神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

銭瓶橋

2019-08-29 07:01:01 | 平川・外堀1

 道三堀が外堀に合流する手前に架かる銭瓶橋は、「慶長見聞集」の「江戸の川橋にいわれ有る事」の中で、五つの橋の最後に登場します。「町には舟町と四ヶ市のあひにちいさき橋只一つ有。是は往ふくの橋也。文禄四年の夏の比、此橋もとにて銭かめをほり出す。永楽、京銭打交りて有りしを四ヶ市のもの共、此銭かめを町の両御代官板倉四郎右衛門殿、彦坂小刑部殿へさゝけ申たり。それより此橋を銭かめ橋と名付たり」 文中の舟町がどこにあるのかは、「江戸の川橋にいわれ有る事」の冒頭、「見しは今、江戸にいにしへよりほそきなかれたゝ一筋有。・・・・此水御城堀のめくりを流て舟町へおつる」から、平川の河口が日比谷入江なのか、それとも江戸湊なのかという、重要な問題と関わっています。

 

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    ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治16年測量)」  「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」収録の中部の一部で、同社の基準(72dpi)で掲載しています。 

 四ヶ市(四日市)は、「武州豊島郡江戸庄図」(寛永9年 1632年)によると、日本橋下流の右岸にあり、対岸は大船町(のち本船町)です。この大船町を舟町とすると、銭瓶橋は江戸橋のところにあったことになりますが、同図は現在位置に銭瓶橋を描いています。数十年の間に銭瓶橋を名乗る橋が変わったのか、それとも四日市町や舟町の場所が移動したのか、「東京市史稿市街篇」は、町のほうが移転したのではと推測しています。→ 「別本慶長江戸図」で、道三堀周辺は「町人住居」となっていますが、「武州豊島郡江戸庄図」では大半が武家地です。江戸城の拡張に伴い、押し出される形で移転したのかもしれません。

 

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    ・ 道三堀跡  一石橋から道三堀跡を振り返っての撮影で、奥の建物(日本ビルジング)付近に銭瓶橋が架かっていました。この区画は目下再開発中で立ち入りはできません。 

 <平川付替え論2>  平川付替えをめぐる二説のうち、現在有力なのは平川河口=日比谷入江説ですが、その内部にも付替えの経緯を巡って対立があります。道潅以降付替えの進んでいた平川に、江戸開府時に道三堀を連結したというもの、この場合の道三堀は辰の口・銭瓶橋間を指します。あるいは、江戸開府時にまず道三堀を開削し、それに平川を付替えて繋げたというもの、こちらの道三堀は、一般にいわれているのとは異なり、江戸前島の根元を江戸湊まで開削した、広義のものということになります。いずれにしても確定的な文献はなく、推測の域を出ない問題で、かの鈴木氏自身、初期の著作での道灌による付替え説から、家康入国時の付替え説にシフトしているように見えます。