神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

井の頭池4

2017-09-04 06:26:30 | 神田川1

 前々回UPの→ 「江戸名所図会」のうち、弁天島周辺の→ 拡大図を見ると、三本の立て札が描かれています。弁財天の別当だった大盛寺の立てたもので、左下から右にかけて家康がお茶を立てた湧水「お茶ノ水」、家光が楊枝をさしたところ根付いたという「御楊枝柳」、やはり家光が井の頭の文字を刻んだ「辛夷(こぶし)の木」の解説プレートです。注目は「お茶ノ水」の場所で、弁財天を祀る島と半島状に突き出す中之島のほぼ真ん中にあり、この事情は「上水記」添付の「神田上水水元井之頭より目白下附渕まで絵図」でも変わりません。

 

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    ・ 「神田上水絵図1」  「上水記」(寛政3年 1791年)に収録された「絵図」中、冒頭に描かれた井の頭池、弁天堂付近をイラスト化したものです。

  「上水記」もまた「井之頭の池建札三枚左の如し」として、その内容を各々紹介していますが、うち「お茶の水」に関する記載は次のようなものです。「井の如くかまへたる所池の汀に建札 東照大権現様 御茶之湯被為遊候せつ御茶之水に御挹被為遊候井口と申ハ即是也」 なお、現在「お茶の水」との看板のあるのは、中之島の反対側の切れ込みの先端で、場所が移転していますが、その間の事情を記したものは未読です。ただ、この「上水記」の図の描き方からも、当時から切れ込みの先端にも湧水があり、池へと流れ込んでいたのは容易に想像できます。

 

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    ・ 中之島  井の頭池の西半分を二分する出島には、自然文化園の分園が設けられています。その根元のこのあたりに、本来の「お茶の水」はあったのでしょうか。

 <玉川助水路から堀>  上掲「絵図」の池畔に延びる「玉川助水路から堀」に注目です。300mほど南を並行する→ 玉川上水から助水を得ていたが、この当時すでに遺構となっていたのでしょう。明和9年(1772年)に神田上水を田用水として利用している多摩郡六ヶ村(上、下高井戸、永福寺、中野、久我山、雑色)に関し、上水使用料を納めていない事情を調査した一文がやはり「上水記」に収録されています。その中に「三拾四五年以前神田上水元水勢弱相成候ニ付玉川上水請負人江相対仕玉川上水江加候儀有之」との一文があり、あるいはこの際開削した助水路かもしれません。この時は玉川上水分の水料のみ納めたが、「其後右分水相止神田上水許引受候ニ付」、元通り水料を納めなくなりました。