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「文士のきもの」 近藤富枝

2013-08-01 | 読書

近、現代文学の作家18人の着物の好み、作品に着物がどのように描写されたかを解説。もとは江戸千家発行「孤峰」に連載したもの。

私は同世代の中ではよく着物を着る方だと思うが、この中に取り上げられた明治大正昭和初期のきものの描写がほとんどわからない。例えば長谷川時雨の幼児期の回想「紺ちりめんへ雨雲を浅黄と淡鼠で出して、稲妻を白く抜いた単に白茶の唐織を甲斐の口にキュッと締めて、単衣には水色太白の糸で袖口の下をブツブツかがり・・・」などと書いていただいてもどんな姿なのかほとんど見当がつかない。

子供ながらに縮緬は贅沢だろうと思うばかり。全編こんな感じなので、着物も近代文学も遠くなりにけり。


 

それにしても私の子供の頃、着物はもっと身近にあった。私の幼稚園の遠足、付き添いの母親はほとんど和服である。家に閉じ込められた母親の世代は、子供の行事の外出が何より楽しみでおおっぴらに外出て゜きる数少ない機会でもあったって、今の皆さんはぴんと来ないでしょ。

大学入試だって、女の子なら母親がついてきた。少なくとも私のクラスの私の知ってる子はみんなそうだった。東京でだってさえ、旅館が普通、ホテルは少ないし泊まりにくいと敬遠されてた。その付添いに私の母親は旅行だからと初めて洋服着て、スカートの足元が寒いと嘆いていた。外出に着物でないのがとても情けない感じだった。

父親は定年退職するまで、帰宅したら背広を脱いでウールのきものに丹前を着ていた。それでくつろいでいたのだろう。

女と男で着物着る場面が違うのが面白いけど、それでも昭和40年代ころまで、着物は暮らしに必要なものだった。洋服風のモダンな柄、ウールという手軽な素材も流行った。


 

この本の中で、着ている着物で年齢、職業、好み、性格などが描写されるとあるが、今の読者には判じ物のようだろう。風俗を描写したところから分からなくなって行く。新しいものは必ず古くなる。時間の波に洗われても読むに堪える、読んで感動共感できる作品目指してどの作家も頑張ったことだろうけど、着物のこととなると分かりにくい。残念である。

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