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「不愉快な本の続編」 絲山秋子

2013-04-22 | 読書

取り敢えずノートパソコンに立てかけてみる。


変わったタイトルだけど、それは読んでいくうちにわかる。不条理の殺人からはじまるあの小説を受けて、自分ならこう書くと、作者が己の力技を見せた渾身の一作。

いゃあ、うまいですねぇ。面白おかしいお話の溢れる昨今、その対極にあり、そして小説の極北にあるようなこの作品を読み終えると、人の存在の不可解さ、おぞましさに、私のこの身が、ざわざわと鳥肌立ってくる。小説を読む醍醐味とはそこにこそあるから、こんな男がいたらとっても不愉快だけど、人間の奥深さに触れて心地よいという二律背反。

意味があることに意味があるのか、主人公ボクは読者にそう突きつけてくるようだ。

人はたぶん自分の価値観に照らして、あれを捨てこれを拾い、自分の道を歩いて行く。そんな当たり前と思っている生き方を思いっきり相対化してくれる小説。意味がが解体した後の荒涼とした光景。とでも言おうか。そりゃ不安です。信じていたものが揺さぶられるのだから。

あらすじはそう複雑ではない。呉市吉浦出身の(この設定が絶妙、身内や故郷を描くときはめちゃくちゃリアリティがある)ボクは大学進学で上京し、女性のヒモと金貸しをしているが、フランスにも留学し、読者に、刑務所に行ったこともあると匂わしている。

金を貸した友人について新潟へ行き、結婚し、離婚し、富山へ行き、昔の女友達と再会し、呉に帰ってみると実家のあとには歯科医院が建っていた。実家は全焼し、そのいきさつも巻末近くで明らかになるけれど、弟も死んでいる。

自分もまた死んで、書かれたことになっていく。。。。この結末はすごい。字に書いたものはもちろんそれだけのことだが、その記号を読むことで人は頭の中に立体的な像を結び、あたかもあることとして認識する。本の中でものも人も出来事も生きている。そういう前提である。

ボクはまた本の中に戻っていく。今まで生きていたものが標本となって、ただの字の連なりになるという表現。何という空しさ。そしてシュール。字さえあれば人はどんなことも表現できる。字がもともと形を抽象化したものだから、字一つで無限の想像力を読者をして掻き立てる。それさえ相対化していく。

読んだ後、とっても寂しくなる本だけど、ものの見方の幅は少しだけ広くなったかも。心の筋力をつけていると、思いがけない場面にも対処できる・・・かな?


備忘として

本日午前中庭掃除。木の枝をだいぶ落とした。午後は旅行会社にクーポン券取りに行き、ついでに海外旅行のパンフ貰ってきた。

ある人に、今度海外旅行に行くとき一緒に行こうと誘われたけど、私は夜更かしなので迷惑かけて嫌われると思う。それに本音を言えば、ずっと誰かと一緒なんて窮屈すぎる。さてどうする?

夜は町内会の集金。改めて一人暮らしの人の多さに驚く。

お姑様は週末食事会の準備に張り切っている。

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