神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

錦橋、神田橋

2019-08-24 05:41:47 | 平川・外堀1

 内堀にシフトする直前の一ツ橋まで戻って、日本橋川(外堀)のウォーク&ウォッチの再開です。ここまでほぼ南下していた日本橋川ですが、雉子橋のところで左折、右折のクランク、一ツ橋のところで左折と、徐々に東向きにシフトし、次の錦橋から神田橋にかけて→ 「段彩陰影図」から読み取れるように、江戸前島の微高地に差し掛かります。人工的に開削したといわれている区間です。なお、錦橋は江戸時代にはなく、昭和の初めに架けられたいわゆる震災復興橋です。左岸の錦小路がその名の由来で、最寄りの武家地に一色家の屋敷二軒があり、一色が二つで二色(錦)小路と呼ばれたともいわれています。

 

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    ・ 日本橋川  錦橋から下流方向で、ここは右カーブ、左カーブの蛇行が見られ、次の神田橋は見通せません。ほぼ直線の首都高とズレのあるのはこの蛇行のためです。

 次の神田橋は神田橋門のあったところで、 → 「別本慶長江戸図」には「芝崎口」と記されています。橋の南側に土井大炊頭利勝の屋敷があり、「武州豊島郡江戸庄図」(寛永9年 1632年)では、「大炊殿はし」となっています。土井大炊頭の屋敷は、神田明神旧地を賜ったもので、それに伴い同明神は駿河台に遷ったといわれています。現在地の外神田に改めて遷座したのは、元和2年(1616年)のことです。なお、神田橋を通る道筋(現本郷通り)は、上野寛永寺や日光東照宮参拝のための将軍御成道でした。

 

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    ・ 日本橋川  正面に見えるのが神田橋です。神田橋門は、ここまで見てきた雉子橋門、一ツ橋門など、多くの日本橋川筋にある門と同様、寛永6年(1629年)の天下普請によって修築されました。

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    ・ 神田橋  明治以降市電開通や震災復興などで度々改架されましたが、現在のものは昭和55年(1980年)の架け替えです。なお、右手奥あたりが神田明神の旧地といわれています。