神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

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新橋

2019-09-06 06:01:46 | 平川・外堀1

 外濠川と合流後の汐留川を東に向かいます。土橋、難波橋(涙橋とも)の次が新橋です。「新橋 尾張町通り、出雲町と芝口町との間に架す。是芝口御門の橋なり。故に今尚石垣等そのまゝ存せり。御門を立てられし等の事は前巻古蹟の條に弁ず」(「御府内備考」) 日本橋を起点とする東海道(中央通り)の四番目(のち三番目)の橋で、「武州豊島郡江戸庄図」(寛永9年 1632年)にも、新橋と付記されているところです。日本橋、中橋、京橋に比べ新しく架けられた橋の意です。それが、宝永7年(1710年)に芝口門が当地に移され、芝口橋となりましたが、享保9年(1724年)に門は焼失し、以後再建されなかったため、当初の呼び名が復活しました。

 

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    ・ 「江戸名所図会 / 新橋 汐留橋」  注目は新橋・汐留橋間の左岸から合流している堀川で、その幅から三十間堀と通称されているものです。  

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    ・ 新橋  南詰の一角に保存された親柱越しの撮影です。この親柱は大正14年(1925年)、コンクリート橋に架け替えられた際のもので、橋自体は汐留川の埋め立てに伴い、昭和39年(1964年)に撤去されました。  

 三十間堀は上流部分の楓川とともに、 → 「段彩陰影図」から見て取れる江戸前島東岸の海岸線に位置しており、沖合を埋立てる際、海岸線に沿って埋め残した堀川と考えられています。汐留川との合流地点にある解説プレートによると、慶長17年(1612年)、江戸の船入堀を整備するため、西国大名に命じて完成、当初、堀幅が30間(≒54.6m)あったため三十間堀と呼ばれましたが、その後半分近くに縮小されました。戦後、戦災によって出た瓦礫により埋立てられ、昭和27年(1952年)には消滅しています。 

 

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    ・ 三十間堀跡  合流地点には中央区教育委員会の解説プレートが立っていますが、積み上げられた石は三十間堀の護岸に使用されていたもののようです。合流地点から三十間堀方向の写真は→ こちらです。