神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

和田倉堀

2019-08-22 06:45:38 | 平川・外堀1

 パレスホテル南で桔梗堀から分かれ、東に向かいすぐに右折して南下する和田倉堀がテーマです。 → 「慶長十三年江戸図」にも登場する和田倉(和田蔵)の名前は、家康入国以前からのものとの説もあるようですが、いずれにしても和田は海を表す古語「ワタ」、倉(蔵)は文字通りのもので、海(日比谷入江)に面した物資の集積場の意と思われます。特に、家康のお国入り直後は、江戸城に直結した荷揚げ場として、大いに賑わったであろうことは、「慶長七年江戸図」の日比谷入江に面した個所に、「蔵の御門」「一の蔵地」とあることからも、容易に想像できるところです。

 

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    ・ 和田倉堀  内堀通り越しのショットで、元は桔梗堀と連続していましたが、現在は内堀通りによって隔てられています。→ 正面奥が、道三堀と和田倉堀の接続する、通称辰の口のあったところです。  

 ただ、道灌時代ならともかく、江戸城と江戸市街の拡張期、日比谷入江だけでは手狭だったのでしょう。それに江戸城防衛、居住地造成の要請から、すでに日比谷入江埋立てが視野に入っていたのかもしれません。江戸前島東岸(江戸湊)経由での物資輸送の比重が高まり、江戸湊と和田倉をショートカットする運河、道三堀が開設されることになります。道三堀は江戸前島の根元を開削、その東岸の江戸湊(日比谷入江まで含めて広く江戸湊とする考えもあり)と西岸の日比谷入江をショートカットするもので、さらに隅田川東岸の小名木川に連続、旧利根川河口、房総方面の物資(行徳の塩など)を江戸城和田倉に集積する運河の機能を担いました。

 

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    ・ 和田倉堀  日比谷通りに面した辰の口跡から、和田倉門方向のショットです。なお、和田倉堀は和田倉門橋までで、それより先は→  馬場先堀となり、さらに日比谷堀へと向かいます。

 この道三堀が開削されたのは、家康のお国入り直後の最初の堀川開削工事によってとされ、「東京市史稿 市街篇」は天正18年(1590年)8月18日の「天正日記」、「御城下はしぶしんはじまる。ふないりぼりふしんはじまる」を引用、この船入堀を道三堀のこととしています。「唯今日本橋筋より道三河岸通りの竪堀のほられ候が初りにて候。夫より段々と竪堀横堀共ニ出来」 こちらはよく引用される「落穂集追加」の一節です。なお、竪横は江戸城に対してのもので、道三堀は江戸城に向かっており竪堀となります。

 


大名小路

2019-08-21 06:31:14 | 平川・外堀1

 大手門の先は桔梗堀、内桜田門(桔梗門)です。内桜田門は大手門と並び、下乗門経由で本丸に至る諸大名の登城ルートでした。太田道潅の桔梗紋が屋根瓦にあったことが、別名の由来ともいわれていますが、 → 「別本慶長江戸図」には吉祥門とあります。ところで、桔梗堀の途中で、左手に分かれるのが和田倉堀で、すぐに右折して馬場先堀、日比谷堀へと連続します。一方、桔梗堀のほうは右折、左折のクランクで西側にシフトしながら、蛤堀、二重橋堀をへて、やはり日比谷堀に合流します。こうして、左右に分かれた内堀に囲まれる区画は、東隣りの外堀との間の区画と合わせ大名小路と呼ばれ、幕府要職にある譜代大名の上屋敷が並んでいました。

 

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    ・ 「東京近傍図 / 麹町区」(参謀本部測量局 明治13年測量)の一部を加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。  

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    ・ 桔梗堀  桜田巽櫓のところで右折する桔梗堀です。正面奥の大名小路のうち、桔梗堀に近い一角には、幕末に京都守護職を勤めた会津藩の上屋敷がありました。

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    ・ 内桜田門  桔梗堀はここで終了します。奥は蛤堀で、天神堀と連続して、二の丸と三の丸を隔てていましたが、今はここから坂下門までの堀となっています。

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    ・ 大名小路跡  坂下門前から日比谷方向の内堀通りです。俗に西丸下と呼ばれる大名小路の中心で、幕閣の要職にある譜代大名は、任期中ここに屋敷を拝領しました。

本丸、天守台

2019-08-20 06:25:57 | 平川・外堀1

 大手門から本丸をめざして中の門まで来ました。その先を左手に進むと、石垣を見ながら上る坂があり、右カーブで上りきったところが本丸正門となる中雀門(ちゅうじゃくもん)です。大手三の門(下乗門)、中の門を駕籠で通過した御三家もここで駕籠から下りました。その先は視界が一気に開け、20ヘクタール近くある本丸跡です。一方、中の門を右手に折れると、二の丸のエリアに当たり、二の丸大奥や庭園がありました。左手には本丸を隔てる石垣に沿って白鳥堀があり、その先の→ 汐見坂を上るとやはり本丸に至ります。

 

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    ・ 中雀門  真鍮の化粧金具の鍮石(ちゅうじゃく)から、あるいは南面を守護する朱雀(すざく)の転訛といわれています。御書院番の番所があったことから書院門とも呼ばれました。

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    ・ 本丸跡  中雀門の先の芝生に覆われたフラットな空間ですが、かっては手前から表御殿、中奥、大奥の三つの区画に分かれていました。正面奥にチラッと見えるのが、本丸跡を唯一物語る天守台です。  

 20ヘクタール近い本丸の最深部に天守台が残されています。明暦の大火(1657年)によって全焼した天守を再建すべく築造されましたが、復興優先の政策変更により再建計画は取りやめになり、天守台だけが残されました。以後、富士見櫓が実質的な天守の機能を引き継ぎました。なお、江戸城天守は慶長、元和、寛永の各期に三度建てられました。寛永15年(1638年)、三代家光時代に完成した最後の天守は、幕府の権威を象徴する国内最大のもので、外観5層、内部6階、地上からの高さは58メートルありました。

 

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    ・ 天守台  花崗岩製で高さ11m、東西約41m、南北約45mあります。なお、寛永の天守台はやや高く13mほどあり、材質も伊豆石だったそうです。

大手門内

2019-08-19 06:18:20 | 平川・外堀1

 大手門から本丸までの寄り道です。右折、左折で大手門の枡形を抜けると大手三の門、御三家を除く大名諸侯がここで駕籠から降りたことから別名下乗門です。現在は埋め立てられましたが、大手堀の内側に天神堀から連続する堀があったところで、 → 「慶長十三年江戸図」には「大手土橋」と書き込みがあります。当時はここが大手門の機能をにない、その一つ外側の堀に「大橋」が架かっていたことになります。下乗門の枡形を抜けると二の丸のエリアですが、左手には鉄砲百人組が交代で詰める百人番所、右手は本丸に通じる中門です。

 

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    ・ 大手門(渡櫓門)  前回写真の高麗門に対し、内側の右手にある門は渡櫓門と呼ばれ、直角に配置されています。二つの門の間の、石垣で囲まれた四角い空間が枡形です。

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    ・ 大手三の門(下乗門)  大手門(渡櫓門)を出て左折した先にあります。かっては門の手前に下乗橋が架かり、右手天神堀、左手蛤堀を分けていました。  

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    ・ 百人番屋  下乗門の枡形を左折で抜けた先です。左手の百人番所には与力20人、同心100人からなる根来組、伊賀組など4組が交代で詰めていました。

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    ・ 中の門  百人番所の右手にあるのが中の門です。中の門の先を右手に折れると二の丸や白鳥堀、左手の坂を上ると中雀門を経て本丸に至ります。

大手堀、大手門

2019-08-17 06:34:38 | 平川・外堀1

 一ツ橋からの平川の推定流路上にある、大手堀が右カーブしているところに戻ります。そこから南に向きを転じ、400mほどで大手門です。 → 「慶長江戸図」のうち慶長7年のものには「御城入口門」、同13年のほうには「大橋」とあるところで、「慶長見聞集」の「御城の大手の堀に橋ひとつかゝりたり。よの橋より大きなれはとて是をは大橋と名付たり」も、やはり現在の大手門前に架かる橋のことと思われます。なお、「御府内備考」は「慶長見聞集」の別の個所を引用し、小熊、渡辺なる兵法者が、大橋の上で武芸を競いあったところ、「上聞に達し、家康様、将軍様御見物なされ候」とのエピソードを紹介、「此大橋といへるもの当所(大手門)なるべし」としています。

 

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    ・ 大手堀  右カーブで南下するところです。正面左手は大手町一丁目のオフィスビル群ですが、 → 「段彩陰影図」からも見て取れるように、江戸前島の付け根部分と目されています。

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    ・ 大手堀  平川の河口付近です。一度引用した「江亭記」の「城之東畔有河 其流曲折而南入海」に続き、高橋の名前が出てきますが、このあたりに架かっていたものと思われます。(常盤橋説、江戸橋説などもあります。)  

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    ・ 大手門(高麗門)  本丸のあった皇居東御苑は、月金を除き無料で公開され、ここ大手門をはじめ、平川門、北桔橋門から入退場することができます。

 <将門塚>  大手町一丁目のオフィス街の一角、夏の風物詩のカルガモ池のある三井物産ビルの裏手に、→ 将門塚と伝えられる旧跡があります。(塚は古墳といわれていますが、関東大震災で崩壊し現存しません。) 当地は天平2年(730年)創建と伝えられる神田明神の旧地でもあり、また天慶3年(940年)、平将門公を祀って津久戸明神(現築土神社)も創建されています。江戸の宗教的権威と政治、軍事拠点(江戸城)が、平川が日比谷入江に注ぐ河口をはさんで向き合っていたわけです。

 


清水門、牛ヶ淵

2019-08-16 06:17:21 | 平川・外堀1

  → 「別本慶長江戸図」で、竹橋(御内方通行橋)の上流に描かれているのは、堀というよりは、田安門下から発する自然河川のように見えます。その後拡張され清水堀となったところですが、清水堀、清水門の名前の由来、「往古、此辺より清水湧出しけるより御門の名とするよし、古老のいひ伝へなりと云」(「御府内備考」)を考え合わせると、この清水を水源とする小流れの可能性が考えられます。あるいは、竹橋下流の幅広の堀は、湧水を集めた溜池だったのかもしれません。

 

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    ・ 清水門橋  清水門に至る土橋です。手前は竹橋から続く清水堀、奥は田安門に至る牛ヶ淵です。なお、清水の名前は江戸城以前にあった清水寺に由来するとの説もあります。  

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    ・ 清水門  北の丸に入る門で、寛永元年(1624年)に安芸藩浅野家によって建造されました。現在のものは万治元年(1658年)の再建で、国の重要文化財です。 

 清水門に至る土塁でせき止められているのが牛ヶ淵です。「御府内備考」の引用する「江戸名所志」は、その名前の由来を次のように述べています。「牛ヶ淵 九段坂脇の御堀をいう。昔此処へ銭を積たる牛車落て、その牛死せしよりの名といふ」 なお、「江戸・東京の川と水辺の辞典」(2003年 鈴木理生)は、牛ヶ淵を江戸開府当初、飲料水用に設けられたダム湖としており、現在でも日に600トンの湧水が認められるそうです。

 

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    ・ 牛ヶ淵  清水門側からのショットで、正面の台上にあるのは日本武道館です。左折して田安門に至る区間の写真は、→ こちらでどうぞ。

竹橋

2019-08-15 06:47:50 | 平川・外堀1

 前々回引用した「慶長見聞集」の「江戸の河橋にいわれ有事」は、雉子橋、一ツ橋から大手橋へと向かう平川の推定流路を補強するはずですが、一つ大きな問題があります。同書は雉子橋、一ツ橋と大手橋の間に竹橋を挟んでいて、一本の流れを前提とすると相当不自然な蛇行を考えなければなりません。そこで、ここでは牛ヶ淵、清水堀を経て平川本流へと注ぐ小支流を仮定、竹橋はその流れに架かっていたものとしておきます。

 

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    ・ 竹橋  内堀通り竹橋交差点から、竹橋、紀伊国坂方向のショットです。左手は大手堀、本丸、右手は清水堀、北の丸にあたり、右手のエリアには東京国立近代美術館、国立公文書館、科学技術館などが建ち並んでいます。  

 なお竹橋の名前の由来については、「竹をあみて渡したる橋有。これをはすのこ橋、竹橋とも名付けたり」(「慶長見聞集」)とする説が一般ですが、「御府内備考」は「又一説に、竹橋は昔在竹橋といへり」と、異説を併記しています。後北条家の家臣、在竹某が近くに居を構えており、在竹橋と呼ばれていたが、のち竹橋と略されるようになったというものです。なお、 → 「別本慶長江戸図」では、田安門下から発する自然河川様の流れが、本丸を囲む堀に合流しており、その根元に橋が架かっています。これが竹橋と思われ、傍らには「御内方通行橋」と記されています。

 

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    ・ 平川堀  紀伊国坂を上って左手のショットで、正面は北桔橋(きたはねばし)門、その奥が本丸です。竹橋、北桔橋のラインが本丸への最短距離にあたり、帯曲輪、深い堀、桔橋と、防御上の工夫が随所に見られます。  

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    ・ 清水堀  竹橋から上流方向です。正面の高架は都心環状線、その先は左カーブで清水橋は見えません。なお、左手の石垣の上は北の丸で、右手奥200mほどのところには日本橋川に架かる雉子橋があります。  

平川門内

2019-08-14 06:16:12 | 平川・外堀1

 平川門(渡櫓門)をくぐるとすぐに天神堀です。三の丸と二の丸を隔てる堀ですが、南半分は埋め立てられています。名前は背後にある本丸への上り坂付近に、文明10年(1478年)、太田道灌によって創建された平河天神にちなんでいます。なお、平河天神は、慶長年間(1596~1615年)の江戸城拡張に際し、半蔵門外の現平河町に遷座しました。現在は→ 平河天満宮と名乗っています。このような歴史的経過のため、平川(平河)の名前が、江戸城をはさんで反対側に移り、ややこしいことになってしまいました。

 

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    ・ 平川門(高麗門)  橋の正面右手にある高麗門です。かの春日局が門限に遅れ、門前で一夜を明かしたとのエピソードもありますが。  

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    ・ 平川門(渡櫓門)  高麗門をくぐって左手にあるのが渡櫓門です。右手奥には帯曲輪(おびくるわ)門があり、これが不浄門とされます。

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    ・ 下梅林門  平川門をくぐると三の丸で、その先に右手平川堀、左手天神堀を隔てる下梅林門があります。石垣のみ残る門をくぐると二の丸です。

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    ・ 梅林坂  平河天神があったといわれる梅林坂で、坂上の上梅林門の先は本丸です。 なお、→ 「別本慶長江戸図」にも「梅ノ林」の書き込みがあります。

平川橋

2019-08-13 06:26:11 | 平川・外堀1

 元の平川の推定流路をたどり、外堀に架かる一ツ橋から内堀(大手堀)にシフトします。そこには平川橋が架かり平川門が設けられています。「平河御門 平河口とも云、昔平川村ありて、其出口なればかく名付しなるべし」(「御府内備考」) 平川門は江戸城三の丸の正門であり、また死者、罪人を運んだので不浄門、奥女中の通用門なのでお局御門とも呼ばれていました。なお、引用文中の平川村については、→ 「長禄年間江戸図」に上、下平川村の書き込みがあり、また「小田原役帳」にも江戸上平川、江戸下平川の記述があります。平川流域から河口にかけて、村落が形成されていたのでしょう。

 

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    ・ 大手堀  大手堀から平川橋、平川門を振り返っています。元の平川は右手の外堀、一ツ橋からこの大手堀へと流れていたものと思われます。

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    ・ 平川橋  現在のものは昭和63年(1988年)の改架ですが、擬宝珠は二重橋(西丸下乗橋)などからの転用で、慶長や寛永の年号が刻まれています。

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    ・ 大手堀  平川橋から上流方向で、正面奥に架かるのが竹橋です。なお、この→ 擬宝珠には寛永元年(1624年)の年号が刻まれています。

 <「慶長見聞集」2>  前回引用した「慶長見聞集」中の「江戸の河橋にいわれ有事」は、平川の流路を推測する手がかりを提供しています。「見しは今、江戸にいにしへよりほそきなかれたゝ一筋有。此水、神田山岸柳原より出るなり。・・・・此水御城堀のめくりを流て舟町へおつる。この流に橋五つわたせり。されとも皆たな橋(欄干のない棚状に架けただけの橋)にて名もなき橋共なり」 続いて前回引用した雉子橋、一ツ橋の由来を紹介、さらに大手堀へと向かいます。「扨又、御城の大手の堀に橋ひとつかゝりたり。よの橋より大きなれはとて是をは大橋と名付たり」

 


雉橋、一ツ橋

2019-08-10 06:39:08 | 平川・外堀1

 俎橋の次は昭和に入って創架の宝田橋、そのあと雉子橋、一ツ橋と続きます。どちらも江戸時代初期には存在したとされる古い橋で、枡形門として修築されたのは寛永6年(1629年)の天下普請によってです。注目はこの二つの橋の区画で、日本橋川(外堀)と内堀が最接近していることで、 → 「段彩陰影図」にも書き込みましたが、本来の平川の流路は、このあたりで外堀から内堀へとシフトしていたものと思われます。

 

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    ・ 雉子橋  ほんの数十メートルを隔てて清水堀、その先に竹橋もあり、江戸城に近接しているため警備も厳しく、解説プレートは「雉子橋でけんもほろろに叱られる」と、江戸川柳を引用しています。  

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    ・ 日本橋川  雉子橋から一ツ橋方向です。高架は引き続き五号池袋線ですが、正面奥の一ツ橋のところで、都心環状線に連絡、日本橋川と共に左カーブします。 

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    ・ 一ツ橋  ここも100mほどで内堀(大手堀)です。なお、一ツ橋には伊豆橋の別名がありました。三代家光の側近、松平伊豆守の屋敷があったからで、その屋敷跡に居を構えたのが、御三卿の一橋家です。

 <「慶長見聞集」>  「慶長見聞集」(慶長19年 1614年)の著者、三浦浄心は後北条氏に仕える武士でしたが、その滅亡後商人となって江戸で暮らしました。「見聞集」は徳川幕府成立期の江戸に関する貴重な記録で、これからも度々お世話になりますが、その中の「江戸の河橋にいわれ有事」には、雉子橋、一ツ橋の由来が紹介されています。「(明の勅使をもてなすため、全国の雉を集めた)其雉子屋のほとりに橋一つ有けり。それを雉子橋と名付たり。又、其下に丸太を一本わたしたる橋有けれは、是をひとつ橋とまろき橋共いひならはす」

 


九段坂下

2019-08-09 06:38:39 | 平川・外堀1

 九段坂下にある俎(まないた)橋まで来ました。まな板のような板を渡しただけの橋だった、御台所町が近くにあったから、などが橋名の由来として語られていますが、「御府内備考」は「九段坂下より小川町の方へ通る橋」とするのみで、名前の由来についての記述はありません。一方、九段坂に関しては、「飯田坂 今九段坂ともいへり。近き頃まで家居九段に作りなせしゆえなり。今はそれも名のみなり。むかし飯田喜兵衛が住し所なりと」としています。御用屋敷の長屋を九段に作り、九段長屋と呼ばれたのだそうですが、「江戸名所図会」に描かれた坂は、それ自体が九段になっているようにも見えます。

 

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    ・ 「江戸名所図会 / 飯田町 中坂 九段坂」  右下隅の坂下を拡大したのが→ こちらです。昨日UPの堀留橋(こおろぎ橋)ですが、「図会」では「どんどん橋」とあるようです。  

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    ・ 日本橋川  中坂下にある南堀留橋から、次の俎橋を写しています。 → 「寛永図」や「正保図」には九段坂下に橋はなく、「明暦図」で初めて、坂下から小川町にかけて道が開かれ、橋が架けられています。

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    ・ 俎橋  九段坂方向のショットです。震災復興による大正通り(現靖国通り)の拡幅に伴い、俎橋も昭和4年(1929年)に鉄筋コンクリートのアーチ橋となりました。現在のものは昭和58年の架け替えです。  

 九段坂を上った左手には、江戸城内郭門の一つで、北方の軍事、交通の要所に位置する→ 田安門があります。 → 「慶長江戸図」のうち、7年のほうには「上州道」、13年のほうには「田安土橋、飯田町口」とあるところで、「別本」の傍らに「登り坂四つや道」とあるのは九段坂ということになります。上州道というのは、牛込門経由で牛込台、さらには遠く上州まで通ずるからで、現在は門外に早稲田通りの起点があります。なお、八代将軍吉宗の二男宗武は、田安門内に邸地を得て田安家を興しました。清水門と清水家、一ツ橋門と一橋家、みな同じパターンのネーミングです。

 


元飯田堀留

2019-08-08 06:33:35 | 平川・外堀1

 新三崎橋の次が、再開発に合わせて新設されたあいあい橋、そして新川橋、堀留橋、南堀留橋と続きます。堀留橋は尾張屋の切絵図などではこおろぎ橋となっています。その由来は不明ですが、堀留橋の方は明かで、江戸時代の堀はこのあたりで終了しており、元飯田町堀留と呼ばれていました。一方、明治36年(1903年)に日本橋川を神田川に再接続した際、新たに開設された区間が新川、そこに架かる橋が新川橋だったのでしょう。

 

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    ・ 参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治17年測量)」  「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」収録の北部の一部で、同社の基準(72dpi)で掲載しています。神田川と再接続後は、同一個所、同一縮尺の → 「明治42年測図」でどうぞ。

 ところで、飯田町の名前は名主だった飯田家にちなみます。元禄10年(1697年)の大火後、築地に代替地(南飯田町)を与えられ移転し、のち改めて起立した町屋が元飯田町となったもので、飯田町の名前は武家地を含む通称として残りました。なお、町名の由来に関しては、江戸入府直後に一帯を視察した家康が、案内役となった飯田喜兵衛という農民を名主に指名し、飯田町の名前も与えたとの伝承があります。

 

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    ・ 堀留橋  大正15年(1926年)に震災復興道路開通に伴い、現在位置に架け替えられました。→ 「昭和5年第三回修正」を見ると、上掲「地形図」との位置のズレが分かります。

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    ・ 中坂  次の南堀留橋から右岸方向です。中坂の左右には元飯田町があり、元飯田町の中通りでした。中腹の田安稲荷は第二次大戦で全焼し、その跡地に→ 築土神社が移転してきました。

新三崎橋

2019-08-07 06:48:23 | 平川・外堀1

 JR線を越えた先に架かる新三崎橋の傍らに、右岸一帯の再開発に際して行われた発掘調査について、解説プレートが掲示されています。それによると平川と小石川の合流地点だった当地は、平川付替え以降、讃岐高松藩上屋敷(左岸には中屋敷)が置かれました。明治になって、昨日UPの→ 「東京近傍図」にもあるように、陸軍用地に接収されましたが、明治28年(1895年)、甲武鉄道飯田町駅が開業し、同36年には日本橋川を神田川に再接続、水運や鉄道を利用した貨物ターミナルになりました。戦後も紙の物流センターとして機能していましたが、平成11年に廃止となり、現在はオフィスビルなどが立ち並んでいます。

 

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    ・ 「寛永江戸全図」  寛永19年(1642年)頃とされる「寛永江戸全図」(之潮刊)の該当個所をイラスト化したもので、道路網の間に書き込まれた武家屋敷名などは省略しています。

 再開発に先立つ平成12年、宝永3年(1706年)から当地にあった讃岐高松藩上屋敷跡の発掘調査が行われました。軟弱な地盤を強化するために、木の杭を打ち込んだ上に礎石を置いた御殿跡や、神田上水を引きこんだ池跡等と共に、江戸時代初期の盛土や石垣、板の土留の護岸を持つ、幅10mの堀跡が発掘されました。これは上掲「寛永図」当時あった、平川の名残の堀と考えられ、明暦3年(1657年)の大火直後に埋め立てられたことも分かりました。

 

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    ・ 新三崎橋  三崎は一帯の地名で、江戸時代初期には三崎村がありました。 → 「段彩陰影図」に見られる、平川、小石川の形成する岬状の地形が、地名の由来ともいわれています。

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    ・ アイガーデン  次のあいあい橋から、アイガーデンと呼ばれる右岸の再開発地域を振り返っています。当初はJR貨物本社もありましたが、新宿駅南口近くに移転しました。 

日本橋川

2019-08-06 07:00:28 | 平川・外堀1

 日本橋川は小石川橋先で神田川から分岐、最初の三崎橋から、常盤橋、日本橋などを経て豊海橋先で隅田川に注ぐ、延長4、84kmの一級河川で、途中亀島川が分岐し、こちらは南高橋先で隅田川に合流しています。昭和39年(1964年)に開催された東京オリンピックを機に、ほぼ全流路に渡って首都高速道路の高架下となり、川面が開けているのは、亀島川が分岐してから河口に至る区画に過ぎません。

 

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    ・ 「東京近傍図 / 下谷区」(参謀本部測量局 明治13年測量)及び「同 / 麹町区」を合成、その一部を加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。オレンジ線は区境で大半が千代田区です。

 ところで、道潅時代の平川が今日の日本橋川の流路をとるまでには、少なくとも三百数十年にわたり、数度に及ぶ付替えや開削、埋め立てを経なければなりませんでした。大枠は元和年間(1615~24年)に完成しましたが、この際、神田川と切り離され堀や運河として機能するようになったことは、前回の最後に触れた通りです。江戸時代を通して大枠は維持されていましたが、明治36年(1903年)に、三崎橋・堀留橋間が再開削され、神田川と連絡するようなり、外濠川、日本橋川と呼ばれます。さらに戦後になって、呉服橋以降の外濠川が埋め立てられ、昭和39年の河川法改正によって、全体が日本橋川となって今日に至っています。

 

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    ・ 神田川  飯田橋駅前に架かる船河原橋から下流方向です。高架は首都高五号池袋線ですが、江戸川橋から神田川上に設けられており、日本橋川の上を経由して、都心環状線に連絡します。

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    ・ 神田川  船河原橋から500mほどのところに架かる小石川橋からのショットで、右手に分岐するのが日本橋川です。直後に架かっているのが三崎橋、その奥の高架はJR中央線、総武線です。 

平川2

2019-08-05 06:47:49 | 平川・外堀1

 日比谷入江に注いでいた平川が、現在のように、隅田川に向かうようになったのは、大きく二段階に分けられる付替えによってでした。最初の付替えの結果、平川の最下流部分は江戸城の堀となって切り離され、本流は江戸前島の微高地を横切り、ほぼ現在の日本橋川の流路を取って、隅田川に注ぎます。太田道灌や北条氏による150年にわたる江戸経営のどこかでなのか、それとも天正18年(1590年)の家康入国後短期間でなされたのか、はたまた人為的なものではないのか、文献的な裏付けに乏しく諸説のあるところですが、少なくとも、慶長8年(1603年)の幕府成立前後には現在の日本橋川の流路になっています。

 

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    ・ 「慶長江戸図」  慶長7年(1602年)と同13年の江戸城と内曲輪の様子を重ねました。濃いブルーが慶長7年の「別本慶長江戸図」と呼ばれるもので、重ねるために原図をゆがめています。(書き込みはかっこなしが慶長7年、ありが慶長13年のものです。)

 内曲輪以外は描かれておらず、さらに(図中白であらわした)一部が失われているため、全体像はよくわからないところもありますが、平川の付替えは「別本慶長江戸図」の時点でほぼ完成していて、あとは日比谷入江の埋め立てを残すのみとなっています。一般に同入江の埋め立ては慶長8年頃とされていますが、「東京市史稿」のように、「落穂集追加」(享保12年 1727年)を引用、文禄元年(1592年)の西の丸増築時に、その残土を利用して埋め立てたとの説もあり、以降埋立てが進行し、「別本慶長江戸図」のようになったのかもしれません。

 

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    ・ 平川門と平川橋  「別本慶長江戸図」に「平川ト云フ所」とあるように、この付近にあった平川や平川村から、その名がつけられました。

 二段階目の付替えは、後半のテーマなので、簡単に触れるにとどめますが、本郷台の先端にあたる神田山を開削し、現在の神田川の流路をとるもので、こちらは元和年間(1615~24年)に最初の工事が行われています。その後、現在の日本橋川と重なる最初の付替え部分は、船河原橋から堀留橋までが埋め立てられ、こうして、神田川から切り離された元の平川は、江戸城の堀や運河として機能することになります。また、小石川大沼から日比谷入江にかけての低地は、平川の流れから完全に解放され、武家地として宅地造成されました。小川町の武家屋敷や、馬場先門前のいわゆる大名小路のことです。