神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

井の頭3の水路3

2017-09-11 07:37:21 | 神田川1

 仮に井の頭3の水路としたうち、直進するほうの続きで、すぐに井の頭公園通りを越えます。この通りは江戸から井の頭弁才天に参詣する際の順路で、「嘉陵紀行」の作者村尾嘉陵も人見街道から玉川上水端を歩いた後、「その三つ目の橋の所にて、上水端をはなれて右の方へ行道、左右みな並木あり、七八町にて井の頭弁財天の大門え出る」と書いています。なお、→ 「段彩陰影図」を見ると分かりますが、今回の谷頭は玉川上水の流れる台地の裾にあり、上水の流路を迂回させる原因となっています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 先ほどとは逆の右折、左折のクランクで、井の頭公園通りを越えます。

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    2. 左折の先も車止め、カラー舗装の路地が続きます。 

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    3. 左手50mほどのところを玉川上水が並行しています。→ 写真は松影橋下流の玉川上水です。

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    4. カラー舗装はこの車止めまでですが、正面に植込みが続いていて、水路はもう少し先からあったようです。

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    5. 谷頭を玉川上水の土手から撮ったもので、次回からたどるもう一つの水路の先端は、この通りの奥にあります。

井の頭3の水路2

2017-09-09 06:46:34 | 神田川1

 神田上水橋とあしはら橋の間で、右岸から合流する水路を追っての二回目です。井の頭線脇の開始地点から300m強のところで、右手からの合流がありますが、今回は取りあえず直進の方を追います。こちらは前回UPの→ 「地形図」には描かれていませんが、等高線の突き出す方向に車止め、カラーブロック(すぐにカラー舗装)のはっきりした水路跡の路地があと500mほど続きます。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 通りと交差する個所には車止めが設けられています。

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    2. 右手からカラー舗装の路地が合流しています。次々回ここに戻って右折する予定です。 

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    3. ほぼ直線ですが、微妙な蛇行も見られます。

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    4. 三鷹5小前です。突き当たって終了のようですが、道幅の変化から左折だと分かります。

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    5. すぐに右折です。その先も同じカラー舗装の路地が続きます。

井の頭3の水路

2017-09-08 07:04:48 | 神田川1

 旧無礼(牟礼)村のうち二つの上水に挟まれた区域(現三鷹市井の頭1~5丁目)には、神田川に合流する小支流の痕跡が二本残されています。いずれも玉川上水の流れる尾根の裾から発しており、その漏水の受け皿となっていた可能性もありますが、主要な水源は周囲の湧水や雨水だったものと思われます。あるいは、かっては大雨の時だけ流れるはけ水路だったのかもしれません。そのうち神田上水橋付近で合流していたものを、流域の現住所から仮に井の頭3の水路とし、今回から数回に分けて追います。ただ、昭和30年代に行われた宅地造成によって、合流地点の痕跡は失われています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「地理調査所発行の1/10000地形図(昭和33年修正 / 井之頭)」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. 神田上水橋とあしはら橋の間で、右岸から合流していますが、合流地点付近の痕跡はありません。

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    2. 井の頭線の線路脇の遺構と、道路を隔てて向かい合った車止め付きの路地から始めます。 

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    3. カラーブロックの水路跡が、それらしく微妙に蛇行しながら続きます。

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    4. このあたりはほぼ直線で、やや単調ですが迷うことはありません。 

親水エリア

2017-09-07 05:44:16 | 神田川1

 井の頭池を流れ出した神田川は、その先で井の頭線の鉄橋をくぐり、その北側を並行します。鉄橋から夕焼け橋までの200~300mは、神田川の全流域の中で最も自然河川らしい景観を保っています。ほとんどの流域がコンクリート三面張りの、いわば巨大なU字溝ですが、ここだけは土の岸辺が残っていて、石垣や木の柵によって護岸がされ、川の中には多くの石が点在しています。もちろん、人工のものではありますが、昭和60年前後の数年間にわたる住民運動の結果で、最近普及してきた親水護岸のはしりとなったエリアです。

 

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    ・ 神田川  水門橋の次に架かるよしきり橋からのショットです。神田川は明大前駅まで京王井の頭線とほぼ平行、途中で三度クロスしますが、ここが最初の鉄橋です。

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    ・ 神田川  鉄橋から次の夕やけ橋にかけてで、自然河川の面影を残すところです。一見無造作に置かれた石ですが、石伝いに渡ることのできるよう設計されています。 

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    ・ 神田川  夕やけ橋から下流方向です。神田川は次の神田上水橋の手前で井の頭公園から離れ、それに伴い護岸も石積みからコンクリートに変わります。

 <井の頭神田川を守る会>  下流からの三面張り工事がこの地点に到着したのは昭和57年(1982年)、残る上流数百メートルもコンクリート護岸とするため、岸辺の木400本が切られようとしていました。当時、都市の中小河川は排水溝とみなされ、いかに効率よく下流に水を送るのかが、河川行政の唯一の目的となっていた時代です。翌年には地域住民により「井の頭神田川を守る会」が結成され、4年間におよぶ都との折衝の末、今日見られる親水エリアが完成しました。昭和62年の完成記念式典で、東京都は防災一辺倒の河川行政ではなく、人と自然の触れ合う親水河川を大切にする旨、あいさつしたそうです。「神田川再生構想検討会」が平成16年に発表した報告書にも、こうした考えは反映されていて、神田川水系全体で30ヶ所近い水辺、親水拠点を整備することなどが提言されています。

 


無礼(牟礼)村

2017-09-06 07:37:00 | 神田川1

 「無礼村 無礼村は郡の東北によれり、・・・・開発の年代は伝えざれど新座郡小榑村より高橋図書と云もの来り発しとも云り、『小田原北条分限帳』に大橋九貫文無連高井堂とあり、無連は当村のことなり、其頃はかく書しなり、・・・・民家百五十軒、畑多して田少し、村内一條の街道あり、西の方下連雀村より入、東の方久ヶ山村に達す、村内を径ること凡二十町、道幅五間」(「新編武蔵風土記稿」) 大橋氏の持ち分とされる「無連高井堂」のうち、後者は無礼村の隣の隣にあたる高井戸村と目されています。また、最後の「村内一條の街道あり」は、村尾嘉陵も歩いた古道で現在の人見街道です。

 

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    ・ 「東京近傍図 / 布田驛」(参謀本部測量局 明治13年測量)の一部を加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。オレンジ線は市区境で、左上から時計回りに武蔵野市、杉並区、三鷹市、旧名は吉祥寺、久我山、無礼村です。 

 「多摩川上水 西の方吉祥寺、下連雀両村界より入、当村を流るゝこと凡二十町にして、東の方久ヶ山村に至る、井ノ頭上水 吉祥寺村と当村の界ひを流るゝこと十町許を過て、久ヶ山村に達す」 「新編武蔵風土記稿」は無礼村の水利の項で、このように記述していますが、井の頭池を流れ出した神田上水の流域は無礼村に属していました。昨日UPの→ 「神田上水絵図2」は両岸とも無礼村の持場としており、現在の武蔵野市と三鷹市の境も左岸段丘にあって、流域自体は三鷹市に属しています。

 

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    ・ 神田川  水門橋下から流れ出る神田川を振り返っての撮影です。右下隅の大きな石の碑には、「一級河川 神田川」と刻まれています。 

 <三鷹市>  三鷹市は無礼、大沢や玉川上水の開削によってできた新田である上、下連雀など旧10ヶ村から構成されています。明治22年(1889年)に北多摩郡三鷹村として成立したのが最初で、三鷹の名前はその時創作されました。このあたりの事情はお隣の武蔵野市と同じです。地名由来については、「鷹」は江戸時代、幕府や御三家の鷹場だったので分かるとして、「三」については諸説があります。世田谷、野方、府中の三領にまたがっていた、鷹場が三ヶ所あった、御鷹場の御を「み」と読んだなどで、最初のものが有力ですが、当時の記録が消失していて真相は不明です。なお、現行の住居表示で井の頭、牟礼となっているところが、ほぼ江戸時代の無礼村にあたり、三鷹村(のち三鷹町)当時は大字牟礼でした。 

 


井の頭池5

2017-09-05 06:38:45 | 神田川1

 「神田上水水元井之頭より目白下附渕まで絵図」には、井の頭池から神田上水が流れ出すところに石橋が架かり、その脇にも立て札が描かれています。これは弁天堂周辺のとは異なり、上水の保全を目的とした公的な立て札(高札)でした。「上水記」(寛政3年 1791年)は、天明8年(1789年)時点での神田川、玉川両上水の高札リストを載せていますが、うち「井之頭池上水口北方高札」の文言は、「定 此池之内並上水道におゐて、魚鳥を取、水をあひ、ちり芥捨輩あらば、曲事たるへき者也」となっています。なお、神田上水関係では他に、淀橋、小滝橋、田島橋、面影橋の際と大洗堰上流の水神前、そして、大洗堰入口に立っていました。

 

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    ・ 「神田上水絵図2」  「上水記」に収録された「絵図」中、神田上水が流れ出す水門周辺をイラスト化したもので、前回UPのと連続しており、左下の溝様の個所は「玉川助水路から堀」です。 

 こうした高札の管理も持場村の仕事でした、ただ、この個所は無礼村の持場を現わすオレンジ線の手前に位置し、どこが管理していたかはよく分かりません。ちなみに、井の頭池の草刈りは両岸の吉祥寺、無礼両村の担当で、やはり普請方の見分も行われました、一方、水門や柵の普請、修繕は江戸市中の水道組合が負担していたようです。なお、「絵図」のもう一つの注目は、石橋先で右岸に分岐している水路です。無礼村(牟礼村)の田用水かと思われますが、その旨の記載がないため断定できません。

 

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    ・ 水門とひょうたん橋  現在の井の頭池の最下端にも水門があります。ます。ただ、その先にはもう一つ小さな池(ひょうたん池)があり、水門から神田川が直接流れ出す構造ではありません。 

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    ・ 神田川  ひょうたん池の先にかかる水門橋から流れ出る神田川です。一日に最大千トンの水が流出しているそうですが、千川上水の処理水、7千トンを放出している → 善福寺川に比べると、水量も水勢もだいぶ劣ります。

井の頭池4

2017-09-04 06:26:30 | 神田川1

 前々回UPの→ 「江戸名所図会」のうち、弁天島周辺の→ 拡大図を見ると、三本の立て札が描かれています。弁財天の別当だった大盛寺の立てたもので、左下から右にかけて家康がお茶を立てた湧水「お茶ノ水」、家光が楊枝をさしたところ根付いたという「御楊枝柳」、やはり家光が井の頭の文字を刻んだ「辛夷(こぶし)の木」の解説プレートです。注目は「お茶ノ水」の場所で、弁財天を祀る島と半島状に突き出す中之島のほぼ真ん中にあり、この事情は「上水記」添付の「神田上水水元井之頭より目白下附渕まで絵図」でも変わりません。

 

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    ・ 「神田上水絵図1」  「上水記」(寛政3年 1791年)に収録された「絵図」中、冒頭に描かれた井の頭池、弁天堂付近をイラスト化したものです。

  「上水記」もまた「井之頭の池建札三枚左の如し」として、その内容を各々紹介していますが、うち「お茶の水」に関する記載は次のようなものです。「井の如くかまへたる所池の汀に建札 東照大権現様 御茶之湯被為遊候せつ御茶之水に御挹被為遊候井口と申ハ即是也」 なお、現在「お茶の水」との看板のあるのは、中之島の反対側の切れ込みの先端で、場所が移転していますが、その間の事情を記したものは未読です。ただ、この「上水記」の図の描き方からも、当時から切れ込みの先端にも湧水があり、池へと流れ込んでいたのは容易に想像できます。

 

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    ・ 中之島  井の頭池の西半分を二分する出島には、自然文化園の分園が設けられています。その根元のこのあたりに、本来の「お茶の水」はあったのでしょうか。

 <玉川助水路から堀>  上掲「絵図」の池畔に延びる「玉川助水路から堀」に注目です。300mほど南を並行する→ 玉川上水から助水を得ていたが、この当時すでに遺構となっていたのでしょう。明和9年(1772年)に神田上水を田用水として利用している多摩郡六ヶ村(上、下高井戸、永福寺、中野、久我山、雑色)に関し、上水使用料を納めていない事情を調査した一文がやはり「上水記」に収録されています。その中に「三拾四五年以前神田上水元水勢弱相成候ニ付玉川上水請負人江相対仕玉川上水江加候儀有之」との一文があり、あるいはこの際開削した助水路かもしれません。この時は玉川上水分の水料のみ納めたが、「其後右分水相止神田上水許引受候ニ付」、元通り水料を納めなくなりました。

 


井の頭池3

2017-09-02 07:02:09 | 神田川1

 「慶長十一年大神君適(たまたま)こゝに至らせ給ひ、池水清冷にして味ひの甘美なるを称揚し給ひ、御茶の水に汲せらる。又寛永六年大将軍家こゝに渡御なし給ひ、深く此池水を愛させられ、大城の御許に引せらるべき旨鈞命ありて、御手自池の傍なる辛夷の樹に、御手柄をもて井頭と彫付たまふ、是より後此池の名とす。承応年間、官府より井頭の水道を開かせられ、初めて神田に引給ふ。故に神田上水の称あり」(「江戸名所図会」) 最後の承応年間は玉川上水との混同で、神田上水の開削はより以前ですが、ただ、その年代、経緯に関しては二つの説(伝承)が混在しています。

 

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    ・ お茶の水  「その昔、当地方へ狩に来た徳川家康が、この湧き水の良質を愛してよく茶をたてました。以来この水はお茶の水と呼ばれています」との、東京都の解説プレートが立てられています。  

 一つは天正18年(1690年)江戸開府の際、三河餅を考案したことでも有名な大久保主水によって開拓されたとするもので、「東京市史稿上水編第一」(大正8年 1919年)は、この立場から史料を構成しています。慶長11年(1606年)、家康は井の頭池を訪れた際、茶を立て三河餅を食し、使用した茶臼は池畔の大盛寺(井の頭弁財天別当)に、茶釜は主水に賜ったとの後日譚も伝わっています。これに対し、慶長ないし寛永年間、神田上水水元役内田家の祖、武州玉川辺之百姓六次郎によって開拓された、という説もあり、こちらは「上水記」に収録の内田茂十郎の書上が根拠となります。ただ、水元復帰を願い出る趣旨で祖先の功績を誇張し、一方、証拠は明暦の大火で焼失したとしています。

 

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    ・ (伝)拝領茶釜  大久保主水が徳川家康から拝領と伝えられる茶釜で、「東京市史稿上水編」に掲載されていて、サイズは高さ6寸6分、口径5寸5分などとあります。

 大久保主水が責任者となり、六次郎が現場で補佐した、との折衷案も考えられます。三河の武士だった大久保主水が着任早々、すべてを取り仕切ったとするのには無理があり、また、玉川、千川上水などの諸例から、水元役を任されたからには何らかの功績があったはず、と考えるのが自然なこともあるのでしょう、現在目にすることのできる文献からは、最も合理的な解釈のようにも思えますが、いずれにしても決め手を欠いていて、軽々に決着のつく問題ではないようです。ただ、遅くとも寛永年間(1624~44年)の初めには、関口で分水、白堀で水戸藩小石川邸に入るといった、神田上水の基本形が完成したものと思われます。(水戸藩小石川邸の成立、家光の井の頭池命名の伝承などから、寛永6年とする見解も有力です。)

 


井の頭池2

2017-09-01 06:37:02 | 神田川1

 「井ノ頭池 すべて二万坪許の池なりと云、一円に葦生茂れり、往古はこの池を神箭の水と呼びしを、大猷院殿この辺御遊覧のおりから当所にわたらせたまひて、此池は江戸のほとりの井の頭なりと上意ありしにより、今に名にせりと云、此池の内に弁財天、聖天の両社ありて、井ノ頭を冠りとのぶれど、其社地は無礼村の地に入れり」(「新編武蔵風土記稿」) おそらく、弁天堂の別当だった大盛寺が牟礼村に属していた関係でしょう。これに対し池自体は→ 「三郡村絵図」にもあるように、吉祥寺村に属していました。この井の頭池の記述も、吉祥寺村の水利に関する項目の中で扱われています。(どのような経過によってかは不明ですが、現在は池全体が三鷹市に属しています。)

 

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    ・ 「江戸名所図会 / 井頭池 弁財天社」  「井ノ頭池 神田上水の源なり。長さは西北より東南へ曲りて三百歩ばかり、巾は百歩あまりあり。池中に清泉湧出する所七所ありて、旱魃にも涸る事なし、故に世に七井の池とも称ふ」  

 池の大きさについては「上水記」(寛政3年 1791年)が、吉祥寺村名主の具申として「此池反別五町三反四畝余・・・・此坪数壱万六千四十一坪」という数字をあげています。「遊歴雑記」(文化11年 1814年)も、「此池、五町三反四畝余とあり、坪数にして壱万六千四拾壱坪ありとかや」と書いていて、あるいは、流布していた数字かも知れません。およそ5.3万平方メートルですから、現在の4万数千平方メートルより大きめですが、「東北の方池辺なだらかにして広けれど、葭の類生繁り、足元しるく、葭の伐株にて足をいため、通行成りがたし」(「遊歴雑記」)とあるように、弁財天の祀られている池の南西以外は、正確な面積が出るほど整備はされていなかったものと思われます。 

 

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    ・ 井の頭弁財天  「井頭弁財天 牟礼村にあり、井頭の地霊にして中島に宮居す、別当は天台宗にして大盛寺と号す」(「江戸名所図会」)

 <弁天社>  「弁財天社 除地、一町、井ノ頭の池の内にあり、縁起に云、当社は建久八年源頼朝平家追悼の祈願に因て、建立せし所にて、其後正慶二年新田義貞鎌倉方と対陣の時も、祈誓ありてついに北条高時を亡せしとぞ」(「新編武蔵風土記稿」) 源氏の武将とのかかわりはさらに古く、社伝によると天慶年間(938-946)関東源氏の祖、源経基に始まっています。源氏を称していた徳川将軍家とのかかわりも深く、家康は井の頭池の湧水「お茶の水」でお茶をたて、3代家光は鷹狩りでたびたび訪れ、「井の頭」の名前を付けと、エピソードにことかきません。江戸時代も中ごろになると、神田上水源の水神として、また音楽、芸能の守護神として、江戸庶民の信仰対象となり、また絶好の日帰りの行楽スポットでもありました。