かったのだろうか。ものごとに、どれは良くてどれは悪いというのは無い。
今日の天声人語の記事で、また一人“キレやすい”と称される、少しだけお節介なオヤジが減ったに違いない。
そして、傍若無人な人がまた一人、いや数十人数百人増えることになる。
オヤジ達だって、たくさん悩んでいるのだ。
天声人語もこんきもと同じブログなのだから、言いたい放題なのをダメとはいえないが、人を傷つけて傷つく人がいるということを忘れないで欲しい。
それとも、私のこの記事も「刹那(せつな)的で貧相な怒気」によるものとでも看破されるか。
朝日新聞 2012年7月13日(金)付 天声人語
懐かしの昭和30年代は、活気とともに、どこか殺気立っていた時代かもしれない。作家の幸田文が上野駅の混雑を書いている。「喧嘩(けんか)をしにでも出掛けるようなトゲトゲした旅行人がいっぱい」だった▼切符を買っていると背後から「グズっか(ぐずぐす)しやがって」とののしられ、小突かれた。振り向くとイライラの見本みたいな「男の古いの」がにらんでいたそうだ。以来半世紀がたつが、どうも中高年の男性はキレたり怒鳴ったりしやすいようだ▼その手の話が時々声欄に載る。記憶に残るのは一昨年。図書館で体験学習の小学生が貸し出し係でいるのに、司書に「急いでるんだ。早くしろ」と荒く言い、周囲の空気を凍らせた初老がいたそうだ▼別の投書には、JRの電車内でやはり初老の男に怒鳴られ、震えている母親を見たとあった。ベビーカーの幼子(おさなご)の足がズボンに当たっていたらしい。言った側は忘れても言われた人の傷は深い▼感情を止める堤防が低くなって、たちまち洪水を起こしてしまう。喜怒哀楽の「怒」は大切な感情だが「キレる」のとは違う。刹那(せつな)的で貧相な怒気がここ、そこに潜む社会はぎすぎすと寒い▼週刊朝日の名編集長だった扇谷正造は「一怒一老一笑一少」の言を好んだ。一度怒れば一つ老い、一度笑えば一つ若返る。還暦を過ぎて大声で怒る自身への戒めだったそうだ。きのうの通勤途中、駅員さんを怒鳴るわが同年配を見てこのコラムを書いた。他山の石に事欠かないのが、やりきれない。
それはさておき、天声人語に興味深い内容、共感できる内容、疑問に思う内容があればそれを引くこともある。トラックバックである。今日もそんな記事があった(文末参照)。
今日のテーマは「キレやすい中高年男性」についてであった。この、キレやすい、というか怒りやすいというのは、こんきもの重要なテーマの一つ、というか私コロ健、人生最大の悩みの一つである。
ついこの間も、心が乱れてしまうことをつらつら訴えてしまったが、私と同じような中高年男性というのはそこらへん、どこにでもいるようである。
私の場合、さすがに”怒鳴る”ようなことはしていないと思っているが、しょっちゅう心の中で腹を立てしまうし、目に余ることであればやっぱり直接注意する。
つい先日、病院の手前の公園のテニスコートの横の「禁煙」の看板の前でタバコを吸っている若者数人に向かって、20メートルほど離れたところにある喫煙所でタバコを吸うように言った。
また、数年前であるけれど電車で靴を履いたままシートに登っている子供の靴を脱がせるように親に向かって注意したこともある。私は声が小さくはないほうなので、こういったとき怒鳴っているように見えやしないかと、この文章を読んで心配になった。
たとえば、私に言われても禁煙の看板の前でタバコを吸い続けながら、「あれ?ここ禁煙になったんですか?」と私に言い返してきた若者達は、公共施設内で禁煙の場所というのは、タバコを吸ってはいけない場所ということがわからずに、
「なに、あのジジイ、キレやがって」と思ったかもしれない。
靴を履いたままシートに座って外を見ていた子供の父親は、シートに登る前に靴を脱がせるのが最低限のマナーであるとは考えずに、「なんだ、このクソオヤジ、今、靴を脱がせようと思っていたところなのに」と思ったかもしれない。
私は、ただのキレた口うるさいオヤジだろうか?
怒鳴る、キレる、というのは地震雷火事親父とも言うように、中高年男性の専売特許のようなものだった。暴君のごとく振る舞う理不尽なオヤジはいただけないが、なんに対しても見て見ぬ振りのオヤジこそが歓迎されるのか。
「最近の大人は無関心で、悪いことをしているのを見ても注意するような人がいない」
「ダメなものはダメと、ちゃんと言ってくれる人がいない」
などと、都合のいい時だけそう言う。
感情の堤防を守らなくてはならないことなど、よくわかっている。わかっていたって、還暦も過ぎれば耳もずいぶん遠くなって、大声になってしまう人だって大勢いるはずだ。
天声人語子に逆らうつもりはさらさらないが、「他山の石」としてあげつらわれたおじさん達の心の声を代弁することも必要ではなかろうか。言われた側はつらかったろうが、言われる理由があったのと同じで、言った側にだって、そう言わざろう得なかったやむにやまれぬ事情があったのだと思う。
そもそも、人に注意をする、などということ、誰が好き好んでするだろうか。
なにをもって、「刹那(せつな)的で貧相な怒気」を定義しているのか。
かつて、毎日新聞の編集者が片瀬江ノ島の駅前で暴走族に暴走行為をやめるよう注意したところ、殺されてしまったという痛ましい事件があった。これも鉄パイプを持って暴走族に注意しようとした”キレたオヤジ”が悪かったのだろうか。ものごとに、どれは良くてどれは悪いというのは無い。
今日の天声人語の記事で、また一人“キレやすい”と称される、少しだけお節介なオヤジが減ったに違いない。
そして、傍若無人な人がまた一人、いや数十人数百人増えることになる。
オヤジ達だって、たくさん悩んでいるのだ。
天声人語もこんきもと同じブログなのだから、言いたい放題なのをダメとはいえないが、人を傷つけて傷つく人がいるということを忘れないで欲しい。
それとも、私のこの記事も「刹那(せつな)的で貧相な怒気」によるものとでも看破されるか。
朝日新聞 2012年7月13日(金)付 天声人語
懐かしの昭和30年代は、活気とともに、どこか殺気立っていた時代かもしれない。作家の幸田文が上野駅の混雑を書いている。「喧嘩(けんか)をしにでも出掛けるようなトゲトゲした旅行人がいっぱい」だった▼切符を買っていると背後から「グズっか(ぐずぐす)しやがって」とののしられ、小突かれた。振り向くとイライラの見本みたいな「男の古いの」がにらんでいたそうだ。以来半世紀がたつが、どうも中高年の男性はキレたり怒鳴ったりしやすいようだ▼その手の話が時々声欄に載る。記憶に残るのは一昨年。図書館で体験学習の小学生が貸し出し係でいるのに、司書に「急いでるんだ。早くしろ」と荒く言い、周囲の空気を凍らせた初老がいたそうだ▼別の投書には、JRの電車内でやはり初老の男に怒鳴られ、震えている母親を見たとあった。ベビーカーの幼子(おさなご)の足がズボンに当たっていたらしい。言った側は忘れても言われた人の傷は深い▼感情を止める堤防が低くなって、たちまち洪水を起こしてしまう。喜怒哀楽の「怒」は大切な感情だが「キレる」のとは違う。刹那(せつな)的で貧相な怒気がここ、そこに潜む社会はぎすぎすと寒い▼週刊朝日の名編集長だった扇谷正造は「一怒一老一笑一少」の言を好んだ。一度怒れば一つ老い、一度笑えば一つ若返る。還暦を過ぎて大声で怒る自身への戒めだったそうだ。きのうの通勤途中、駅員さんを怒鳴るわが同年配を見てこのコラムを書いた。他山の石に事欠かないのが、やりきれない。
いろいろな人がいて、いろいろな思いが、考え方があると、改めて実感しました。
私も今ある幸せを大切にすることを、最低限の基準にして生きて行くようにします。
言われた側の解釈次第ですから…危険を伴いますね。あえて、見ないようにするというのもアリだと思います。
今は「天知る 地知る 我知る」という考えが無くなって来ていてる事が問題なのかも知れないですね。
それで世の中良くならなくとも、
家族だけは幸せです。
私は、良いと思って書いた事が…。
本当に、ごめんなさい……
キレる中年男性についてですが、私は、'キレる'ではなく'指導する'というのが望ましいと思います。
本当は、何にも言わなくても、一人一人に最低限の心得が必要だと考えますが…
心得てない若者が、指導された事に対し、逆ギレする事を社会が伝えるべきではないかと…。
しかし、そこにキレるや怒鳴る中年男性と表記されると、若者は、100%悪くない、という風になってしまいます!
ありがとうございます。
鎌倉の話、最近は犬の散歩話か、行政への不平ばかりですが、もう少し、楽しい話題も探して記事にしてみますね。
これからもよろしくお願いします。
何故なら、叱られた対象者の為にもなるし、周りの人にとっても迷惑になりませんので。
要は、愛情があるか自己中心的なものか?になりますでしょうか…
う~ん、コロ健先生、A日のT声人語と張り合うなんて流石ですね。感激しました!。明日は、プロ野球は午後2時開始のday gameなので、今晩はこのへんで。
きのう、このぶろぐをみつけてよませていただきました。
かまくらはすこしとちかんがあるのでなつかしいきもちです。
これからもたのしみにしています!!