神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

井の頭池3

2017-09-02 07:02:09 | 神田川1

 「慶長十一年大神君適(たまたま)こゝに至らせ給ひ、池水清冷にして味ひの甘美なるを称揚し給ひ、御茶の水に汲せらる。又寛永六年大将軍家こゝに渡御なし給ひ、深く此池水を愛させられ、大城の御許に引せらるべき旨鈞命ありて、御手自池の傍なる辛夷の樹に、御手柄をもて井頭と彫付たまふ、是より後此池の名とす。承応年間、官府より井頭の水道を開かせられ、初めて神田に引給ふ。故に神田上水の称あり」(「江戸名所図会」) 最後の承応年間は玉川上水との混同で、神田上水の開削はより以前ですが、ただ、その年代、経緯に関しては二つの説(伝承)が混在しています。

 

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    ・ お茶の水  「その昔、当地方へ狩に来た徳川家康が、この湧き水の良質を愛してよく茶をたてました。以来この水はお茶の水と呼ばれています」との、東京都の解説プレートが立てられています。  

 一つは天正18年(1690年)江戸開府の際、三河餅を考案したことでも有名な大久保主水によって開拓されたとするもので、「東京市史稿上水編第一」(大正8年 1919年)は、この立場から史料を構成しています。慶長11年(1606年)、家康は井の頭池を訪れた際、茶を立て三河餅を食し、使用した茶臼は池畔の大盛寺(井の頭弁財天別当)に、茶釜は主水に賜ったとの後日譚も伝わっています。これに対し、慶長ないし寛永年間、神田上水水元役内田家の祖、武州玉川辺之百姓六次郎によって開拓された、という説もあり、こちらは「上水記」に収録の内田茂十郎の書上が根拠となります。ただ、水元復帰を願い出る趣旨で祖先の功績を誇張し、一方、証拠は明暦の大火で焼失したとしています。

 

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    ・ (伝)拝領茶釜  大久保主水が徳川家康から拝領と伝えられる茶釜で、「東京市史稿上水編」に掲載されていて、サイズは高さ6寸6分、口径5寸5分などとあります。

 大久保主水が責任者となり、六次郎が現場で補佐した、との折衷案も考えられます。三河の武士だった大久保主水が着任早々、すべてを取り仕切ったとするのには無理があり、また、玉川、千川上水などの諸例から、水元役を任されたからには何らかの功績があったはず、と考えるのが自然なこともあるのでしょう、現在目にすることのできる文献からは、最も合理的な解釈のようにも思えますが、いずれにしても決め手を欠いていて、軽々に決着のつく問題ではないようです。ただ、遅くとも寛永年間(1624~44年)の初めには、関口で分水、白堀で水戸藩小石川邸に入るといった、神田上水の基本形が完成したものと思われます。(水戸藩小石川邸の成立、家光の井の頭池命名の伝承などから、寛永6年とする見解も有力です。)