神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

久我山村

2017-09-28 06:22:21 | 神田川1

 「久ヶ山村は、郡の東にあり、江戸日本橋より行程凡五里余、民家六十四烟、・・・・東西凡十二町余、南北十町許、畑多く、田少なし、村の中通り東西へ低、南北の方高く、この中通りの低き所は神田上水路にて、土性は黒土なり、水旱の患あり、村内一條の往還あり、西の方無礼村より東の方上高井戸村に通ず、村にかゝること凡十二町、道幅三間許、是を江戸道と云」 「新編武蔵風土記稿」の記述です。最後の「村内一條の往還あり」は、牟礼村のところでも言及されていた古道ですが、神田川を越えるところは「東京近傍図」に書き込んだようにショートカットされ、現在は人見街道と呼ばれています。

 

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    ・ 「東京近傍図 / 布田驛」(参謀本部測量局 明治13年測量)の一部を加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。オレンジ線は市区境で、同細線は高井戸村当時の村、大字境です。

 久我山の地名由来については不明ですが、陸地や空閑地を意味する「くが」との関係が指摘され、また、「やま」は高低とは無関係に樹木の繁っているところなので、このことから、雑木林の中の空地、武蔵野の森林を切り開いたところ、とする説が主張されています。ただ、「杉並風土記(下)」(平成元年 森泰樹)によると、かっては「こがやま」と発音されていたのが、昭和8年(1933年)に帝都電鉄(現井の頭線)が開通、その駅名に「くがやま」と振り仮名がつけられ、それが普及したとする古老の証言もあります。

 

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    ・ 稲荷神社  「除地、二段五畝十五歩 堂屋鋪にあり、・・・・前に鳥居をたつ、石段鳥居の外に三級内に二十級あり、村内の鎮守」(「新編武蔵風土記稿」) 鳥居前の石段は→ こちらです。

 <人見街道>  現在人見街道と呼ばれているのは、浜田山駅前で井の頭通りから分岐、府中市で新小金井街道に接する、延長12kmの都道の名称です。終点付近が人見村と呼ばれたことにちなみ、昭和59年(1984年)に採用されたものです。ただ、杉並、世田谷の区境から現人見街道に連続する通りが、元々人見街道と呼ばれていた関係で、「杉並風土記(下)」(平成元年 森泰樹)によると、採用当時は若干の疑義と混乱があったようです。そのためでしょう、人見街道を紹介する解説プレートには、「久我山街道と呼ばれていたが、昭和59年に東京都が決めた府中市人見に至る道」といった書き方がされています。