神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

道三堀

2019-08-23 06:36:38 | 平川・外堀1

 和田倉堀が右折する通称辰の口から、道三堀跡を追って外堀、一石橋へと向かいます。といっても、道三堀のあったのは、丸の内、大手町という日本屈指のオフィス街です。明治42年(1909年)という早い段階で、市区改正計画の一環として埋め立てられてしまいました。流路と重なる道路も残されていないため、起点と終点以外は地図上でたどるしかありません。なお、名前の由来ですが、代々典薬寮の医官を勤めた今大路道三の屋敷が、堀の南側にあったため、道三堀、道三河岸と通称されるようになりました。もっとも、今大路家の元となった二代目、曲直瀬(まなせ)道三が、秀忠に招かれ京から下ったのは、慶長年間も中ごろのことなので、開設当時の名前は道三堀ではなかったことになります。

 

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図) /  日本橋」  道三堀は埋め立て中で、辰の口から永代通りまで流路がそのまま道路になっています。  

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    ・ 辰の口跡  和田倉堀と道三堀の接続する、通称辰の口のあったところです。「形ち龍の水を吐出すが如くなれば、龍の口と唱へしより、近き辺をもその名を襲ふと云」(「御府内備考」)

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    ・ 永代通り  大手町駅前交差点の北東角を写しています。正面に写る大手町野村ビルの裏側に、千代田区教育員会の→ 「道三橋跡」の解説プレートが立っています。

 道三堀には三本の橋が架かっていました。辰の口のところに一つ、一石橋手前の合流地点に一つ、そして中間にあった道三橋です。「昔此橋の南に、典薬寮の御医官今大路家の第宅ありしとなり。・・・・俗間伝云、ある時大将軍家道三をめさる、少し遅々したりければ御咎ありし時、御堀をめぐる故にその道遠と申上ければ、其後此橋をかけしめ給ふとなり」(「江戸名所図会」)  → 「慶長江戸図」にはなく、「武州豊島郡江戸庄図」(寛永9年 1632年)で初めて、南側の「道三」の書き込みと共に描かれており、年代的にはこのエピソードと附合しています。(合流地点にあった銭瓶橋については、該当個所で詳細します。)