ぼかしの色合いが好きです。小紋ですが、あまり柄がないのがすっきりしていていいかなと。
一月に着る予定でしたが、ほら、例の「おじいちゃん食堂事件」であまり浮かれる気分にならず。
でも藍色の紬にも飽きて本日はこれを着てみました。
細い線は初めに糊を置いて、後で洗うのでしょうか。
染色は二色を手作業でぼかすのかも。
呉服屋で買ったのではないので詳細不明。
あん、もう、写真撮るのが邪魔くさい。
温泉足袋にビーサン。おうち着物の足元は着物の格に合ってないとどうのこうの・・・自分で突っ込んでおきます。
この姿で、午前中、先月分の経費帳仕上げる。昼は各自自由に。夫は自作のパスタ。私は昨日の残りのしっぽくうどん。はい、冬の香川の郷土料理です。
月末の例会に向けて夫はスピーカー製作に入った模様。コーナンで板をカットしてもらったとか。
午後から庭掃除。狭い庭なのですぐ終わる。ヤブカンゾウの新芽がもう出ていた。若葉の時に、食べるとおいしい。ギホウシも同じ。
夕方、夫がゴミ袋を買いに行く、あんたの洋服ダンス壊したでとのたまうので、えーーーとびっくり仰天。壊すと聞いてはいたけど、今日とは思っていなかったので。
これは2016年、絵付けの先生と古民家カフェに行き、帰ってきてら庭木が全部切られていた衝撃以来。あの時も事前に知らなかったので驚いた。
扉。アーチ形の細工あり。塗装は木目を生かして薄目。この方が傷が分かりにくい。
側面、底板など。
下の引き出しは家で使っているけれど、上のロッカー部分は大きくて、1991年に家を増改築して二階各部屋にクローゼットつけてからはずっと、夫実家、二階の風呂場に突っ込んでいた。それから30年、途中で一回くらい見たけれど、あとは放置。
もう捨てる時期ではあったのですよね。
タンスの来歴。
1973年年明け、結婚が決まり、両親と一緒に己斐駅前にあった・・・家具店(名前失念。今はもうない)で婚礼セットとして買ってもらった。夫も一緒で二人で相談して決めた。夫24歳、私も24歳。どんな顔してどんな服着ていたのだろう。すべては忘却の彼方に。
新幹線は岡山までだったかな、瀬戸大橋もまだなくて、在来線使っての四国高松からの日帰りはとてもきつかった。
父が「前、出張の帰り、糸崎行きに乗ったらそこから岡山までがまた遠うて、晩になって駅弁はないし」と広島駅で何か食べたのかな。
特急でなくて急行に乗ったのかも。特急で広島岡山が二時間、急行だと二時間半、宇野線に乗り換えて、今度は船だあ。全部で乗り換え時間含めて片道6時間くらいかかった。
母は当然和服。和服だとよそ行き感が出て、母は遅くまで着物着て出かけていた。
私が某早稲田大学受験した1967年に東京まで同行、洋服着て行くのが足元が寒いとぼやいていた。
その頃、地方から受験するのは女の子だと親も行くことがよくあった。手ごろなホテルはほとんどなく、大学近くの旅館へ。部屋は暖房なし。寒かった。
親も数少ない旅行のチャンスなので、それにかこつけて上京するのが嬉しかったのかもしれない。
母は41歳くらい?控室で男の子のお母さんと長話したそうだから、男の子も親同伴もあったようです。その子は千葉大学も受けるんやって・・・とか。遠い昔のほんの短いご縁でした。
この洋服ダンス、若い時は引っ越しが多くて5年間で5回移動。その後13年間家で使い、最近の30年間は死蔵。もう捨ててもいいかな。さよなら。ありがとう。
とは言え、引き出しはソファーの下に突っ込んで物入にしたいので持ち帰る。
桐の無垢材に桜を貼り付けている。昔の手仕事は確か。全然狂ってない。
どこの親も、娘の嫁入り支度するときは人生の一つの山場。きっとわが親も。
遠くへやりたくないと父は猛反対、母は遠くで結婚式するのは大変とまた反対。その頃は式場に美容師持ち込みもよくありました。まだ専用の式場のない時代でしょうか。
今はホテルや式場に美容室があるので、それを利用しない美容師持ち込みは稀。その場合、宿泊する部屋を借りて着付けするそうです。美容師の友達が話していました。お嬢ちゃんの式の時、自分が支度して大変だったって。
この歳になると、しみじみと親のありがたさが分かる。昔はことさらにお礼の言葉、言ったことない。親が元気なうちはそんな他人行儀な。でも言われたら嬉しかったと思う。
いつも黙ってニコニコしている父だった。怒ったところ見たことない。タンス見てそのこと思い出した。
夫は自分の親に嫁入りダンスの値段まで言ったとかで、その値段に目をむいたとか。それをまた私に話す。24歳の幼い夫ではありました。
あんたは子供かあ~。その幼さを純真さと読み替える私も幼い。
この一件、その後の結婚生活を予感させるようなエピソードです。
値段ですか?
普通ですよ。私の親が高いもの買えるわけがない。もっと高いのもあったと思う。
42歳で嫁いだ義妹は、店で一番高いセット買ったと姑様が言っていた。
ねぇそうでしょ。自分の娘になると力入りますよね。ダブルスタンダード。私は娘がいないので、娘と嫁さん比べたり、競ったりせずに心は安らか。
義妹もいろいろ苦労したけど、私と違うのは婚家の愚痴を姑様に聞いてもらっていたことかな。「あまりに私が言うのでお母さんが癌になった」(その後完治、不死身の我が姑様)とめげていたけど、そんなの理由じゃないと励ます私。聞いてやれる姑様も優しい。
私は泣き言は一切親に言わないタイプ。言っても心配かけるだけ。先回りして心配するのが親の常。
と、タンス一つから限りなくよみがえる記憶とあふれる思い。
長話、失礼しました。
汚れの目立たないスマホケースにしました。
元の絵はこちら。
ゴッホ、「夜のカフェテラス」
描いた場所が観光地になり、モニュメントも設置。
フランスのアルル。2014年3月末。
日本の花火の絵を見て夜を描いてもいいとゴッホが気付いたそうで。夫が言っていました。もとS道高校美術部長。
ん、衆道?
男子校ですがその字ではありません。
今日の記事で自分の結婚の頃を思い出させてもらいました。
我が家の義妹の結婚は確か32歳でしたが、それでもずいぶん晩婚でした。
義妹さんのご結婚は当時としてはギネス級?
我が家は、私が言うのもなんですが、私の夫も義弟も綺麗な顔をしていたのに、どういうわけか義妹だけが…。が、それに反比例するかのように、気位はすごく高かったから婚期を逸するはずでした。その上、義母が義妹だけかわいがらなかったことも、その性格形成に影響したと思います。
と、また余計なことを書いていますが、今の時代に着物を着るということは最高の贅沢ですね。私など一生分の着物を持って嫁入りしてきたはずなのに着物が泣いています。また見せてくださいね。
コメントありがとうございます。
ここへ書いても後へは引かないので、どうぞご自由に。
32歳、今なら30過ぎての結婚もよくありますよね。
義妹は遅くなりましたが、いい人に巡り合えたと思います。
娘の愚痴は聞かないのが本人の為、私はそう思います。聞いても親としてはどうしようもないのですから。
私たちのころは、嫁入り支度に着物は一通りそろえましたよね。親の必死の思いですが、今はどうでしょうか。持ってても管理も大変だし、その都度借りた方がよほど合理的。ブランドバッグもレンタルがあるそうなので。
物を持つのが豊かな時代もそろそろ終わりでしょうか。時間を持ち、良好な人間関係を持つ。年取って見えてくる景色もあるようです。
私の和洋ダンス・整理ダンス・下駄箱の4点セットも同じような造りです。桐に桜を貼って、重厚な仕上げ。今でも全く狂いがありません。桐のタンスは湿気調節もしてくれるので、衣類に優しい
引き出しに隙間がないので、押し込むとほかの引き出しが出てきます
着物や絹製品、ウールなどの高級な衣類は嫁入りダンスに保管してあります
私も昭和37年にそのお店で支度してもらったので、懐かしくなり、コメントさせていただきました。旦那様は、きれいに解体されましたね。私の嫁入り道具は、今では、和ダンスが1棹だけ残っています。これも早く断捨離しなければいけないのでしょうが。
コメントありがとうございます。いいタンスで立派なお仕度だったんですね。
タンスはほとんど手作業と思いますが、本当に丈夫ですよね。
和風の家で洋服を収納するための家具、今はクローゼットがありますが、ホコリはたまるし、湿気も来るし、本当はタンスがいいんでしようね。
我が家はベッドにして、押し入れをクローゼットにして、洋服ダンス30年も死蔵して、今思えば余計なことしたかなと思いますが、もう済んだこと。
ものとの別れはちょっとつらいけど、割り切らないといけませんね。
コメントありがとうございます。
井口家具ですね。天満町と己斐にあり、己斐店は天満店に統合されたようです。
今は下駄箱までセットになった嫁入りダンスセットはなくなったようで、昭和の嫁入りは何かと大変でした。