神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

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高円寺村

2016-10-25 07:40:48 | 桃園川2

 「当村古は小澤村と云、・・・・土人のいへるは、今の村名に唱え始めしいわれは、大猷院殿(三代将軍家光)しばしばこの村内高圓寺に御遊ありければ、世人高圓寺に御成ありなどいひしにより、いつとなく村名となりて古名は遂にうせはてしなりと、今は漸く小名にのこれり」(「新編武蔵風土記稿」) その小名、小沢については「南の方にて和田村の堺なり」と書いています。青梅街道に沿った一帯が村の発祥の地で、のち高円寺周辺に中心が移っていったものと思われます。小沢にある天祖神社(江戸時代は神明社)が「村の鎮守」とされているのもその証左でしょう。(高円寺に近い氷川神社も並んで鎮守とされ、明治に入るとが村社となって、無格社の天祖神社と立場が逆転します。)

 

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    ・ 「東京近傍図 / 板橋駅」(参謀本部測量局 明治14年測量)及び「同 / 内藤新宿」(明治13年測量)を合成、その一部を加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。

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    ・ 天祖神社  杉並区教育委員会の解説プレートによると、現在の拝殿は天保2年(1831年)に建てられたもので、大正15年(1926年)に大規模な改修がありました。

 「江戸名所図会」は桃園観音堂の項で、「土人は桃堂と称せり、同所高圓寺村の高圓寺といへる禅林に安置す」としたあと、割注で「むかしは大将軍家度々当寺へ立寄らせ給ひ、仮の御殿ありしかば、当寺の山号を御殿山ともとなえ侍るとなり。又当寺境内其頃は桃樹多かりしによりて、桃園と称すべき旨台命あり。其後享保に至り新に中野の地に桃園をうつし給ひ、田圃の間々に桃樹を多く栽しめ、桃園と命ぜられたりとなり。故に土人は当寺をさして桃園の旧地なりといへり」と付け加えています。桃園川の桃園も大元はこの高円寺に植えられた桃の木だったことになります。

 

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    ・ 高円寺本堂  宿鳳山高円寺は桃園川を左岸から望み、段丘斜面を後背地として建てられています。なお、家光ゆかりの御殿跡は左手奥あたりとされています。