神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

井の頭池2

2017-09-01 06:37:02 | 神田川1

 「井ノ頭池 すべて二万坪許の池なりと云、一円に葦生茂れり、往古はこの池を神箭の水と呼びしを、大猷院殿この辺御遊覧のおりから当所にわたらせたまひて、此池は江戸のほとりの井の頭なりと上意ありしにより、今に名にせりと云、此池の内に弁財天、聖天の両社ありて、井ノ頭を冠りとのぶれど、其社地は無礼村の地に入れり」(「新編武蔵風土記稿」) おそらく、弁天堂の別当だった大盛寺が牟礼村に属していた関係でしょう。これに対し池自体は→ 「三郡村絵図」にもあるように、吉祥寺村に属していました。この井の頭池の記述も、吉祥寺村の水利に関する項目の中で扱われています。(どのような経過によってかは不明ですが、現在は池全体が三鷹市に属しています。)

 

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    ・ 「江戸名所図会 / 井頭池 弁財天社」  「井ノ頭池 神田上水の源なり。長さは西北より東南へ曲りて三百歩ばかり、巾は百歩あまりあり。池中に清泉湧出する所七所ありて、旱魃にも涸る事なし、故に世に七井の池とも称ふ」  

 池の大きさについては「上水記」(寛政3年 1791年)が、吉祥寺村名主の具申として「此池反別五町三反四畝余・・・・此坪数壱万六千四十一坪」という数字をあげています。「遊歴雑記」(文化11年 1814年)も、「此池、五町三反四畝余とあり、坪数にして壱万六千四拾壱坪ありとかや」と書いていて、あるいは、流布していた数字かも知れません。およそ5.3万平方メートルですから、現在の4万数千平方メートルより大きめですが、「東北の方池辺なだらかにして広けれど、葭の類生繁り、足元しるく、葭の伐株にて足をいため、通行成りがたし」(「遊歴雑記」)とあるように、弁財天の祀られている池の南西以外は、正確な面積が出るほど整備はされていなかったものと思われます。 

 

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    ・ 井の頭弁財天  「井頭弁財天 牟礼村にあり、井頭の地霊にして中島に宮居す、別当は天台宗にして大盛寺と号す」(「江戸名所図会」)

 <弁天社>  「弁財天社 除地、一町、井ノ頭の池の内にあり、縁起に云、当社は建久八年源頼朝平家追悼の祈願に因て、建立せし所にて、其後正慶二年新田義貞鎌倉方と対陣の時も、祈誓ありてついに北条高時を亡せしとぞ」(「新編武蔵風土記稿」) 源氏の武将とのかかわりはさらに古く、社伝によると天慶年間(938-946)関東源氏の祖、源経基に始まっています。源氏を称していた徳川将軍家とのかかわりも深く、家康は井の頭池の湧水「お茶の水」でお茶をたて、3代家光は鷹狩りでたびたび訪れ、「井の頭」の名前を付けと、エピソードにことかきません。江戸時代も中ごろになると、神田上水源の水神として、また音楽、芸能の守護神として、江戸庶民の信仰対象となり、また絶好の日帰りの行楽スポットでもありました。