神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

新堀用水6

2016-10-14 06:52:32 | 桃園川2

 分水口から成宗弁天池までの行程は、計画段階まで含めると三度の改変がありました。当初、善福寺川からの引水場所をめぐり、田端村広場堰とするか、下流の成宗村権現山堰にするかで、田端、成宗村と3ヶ村の間で駆け引きがあり、権現山堰から懸け樋によって弁天池に引き落とすことで、いったんは合意します。ところが、天保11年5月12日に現場を見分した代官中村八太夫の調停により、田端村広場堰からの引水へと急きょ変更されます。矢倉と通称される舌状台地を迂回するため、距離は遠くなりますが、高低差の関係で懸け樋を遣わなくて済み、それに、おそらく既存の用水路を利用できるためでしょう、その方が費用が節約でき、また田端、成宗両村にとっても、水損解消になるという理由からでした。

 

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    ・ 「段彩陰影図 / 新堀用水」(1/12000)  重ねた水路は「陸地測量部発行の1/20000地形図(明治42年測図) / 東京西近郊図」に描かれたもので、細部は明治期作成の「天保用水絵図」(「杉並区立郷土博物館常設展示図録」)を参考にしました。

 舌状台地を迂回するルートへの変更後、「武蔵国多摩郡馬橋村史」(昭和44年 馬橋村史編纂委員会)に引用されている「用水路引入自普請所諸入用取調帳」の記載によると、7月までは関係方面への根回しや土地買い上げに費やされ、8月に入って着工したものと思われます。8月29日に役人の見分があり、9月には諸費用の清算が行われています。青梅街道越えを含む前半の工事の3ヶ月に比べ、工期が大幅に短縮されていますが、これは一部既存の用水路を利用したためでしょう。「中野村外弐ヶ村用水路新規自普請諸入用取調書上帳」には、「成宗村字櫓下有来用水路堀土手繕獺穴埋立方」といった記載がみえます。

 

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    ・ 権現山堰付近  矢倉橋の手前です。権現山堰は左カーブ付近で右岸に成宗村用水を分岐する堰で、右岸段丘上の権現社(熊野神社)がその名の由来です。 

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    ・ 広場堰付近  大谷戸橋から下流方向で、左岸に田端村用水を分岐していました。「杉並の通称地名」(平成4年 杉並区教育委員会)によると、広い耕地の意で広町と呼ばれていたところです。