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空気が支配する国

2021-04-22 | 断想

あるおうちのお嬢ちゃんの結婚が暗礁に乗り上げているらしい。

これについての発言をネット上でも見るし、実際に聞いたこともある。

これについての私の感想。

結婚したいのならさせてあげましょう。何が問題なのですかと。私自身、双方の親から反対されて結婚までだいぶ時間がかかったので、さらし者にされているお嬢ちゃんがかわいそうでなりません。

相手がよくないという意見もありますが、言う人は言うことで少しも傷つかない。しかし、それで空気が作られ、結果として結婚の見えない障壁になる。特殊なおうちだけに、それを押し切ってまではと考えるのでしょうか。

マスコミの報道、ネット上の噂などは一個人の私としては確かめようもないので、判断が出来かねます。

ひどい話も色々聞きました。一族が半島出身者だとか。確認もせずに言うのはよくない。ヘイトスピーチと根は一緒。おぞましい。

よしんばそうとだとしても、日本人は遅かれ早かれ全員、南西諸島や半島に沿ってやってきたのだと私は言いたい。桓武天皇のお母さんも半島出身者、岩波新書の古代史シリーズで読みました。それはいいのかな。

私は人を生まれで区別、さらには差別する人は身震いするほど嫌いです。これは小学校高学年になって、市中心部の学校といろんな行事で交流が始まった時、それまで経験したことのない、子供の素朴な差別にさらされたからです。今思い出しても涙が出るくらい悔しい。

今や我が実家辺りは旧市街に隣接する高級住宅街に変貌。私立学校のない地方では校区も人気で、地価が高いと聞きました。

韓国は一度旅行に行きましたが、観光地で居合わせた家族連れの方に親切に写真撮ってもらいました。〇〇人と一くくりにして見下す人は、視野が狭く自分に自信がないのでしょうか。

話がそれました。

よそのお宅のお嬢ちゃんの相手がいい悪いを他人が公言していいものでしょうか。いくら特殊なお宅でも結婚はプライベートな部分も(ああいうお宅なので全部とは言いませんが)あっていいと思います。

どんな人を選ぶか、結婚するかは本人の自由。その結果も自分で引き受ける。それでいいのでは。税金が行くのはけしからんと言う人もありますが、一度国に納めた税金、どう使うかまでは中々監視できない。今回はたまたま金額までわかっているので反対意見も出やすいけど、私個人としてはまあそのくらい渡せばいいと思います。懲罰みたいにするのはよくない。

使えもしないアメリカの飛行機その他を買ったり、税金の無駄はいくらでもあるのにそこから目をそらせるための報道かなと思ったりするのです。

相手の人は、本当に相談する人がいないのかもしれません。味方になってくれる人も。でもどう動いても世間の好奇の目にさらされたと思うのです。大体NHKのスクープが、安部が安保法案を無理やり通そうとしているさなか。世間の目をそちらへ向けたかった意図があったのでは。

400万を貸したという男性、付き合っていて別れた後で返せはなかなか難しいと私は思います。そうは言っても少しでも返す誠意を見せたらここまでこじれることはなかったと思いますが、その点でも本人及び周りは判断ミスがあったことでしょう。

でも結婚させてあげたい。私はそう思います。それもまた無責任な言説ではありますが、結婚したいものをさせないのは人権侵害では。その結果も本人が引き受ける。それでいいのでは。

過去にもあまり公にはなってないようですが、皇女と呼ばれた人が皇居の一角でひっそり暮らしていたこともあったのでは。あの方は夫が愛人宅で亡くなり、子供もいないので東京へ帰ったんでしたか。そうならないといいけれど、個人的なあれこれ、全部国民が知る必要もないのでは。

私自身に引き付けて言いますと、反対されると、結構二人では盛り上がって、結婚したらそれはいろいろなことがあるけど、一度も親に泣き言は言いませんでした。

里帰りしたときの私の表情から、心配してあとから母からの電話があったことも。でも言わなかった。私はそういう性格だし、言わなくてよかったと今は思う。言ったら10倍、いや100倍にして心配するのが親です。

あのお宅のお嬢さんにも自分の思う人生を歩んでほしいと思います。どんなことがあってもそれが人生。それを味わうのが人生ではないでしょうか。

 

そして最後に、やはりもう制度自体が無理なのでは。

遅れて大急ぎで近代化した日本は、古代からの権威を担いで国の要にした。せざるを得なかったともいえる。今いろいろ行われているあのお宅の行事も明治以後に作られたものが多いと聞きます。それは権威を付けるために。

それからもうそろそろ私たちは自由になってもいいのでは。どの家に生まれるかは本人の落ち度でも手柄でもありません。家柄をありがたがる限り、あえて言いますが、この国に根強くある生まれながらの差別もなくならないのでは。そしてそういう立場の人が、却ってあの家の前ではみな平等と考えるとき、この制度の持つ根強さ、したたかさを感じるのです。

うーーーむ、なかなかに手ごわい。制度に泣かされているのは何よりもその内部の人。自由になっていただきたい。制度自体、本当に必要かどうか。。。。

あなた様のご意見とは違うと思いますが、何卒お見逃しを。コメントは認証制で反映しないこともありますので、同じ意見の方とそちらで話し合ってくださいね。よろしくお願いします。

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嫌いなことより好きなことを言う

2021-02-12 | 断想

あれも嫌い、これもダメでは人に好かれませんよね。

私、いい年してその傾向があるようです。そしてそれを口に出してしまう。

例えば吠える犬とか、うちの庭に糞する猫とか、公共の場所を自分の花畑にする人とか。

それは犬、猫、花が好きな人には嫌われ、そうでない人にも近寄りたくない人と思われるんだそうです。

確かに。嫌いは嫌いで仕方ない面もあるので、それは口に出さず、強引にでもいいところを見つけて言っておくといいそうです。

これはある方のブログから教えていただきました。

好きなことを語る・・・

何でしょうか。木と山野草、古い建物、着物、本・・・最近趣味が似た方のブログに時々お邪魔して、画像見るのが楽しい。暮らし、生き方のお手本にしたい方です。そういう出会いがあるのが、嬉しいきょうこの頃。

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来るものは拒まず、去る者は追わず

2021-02-10 | 断想

桜の草履、おまけに紙風船が入っていた。懐かしい。

昔富山から来た薬売りの人によく貰っていた。

夫に話振ると「そんなん来んでえ」とのこと。そりゃそうだ。納得。


三男のブログ、前の記事がごっそりなくなっているのは、たぶん見られるのが嫌だから、特に私にだと思う。

面と向かっては素知らぬふり、してもう長い。息子の暮らしが分かっていいのだけど、お嫁ちゃんの両親と息子夫婦で旅行する記事は、息子の母親としてはちょっと寂しいかな。記事はもう消してあるけど。

息子によると、お母さんは肉が全然食べられない人で、その宿を探すのに苦労するそうで。寂しがっても何かが変わるわけではないので、いい関係を築いて、可愛がってもらっているようでよかったと思うことにした。

私が声かけたら、一緒に旅行行くのだろうか。多分行ってくれると思うけど、今度、思い切って言ってみようかな・・・

長男も、結婚当初は、元旦にはあちらの一家で集まって宮島かどこかの旅館で過ごすとかで、お正月、我が家でゆっくりしたことがなかった。

昔の姑なら、お正月は夫実家で過ごすべしと姑風吹かせたかもしれないけど、私は全然そんなこと言う気もなくて、放置していた。ちょっと寂しいけど、少し手伝ってくれても私が大変なことに変わりはないので、楽だと思うことにしていた。

それにお正月の宮島なんて、いくらするんでしょう。我が家は総勢9人、3万円として27万円だあ~無理無理。

でも時は流れ日は移り、お父さんは亡くなり、お母さんは年齢的にはちょっと早いけれど、認知症の症状が出始めて一人にしておけないので今は施設に。孫たちは遊びに行く祖父母の家が我が家だけになってしまった。お嫁さんにも「いつでも来てね」と言ってある。ちょっとかわいそうだけど、正直に言うならちょっとだけ嬉しい私。

人との付き合いは、相手のあることだから、自分ではどうすることもできないことも多い。でも時間が経てば流れが変わることもある。ずっと付き合う人との間では、自分の気持ちを棚上げして潮目が変わるのを待つ。それしかないですね。


先月、銀行ロビーで染めと織りの展示会の時には、姑様の作品見ていただきたかったのでいろいろな人に案内出した。

感想はメールや電話で、または口頭で言ってもらって嬉しかった。お隣の人はわざわざ我が家にまで感想言いに来てくれて感激した。

がん闘病中の友達、昔のママ友、ワカメ友達が来てくれたのも嬉しかった。

私のこと、友達としてこれからも付き合ってくれるサイン。我が家へ来てもらって話もした。

水彩画の友達にも案内したけれど、何人かで集まり、見て帰った・・・よかったとあとで電話くれたけど、なんか釈然としなかった。我が家は近いのだから、ちょっと声かけてくれたら、出かけたのに。そして、作品について話もしたかったのに。

私、嫌われているのかなと落ち込んだ。だとしたら原因は?

考えても分からないので、もう考えないけど、こちらが友達と思っているほどにはあちらは思ってなかったということでしょう。残念ながら。

それに、誰かのいない場所で、その人のことを話すのは、自分たちの絆を確認する快感もあるのでしょう。

もう一つのグループも声かけてくれればよかったのにと残念でならない。なんでかなあと思う。そのグループの中で居心地が悪くなって、初めに私が距離取ったので、相手も気を使ったのかもしれないけど、少しの時間も会いたくなかったのかしらと激しく落ち込んだ。私がいない方が盛り上がるのかなあと。いやいや、未練がましいのは私だけで、あちらにすれば私は過去の人?

人の付き合いはいつも流動的、縁の切れた場所からは離れるのがお互いのため。楽しかったこと、世話になったあれこれは忘れないけど、くよくよしても仕方ない。新たな一歩を。

これって、恋人と別れるときにも思うことでしょう。付き合うのは双方の合意、別れるのはどちらかが離れたいとおもった時。

いつまでも古い付き合いの中にとどまってないで、次の場面に行き、新しい人と出会いなさいという流れが来たのだと思うことにした。

そしてうーーーんと時間が経ったときには、また笑って会えそうな気がする。そう、高校の50周年の同窓会のように。あの時は楽しかった。

みんなおじいちゃん、おばあちゃんになってたーーーー。

でも、うーーーんとって何年後?

この歳ではもう後がないんですけど。

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一万歩より速歩がいいらしい

2021-01-09 | 断想

最上稲荷 昨年1月。門前の通りが昔風でよかったです。岡山市北区。

今年は写真で参拝。

 


この二、三日めちゃくちゃ寒い。鉢植のカランコエが凍って、慌てて玄関に入れたけど、枯れるかも。

カランコエは手入れなしでも花がよくつき、挿し木きですぐ増え、年中緑の葉とコスパのいいグリーンだったのに。でもまあ、高いものではないので枯れたらまた買うかも。

で、話は今朝の土曜版、健康記事。

体力維持、向上には5分歩いて5分速歩、これを毎日30分続けるのがいいそうです。

一日一万歩がいいとよく聞きますが、私はそれだけあるくのに1時間半くらいかかる。で、続いた試しがありません。

同じ景色見ても飽きるし、その時間あれば、コタツでネット徘徊、テレビ鑑賞、新聞に読書、お茶しておやつ食べてと易きに流れる怠惰な性情全開の冬。

で、がっかりしたのは何もしないのも(コタツでまったりするのも)、一万歩歩くのも体力維持にはそう変わらないこと。

ほんとかしら。動いた方がじっとしているよりはいいと思うけど。

しかしまあ、時間のこと考えら、一日30分は取り組みやすい。15分ずつ二回に分けてもいいそうで。

15分なら、銀行、郵便局、買い物のついでに回り道して、できないこともなさそう。

時間は15時から18時がいいそうです。

今の時期なら、早朝など寒い時間帯は体への負担が大きいと思うので、暖かい時間帯と解釈。昼食後、13時くらいからでもいいことにしましょう。

体力維持してどうするかって。

そりゃこれからの人生、自分の好きなことして楽しく過ごしたいから。最後は人に面倒掛けるけれど、それまでは明るく、友達と交流し、行きたいところへも行き、自分の趣味を楽しみ、自分らしい人生の仕上げしたいから。

がんばります。

昨日、長年お世話になった美容師さんの訃報が娘さんから届きました。その方は子供二人が同学年で、PTAの役員、趣味の会でも一緒、カットパーマも途中よそへ変わったりしながら、先月まで20年以上のお付き合い。

先月10日にもパーマ当ててもらったばっかりでした。普通に仕事していたので、まさか亡くなるなんてショックでした。

10年前に乳がんの手術して復帰、2年前に舌がん、舌がんは再発し、最後は肺に転移していたそうで。

ご冥福をお祈りします。

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ウォーキングも社会活動も大切

2021-01-07 | 断想

2015年1月。高松市の栗林公園で。


だそうです。昨日のEテレ、健康番組によると。

年寄せて、足腰の筋肉が弱り歩けなくなるのを避けるため、とりあえずウォーキングと私は思っていました。

もちろんウォーキングも大切なのですが、ボランティア活動や趣味の会で出かける機会の多い人は、気が付かずに体を動かしているので、体力維持には役立っているとのこと。

ウォーキング、私の場合、一念発起して始めるのですが、長く続いた試しなし。

それはすぐに苦行になってしまい、今日は雨だから、寝不足だから、人が来るからと行かない理由を探してさぼってしまうからです。

たまにご夫婦で黙々と歩く方を見かけますが、私には無理。友達とのウォーキングも参加したけれど、あえなく脱落。

どうも私は時刻、コース、人に合わせるのが苦痛らしい。


さすればどうするか。。。。。ですよね。

買い物その他、なるだけ歩く。

一度に買うと重いので、その都度、出かける。

遠回りして歩き、最後に近所で買い物する。などなど。

ウォーキングはカメラ持参で、草や木、珍しい看板などを撮る。などでしょうか。

昨日は、市営桟橋の手前のビルで、古いタカキベーカリーの看板見つけた。近々紹介します。

ビルは私が嫁入りしたころはもうあった。広島銀行の支店が入っていた。軍港の名残で、郵便局の本局跡や見送り面会のために家族が泊まった(らしい)旅館、沖仲士の寄せ場、それから広大な軍用物資の野積場跡なども。

というような場所を探して歩きましょう。

樋門跡も20年くらい前にはあったのです。埋め立て地の水を抜く水路の最後の出口。水門の上げ下げをするようになっていたけれど、都市高速の工事で最終的に消滅したらしい。

さあ、今日も寒いけど頑張って歩きましょう。

裂き織りは午前中で終わった。あとは始末して、展示用に棒と紐など。

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幻の戒厳令

2021-01-05 | 断想

アルバムの整理をしている。一気にするつもりだったけど、合間合間に少しずつ。ついでに押し入れからこんなものが出てきた。

平成19年って・・・2007年、14年前ですね。

その頃私は、ひょんなきっかけから被爆者に話聞いて、国の被爆者等慰霊事業だったかな・・・の補助金を広島市に申請して、被爆証言を本にする活動をしていた。

これはなかなかに骨の折れることだった。

いちばん困ったのは、戦後長い時間が経ち、本来の記憶があいまいになり、その後知ったことが記憶に上書きされていたこと。地名も戦後変わっているので、今どこの場所か確認する作業もあった。

間違いも全部含めての証言、いちいち裏を取っていては、今の時代の被爆証言は成り立たない。それはわかっているので、細かなことはとばしていたけれど、原爆後に広島に戒厳令が出された話には引っかかった。

ご本人の話をきっかけに調べてみると、出処はずいぶん前に広島県と広島市が出した原爆被災史にのようだった。さらにそのもとになったのは戦後10年くらいたってのある座談会での軍人の発言、執筆者はそれを採録したところまでわかった。

執筆者に軍人の発言以外に何か史料はありませんかと問い合わせたけれど、そのままになったので、防衛庁の戦史資料室に「広島原爆後の戒厳令の史料はありませんか」と問い合わせた答えが上の返信です。

この中にある第2総軍とは、戦争末期、それまでの軍管区を廃止、日本を二つの指揮系統に分け、一つは東京に、もう一つは広島に置き、それまで以上の権限が与えられた組織とのこと。

おそらく戦争末期、2か月くらいの組織だったのではと私は思います。←未確認。

お話聞いた人は第2総軍がとりあえず戒厳令出して、あとで東京に認めてもらったのでは・・・と言うのですが、戒厳令ですからね、いくらなんでも無理がありすぎ。

明治から敗戦まで、戒厳令が何回出されたのか不勉強で知りませんが、せいぜい数回ではないでしょうか。

参考資料として官報のコピーもいただきました。

昭和11年2月27日に出された戒厳令は、2.26事件を鎮圧する目的。

天皇が出して、サインと印鑑。そのあとやはり法律なので細かな取り決めが。

臨時に戒厳司令部が置かれ、司令官以下、参謀長から下士官まで、東京に在中の軍隊が再編成された模様。

具体的には不要不急の外出禁止とかいろいろあったのでしょうが、コピーはここで終わっています。

なるほど、戒厳令なんて思いつきで出すような軽いものではないんですね。よくわかりました。

天皇大権って、今でもあるんでしょうか。いや、日本国憲法ではもう消滅していると思います。


翻って、我が家には、エッヘン、姑大権というのがあります。

発動したのはたった一回だけ。

数年以上前、私は針金ハンガーを曲げてつくったバナナスタンドにバナナぶら下げていた。

お嫁ちゃんが「お母さん、あのハンガーのバナナ貰っていいですか」と聞くので「いいよ。でも(ハンガーではなくて)バナナスタンドのつもり」と訂正。

天皇大権とは違い、姑大権とは誠にささやかな大権~

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ドレスデンの後悔、正月早々

2021-01-02 | 断想

今朝、年末に録画した番組、当代の柿右衛門氏がヨーロッパ各地の、古渡の柿右衛門を訪ねる旅を見た。

イギリスの貴族の館、ロンドンの骨董店、そしてドレスデンの宮殿などを訪ねる旅。

2018年5月、ドレスデン。

マイセン焼きを始めさせたアウグスト王のコレクション、この宮殿の中にあるって知らなかった。さっき番組見て初めて知った。

展示品があるのは知っていた。でもそれは、この建物を模して作った有田ポーセリンパークと同じで、ちょっとした展示とばかり思っていた。

そうではなくて、素晴らしいコレクションの数々、録画みてものすごく後悔した。

この門くぐるなら、中へなぜ入らなかったのかと。一分もかからないのに。

30分くらいの自由時間、私は屋外のカフェで3ユーロくらいのコーヒー頼んで、下手なスケッチしていたんですよね。スケッチなんて・・・わざわざドイツまで行ってすることかな、ほんまに。今さらながら激しく後悔。

2012年にも行ったんですよね。その時はコレクション見ずに美術館の方へ行って、あとで陶磁器のこと知って、それはまあ納得の選択ですが。

三度目があるのだろうか。三度目には必ず行きたいけど、その前にこの寿命、体力が尽きる予感。

人生は短く、世界はあまりに広い。祈・新型コロナ終息。


写真整理続き。

長男の大学進学が決まり、学生アパ―トに引っ越し。1995年春。阪神淡路大震災と地下鉄サリンの年。

みんなで手伝いに行く。次男はどうしてたのかな。高3なので行かなかったと思う。

住まいは東広島市の田んぼの中。大学本部まで自転車通学。

家主さん(親戚)から、あぜ道通る近道教えてもらう。

本部は一年間だけで、二年目からは広島市内で勉強。こちらは自宅通学で。

そういえば本人が合格発表見に行かないので、私がチャリンコで。

ったく、自分の合格発表、怖がってどうする。

各学部ごとの発表、自転車で15分くらい。

阪神淡路大震災はセンター試験が終わった翌日月曜日の早朝。

もし一日早かったら、受けられない生徒さん多数だったと思います。

数日は神戸市内の様子、テレビで呆然と見ていた私。息子のセンターの成績なんてどうでもよかったです。ネットも未発達、パソコン通信で、ニフティか何かが模範解答流していたらしいけど、深夜の番組で答え合わせしてため息つきまくる息子。

合格したのは幸運でしたね。二次試験が終わって4日目にお舅様が亡くなり、何かと大変な年でした。

きょうは写真整理するつもりだけど、一枚一枚にこんなに思い出がくっついているとしたら、これは容易ならざる作業かと。

子供が持って帰った後は、一括して捨てられるようまとめておく。するとすれば、そのくらいかな。


きょうは夕方、三男以外で集まる。全員広島市内居住、感染に気を付けて食事しますので、ご家族の集まり、実家への帰省など自粛している皆様、何卒お許しを。

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あの冬、故郷の街で

2020-12-24 | 断想

ローテンブルク 2012年11月


ちょうど今頃の時期だったと思う。

大学の冬休みに帰省して、高校で同じクラスだった男の子と、待ち合わせて街を歩き、途中でお酒を出す店に入った。夜だったのかもしれない。

カウンターに座り、バーテンダーにカクテルを注文し、何を話したのか。。。。

小説の話、東京の話、怠惰に流れる今の生き方では自分はだめだという内省的な話。

その時はその男の子が一番好きだったので、一生懸命話を聞いた。

また翌日、今度は別の男のから連絡があったので待ち合わせて街を歩き、何と同じ店に入ってしまった。

たった今思い出した。それは大きなキャバレーをリニューアルして、昼間からお酒出す店だった。ちょっと大人ぶりたい時に入る店はそこしかなかったのだと思う。

時効だから言います。私は19歳、一日目の男の子は18歳、二日目は・・・多分その子も18歳。お酒飲んでいい訳ないけど、昼間から飲みました。その頃はカクテル飲むのが流行っていて、憶えたばかりの名前で注文して大人びたい年頃。

二日目の男の子は、大学で出会う面白い人たちの話、いかに勉強をさぼっているかという武勇伝、そして京都の話。自分は今のままではいけないという自省的な話は一切出ず、面白い話ばかり。

昨日と同じ女の子が、違う男の子と来て、バーテンダー氏は素知らぬ顔していたけれど、男の子の話があまりに面白いのに、職業柄、笑いを堪えなければいけないのが、それでもつい笑ってしまうのが、見ていて楽しかった。

二日目の子は他に好きな女の子がいるって知っていたから、そしてそれは私の知っている子だったから、私はただの友達として気楽に話をして、二日目の方がうんと楽しかった。

比べて悪いけれど、こちらが真面目な気持ちだから緊張して楽しくないのか、と思ったけれど、その時は毎日、違う子に会うて、私はそんなん好かんと母に注意されたら、弟が、何も結婚するわけと違うけん、そのくらいは構わんと味方してくれた。

そりゃそうです。10代で結婚相手を決められるわけがない。その年頃では、いろいろな男の子と付き合ってみて、自分に合うのはどんな人か、お勉強する時期です。


何かモテ自慢に聞こえるかもしれませんが、全然そんなことはありません。私の高校はベビーブームで一学年約千人、男650人、女350人の学校でした。女の子は普通にしていたら、まあ声くらいはかけてもらえる。そんな感じです。

その男女比でクラスが編成されるのではなく、男ばかりのクラスと男女が同じ数だけのクラスとがありました。男ばかりのクラスは男子クラスとか野郎組と呼ばれ、教室の前の廊下も通りにくいのです。

当時私は校内新聞を作る部活をしていて、ある男子クラスで「野郎組哀歌」と言う歌を作った子がいて、それが男子組各クラスで流行っていて、遠足のバスの中で歌っていると聞いて、もう一人の女の子と作った本人に取材に行きました。

行ってみると、本人には会えず、しかも男の子が10人ぐらい教室から出てきて「何しに来た、帰れ」と言う対応で引き返しました。記事は本人の取材なく、伝聞と流行っているということだけで書きました。

今もその一説は歌えます。「いゃじゃありませんか、野郎組、餓えた男が50余人、戦時中でもあるまいに女抜きとは情けなや」以下10番まであるそうですが、2番からは知りません。

軍歌の替え歌ですね。嫌じゃありませんか、軍隊は・・・という。

作詞者は朝日新聞にも投稿して、「若い教師の恥じらいで性教育がすっ飛ばされたのはよくない」とトップで掲載されていて、ちょっとした話題になりました。まあ一種の才人でしたね。今はどこでどうしておられるのか。


一日目の男の子はその時の私を見て憶えていた、とあとで話していました。男子クラスに女子が訪ねて行った稀有な機会だったのかと思います。

自慢話みたいですみません。でも全然自慢話ではありません。それは私が美人でなかったからです。先日の森永卓郎さんの本によると、若い時から美人でちやほやされ、結婚してからも贅沢をする女性を妻に持つのも男の甲斐性だが、自分はその道を選ばなかったと言っていました。

男子の多い学校で男の子から普通に声かけられるくらいは、モテるのでも何でもない。本当の美人は私には想像もつかないことがいろいろあると思いますが、私にはわからない。

その代わり、カジュアルな、ユニクロを着る用に気軽に話ができる立ち位置だったのかなと、思います。まあ、それはそれで楽しかったですけど。


私の母は、いろいろ欠点も多い人ですが、子供のころからずっと、私のことをきれいで頭がいいと言ってくれたのはとてもありがたかったと思います。私は飛び切りきれいでも、飛び切り頭がいい訳でもないのですが、基礎的な自己肯定感を持っていると、若い時には人と付き合うのが楽だったし、引っ込み思案にならずに済んだし、感謝しています。

子供は褒めて育てよと昔の人は言うけれど、私の子育てにはそれが欠けてたかもしれません。

また戦争中に女学校を中退したという学歴なので、私の勉強にも一切口出しせず、高校の間は一度も成績表を見せず、(親の認め印、勝手に押していた。もう時効だけど、何かの犯罪?)、受験先も進学先も誰にも相談せず勝手に決めて事後承諾。

まあ、親の話は今回は枝葉ですが、クリスマスイヴにどこへも行かないばあちゃんはしみじみと昔のことを思い出してしまいました。


一日目の男の子とは別れた。二日目の男の子は、ありがたいことにいまだに年賀状をくれる。昔、我が家に、広島に学会があった時に尋ねて来てくれたこともある。夫とは同業者。私の分からないことをいろいろ話していた。

今からは深い縁を結べるような出会いはないかもしれないけれど、それでも出会った人との縁は大切にしたい、そして、嫌な人とは、もう無理して付き合うこともないのだと、思う。

ドイツ、バンベルク。2012年11月。

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新型コロナと太平洋戦争

2020-12-22 | 断想

昨夜、ニュース番組(民放BS、19:30からの)で、ノンフィクション作家の保阪 正康氏が、新型コロナ感染の現況を、太平洋戦争を例に引いて、誠に正鵠を得た分析をしていた。

備忘のために書いておきます。

太平洋戦争の敗因は三つ。敵の実態を知らない、戦略や戦術がない、現状と経過を国民に正確に伝えていない。

言われてみれば確かにそうだと思った。国民には「欲しがりません勝つまでは」と犠牲を強いるが、自粛の要請ばかりで政府の覚悟が見えてこないことも同じ。

問題はGo Toトラベルを続けるかどうかではないと私は思う。もちろんやめた方がいいけれど、それでも旅行する人はする。

政治がするべきことは、今、何が起きていて、今お金と人員をどこに投入するべきか考えること。それを知れば、国民も協力しなければと思うけれども、最高責任者がGo Toやめないと頑張って、支持率下がれば説明なく撤回、しかも二週間後からって、初めにきちんとした方針を立てていないから迷走するんだと思う。

もう一人の実力者が観光族議員だそうで、自分に話を通さずにキャンペーン止めたと激怒、まあまあと手打ちのステーキ会食だったのではと、私は思っています。

あの人たち、国民のことより、支持率や自分のメンツの方が大切なんですね。政治家なんだから、もう少し勉強して広い目で政治やってほしいもの。

保坂正康氏は、あの人は国民が選んだ人ではない、一選挙区の人に選ばれただけと言っていました。そうですよね。その上、一国の最高権力者になる過程が、その時の都合でかつ不透明。

これで果たしてコロナ禍に勝てるのでしょうか。

太平洋戦争は、どうしていいか分からず、誰も責任を取ろうとせずにいたずらに長引き、大きな犠牲を出したうえで、無条件降伏しました。降伏して許してもらえ、そこから戦後の復興は始まりました。

しかし、新型コロナ相手に無条件降伏はありません。勝つまで戦うしかないのです。あるいは何もせずにたくさんの犠牲者を出して、自然消滅するのを気長に待つという最悪のシナリオ。

政治の大胆な指導力を切に希望します。


ある方のブログを拝読していたら、Go To利用しての旅行がいいか悪いか話題になっていました。

私も踊らされた口なので、それを前提に言いますが、コッテージ式の宿泊棟に泊まり、他の人と顔を合わさないのなら、感染のリスクは低いと思うのですが。

都市部のホテルに泊まり、夕食は外で、その後、接待を伴う店へも行く、そんな旅行が感染を広げたのでは?

編集しているとは思いますが、インタビュー受ける人の危機感のなさにも驚きます。それはステーキ会食する人と対をなしている。

感染を封じ込めた国に学んでほしいものです。

日本では三密回避と言ってますが、中国では三早。早期発見、早期隔離、早期治療だそうです。まずはPCR検査、無料で徹底的に行う。なぜそこに力を注がなかったのかと、私は思っています。

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楽しい餅つき

2020-12-22 | 断想

今年二回目のお餅は、一年間お世話になった方に、菓子折りと一緒に届けました。

写真はその残り。

パン焼き機で作ります。3合のもち米で9個の丸餅ができます。

もち米を洗うところから丸めて出来上がるまで、全行程が2時間弱です。

搗くのはパン焼き機、その間は他の用事をしています。昔の餅つきに比べてうんと楽。

何よりもつきたての柔らかいお餅が食べられるのが嬉しい。餡餅は夫の好物。

夫は、実際に餅つきをしたことも見たこともないので、自分で搗けないかなあと夢のようなことを言っています。

年寄り二人では全然無理です。あれは大家族のころの年末行事。我が実家の餅つきのようすを説明する。子供は丸め要員。西日本なので、どんなに量が多くても餅は丸める。

いえいえ、四角な木箱に入れた豆餅、海老餅も作り、数日後に祖母が切り分けていた。火鉢で焼いて子供のおやつ。

餅つきは旧正月前にもしていた。旧正月のころには日差しも明るく春の気配。新春という言葉がぴったりでした。

年内にあと二回くらいは作りたいもの。もち米買って、その都度搗く方がうんと安上がり。冷蔵庫に保管する前に食べてしまうので、楽。餡も買ってくる。

何事も楽に流れる私。

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練炭火鉢の頃

2020-12-15 | 断想

昨日あたりから急に寒くなった。本日、広島で6℃。新型コロナもあるし、年末だし、あまり出歩かずに、家でできることをしている。

昨日、来月展示する場所の現在の展示の様子を見に行った。ヒートンあり、スタンド型の看板あり、軽い作品は台紙に貼って、その台紙を押しピンでとめていた。

うーーーむ、姑様の藍染の大作、押しピンで穴開けるのは抵抗がある。それに布製品、何か所か止めても垂れてくるので、横棒入れた方がよさそう。

藍染めは和風なので、織の教室が解散するとき、先生のご主人が竹の暖簾棒で作ってくれた二本の綾棒が使えそう。

そのほかにはごく細いヒノキの丸棒、私の織りは太い丸棒の両端に、ろくろで切った木の飾りをつける。それは東急ハンズで買ってきた。

本日はもう一度作品を並べて、どんな棒がどれだけいるか考え、近所のホームセンターで材料調達、昼休みに夫に加工いろいろしてもらった。

午後からは織った作品の端を縫って、棒を通しやすくしたけれど、全然よくないので、裏から布を縫いつけることにした。

展示用に織ってないので、縁の平織りの部分が狭く、窮屈な感じ。

まだ日があるので焦らずに、毎日少しずつ進める予定。


この後、一年に一度の年末調整の計算がある。これは今年は曜日の配列がいいので、24日の夜までにすればいい・・・はず。

なんて暢気に構えていた7,8年前のある年末、姑様が敷居のわずか2㎝くらいの段差に躓いて転倒、電話があって夫と二人で行くと痛がっているので、翌朝、整形外科へ連れて行ったことがある。

手首、骨折していましたね。

一年のうち、いちばん何かがあったら困る日になんでまたと、思ったけど、でも何とかなったのでしょう。そのあとの記憶がないから。

まあ今年もダッシュで頑張ります。今年の売り上げはコロナの影響で、開闢以来の地味なものでしたが、来年はどうでしょうか。食べるに困らなければ、余分なお金は不幸の元、といつも負け惜しみを言う私。


寒いのが好きかと聞かれれば、もちろん好きではないけれど、冬本番になって、きりりと寒くなる最初の日には、遠い冬のあれこれを思い出して、寒さに喚起される思いがあるわけです。

息子が中学生だった30年くらい前、

「火鉢って何?」と聞かれたことがある。そうかあ、見たことないのでこの子たちは火鉢さえ分からなくなっているんだとしみじみしながら説明したら「そんなんで暖かい?」とまた聞かれた。

「暖かくはないけどね、手先を温めるだけ」

「ふうん」と納得しない風だった。


子供のころ、家に練炭火鉢と言うものがあった。火鉢型の練炭コンロ、縁が広くて平たく、食器置いて簡単な食事もできた。

真ん中には水炊きやすき焼きの鍋をかける。我が家は水炊きが多かったかな。台所の椅子を周りに置いて、食べていた。日曜日の夜は父がよく焼き肉をしてくれた。着ているのは母が縫ったウールの着物と羽織。

練炭置いてないときは、お盆乗せてテーブルに。我が家のクリスマスケーキは火のない練炭火鉢の上によく置いていた。

石油ストーブが普及すると、火鉢型のストーブを実家では使っていた。これは火が近くて煮炊きに便利、暖房もできるという優れものだった。近所のホームセンターに10年くらい前まであったけど、今日見に行ったらもう売っていなかった。残念。

台所が狭くなるし、何よりもダサいのでとうとう買わなかったけど、今になれば残念。

日曜日に焼き肉作ってくれた父は、性格は温厚でゆかいな人。

初め農業、途中から勤めに出て、土地の一部をつぶして貸家も建てて、時代の波に頑張って乗って行った人。

火鉢からいろんなとこと思い出したけど、今生きていたら、同じ年寄りとして話が合うような気がする。って、死んだ人はそこからは年取らないわけで、私もあと7年で父の年に追いつく。とりあえずは追いつくことが目標。

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シロモジのころ

2020-12-11 | 断想

庭のシロモジがやっと色づいている。

もう初冬だが、暖かい当地では、我が家の庭では、落葉樹の色づきが毎年、年末になる。

この木は2016年に庭をリフォームした時に、私の好みで植えてもらった。これがわが庭のシンボルツリーです。

それまでは姑様が40年以上前に植えた、センダン、クスノキ、ヤツデなど。姑様には悪いが、私はこの三つの木がいずれも好きでなかった。

幸い、長年揉めていた隣地との境界線が、所有者が変わってすんなり確定し、塀を作り替えるのに合わせて、思い切って庭も造り替えた。

って、偉そうですが、狭い狭い庭です。街中だから贅沢言えませんが、田舎の広い家と庭で育った身には、狭いのは何よりも辛い。辛いけど、与えられた条件でなるだけ心地よく。そう思うしかないわけです。

庭を自由に考える。好きな木が植えられる。ああ、何と幸せなことでしょう。

三か所から見積もり取り、お洒落で値段も手ごろな業者に依頼。打ち合わせに事務所へ行った。

あちらはアメリカハナミズキ、またはシマトネリコを勧めたんだったかな。あまりにありふれている。もう一つは、オーストラリアかどこかにある常緑の木だったかな。こちらもときめかず。

シンボルツリーはシロモジにして、あとはナツハゼとシデコブシ、と自分の好きな木ばかり言うと、ちょっと待ってくださいと植物図鑑のようなものを引っ張り出して名前確認。

取り寄せられますか?

それは大丈夫です。で、他はどうしますか。

他って?

通路とか。タイル貼ってプロバンス風とか。。。

それもお断りする。

プロバンス・・・悪くはないけど、古い和風建築に合いそうにもないので。


庭を作り替えて4年、木も大きくなり、次第に庭らしくなってきた。

シロモジも大きくなった。そして、毎年、シロモジが色づくころになると懐かしい人たちを思い出す。

シロモジはクスノキ科の落葉樹で、広島湾沿いの西半分、標高500メートルくらいの山によくみられる。例えば極楽寺山とか。

1996年、地元公民館の自然観察の講座の後、観察会のグループができた。中心になったのがながいさん。実名出すのはもういいでしょう。亡くなられてもう19年になるから。

とても、とても、とっても楽しい会だった。毎月一度、結構ハードな山に登って植物観察。説明は長井さん、または中学校の理科の先生だった男性。いろいろな山でいろいろなことを教えてもらった。それまでの私は家にこもって文章書いたり、本読んだりばかりの生活。人とあまり話すこともなく、結果、人とあまり話せない人間になっていた。

40歳過ぎて病気が見つかり、子宮と卵巣の全摘をした。お腹の中が癒着しまくっていて、手術は大変だったらしい。退院後は歩くことから始めて徐々に体力回復に努めるうちに、体を動かす楽しさに目覚める。ずっと長い間、動物としての必要最小限の動きさえしていなかったのかもしれない。

その反動からか、山を歩いたりするのがとても楽しく、その流れで自然に植物観察の会にも参加した。

会は今まで出会ったことのないタイプの人がほとんどだった。めんどくさいこと言わない。人をけなさない。えらそげに言わない。などなど。

そのなかでも代表のながいさんは、男性ながら全然威張らず気配りのできるやさしい人で人望が厚かった。例によって、私はここでも会報作成。よく打ち合わせをした。

追々分かったことは、前年九州大学を受験して浪人、結局広島の地に落ち着いた。だから同じ年に同じ学校へ入学していたことを後で知る。今でも不思議に思う。あの入学式の会場に、長井さんも、我が夫も、私も、席が離れていたけど、一緒にいたことが。みんな10代の子供。この私にもそんな年の頃があったのをいつもは忘れている。

会で出会った当時は離婚して一人暮らし、子供さんは元の奥さんの方にいるというのは誰か別の人から聞いたと思う。


数年間、楽しく活動した。電車バスで行ける山しか行かなかったけれど、極楽寺は当時、山頂近くの温泉施設の送迎のバスがあり、施設を利用することで乗せてもらった。

時は11月、キャンプ場の周辺の山は黄色に染まったシロモジの群落、行けども行けども、明るい黄色のシロモジの木。きれいな眺めだった。それまで知らなかったので、三裂する葉も珍しく、いっぺんで好きになった木。

あらたにさんが大きなホウの葉を拾うと、国定公園だったか国立公園だったかなので隠して持ちなさいと注意する真面目な人だった。面白かったあらたにさんももう故人になられた。。。


夜、突然電話がかかってきたのです。

今日はご主人に相談があると言われるので受話器渡すと、話している夫の顔色が次第に変わる。ああ、ここまで書くうちに当時のこと思い出して胸がバクバクする。

内科ならどこでも。そこから大きい病院に紹介になります。と、夫は近所の医院を紹介していた。

一月くらいして、会合でその先生と一緒になった夫は、一年くらいですね。親せきの方?と言われたとのこと。

一年・・・ご本人は知っているのだろうか。あんなに元気なのにと信じられなかった。その時は、よその男の人のことだけど、一人の時に思い切り泣いた。

それからの一年間は入退院を繰り返しながら、やはり一年くらいで亡くなった。アルバイトだった仕事ももうやめていた。今思えば、会に関わることで最後の気力を保っていたのではないかと思う。

会報のことで病院に相談に行くと、ベッドにはいない。スニーカーはいて、病棟の階段を往復していたこともある。その時は庭のヤマボウシの花を一輪持参するととても喜んでくれた。

亡くなったのは2001年の9月。6月の広島城の観察会には一時帰宅して、自転車で参加していた。体がきつそうなので送ると言うと、それまでのように遠慮せず、乗ってくれた。車はその頃、X-Trailだったので自転車一台、余裕で積めた。(ああ、あの車、また乗りたいなあ。。。。)

車のところまで自転車押して一緒に行くつもりだったけど、停めた自転車の横で待っていて、もう余計に歩く体力が残っていなかったのかもしれません。一人暮らしで、家に帰ってあのあと夕食はどうされたのかといまだに気になります。昼はチューブ入りの栄養剤のようなもので済ませていたから余計に。

それが最後の参加でした。そして私がながいさんを見たのもそれが最後になりました。享年53歳か54歳、誕生日知らないので。若いですねぇ。

うちの夫も交えて数人で山へ行ったこともあります。曽場が城山の急な下山路で躊躇している友達に「滑り落ちる前に道を横切る」とコツを言うのですが、あとでそんな軽業みたいなとこと言って笑い合いました。なんであんなに楽しかったのか、女子学生みたいにけらけら笑っていたのです。

いゃあ、長話になりました。会はしばらく続きましたが、やがて参加者も減り、解散しました。会費は月100円、会計報告、会計監査も怠りなく、残金はずっと最後の会計係が持っていましたが、東日本大震災に寄付したと聞きました。いい終わり方だったと思います。

会では何よりも、自然の中を気の合った人と歩く楽しさ、それを教えてもらったと思います。

人生はいかに自分を楽しくさせるか、楽しく過ごした方が絶対にいいんですから、その方法の一つを教えてもらいました。今でもお付き合いしている友達の何人かは、この会で知り合った人。みんな19年分年取りましたが、会うとあの頃のように楽しく話します。

シロモジ・・・以前は極楽寺のシロモジに秋になると会いに行ってたけど、今は運転が億劫で行かない。途中360度のループがあったり、と険しい山岳ルートです。

その代わり庭に一本シロモジの木を。それを眺めて昔を思い出しています。

長話陳謝。

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断る勇気を持つ

2020-12-07 | 断想

楽しいクリスマス飾り 2019年11月。島根県玉造温泉で。


時々拝見する、お寺の奥様のブログ、たぶん私より若い方だと思うけれど、参考になる考え方いろいろ。

最近の記事は、自分にできないことは断ればいいというお話でした。

人のために文句言わずに働く、と言うのは悪いことではないけれど、それを繰り返すと、何頼んでも断らない人と、軽く扱われる。自分のしたくないことは時間を犠牲にしてまでする必要はないとのことでした。

なるほど。確かに言う通りですよね。できることは協力するのはもちろんですが、無理して人のために働き、感謝されないばかりか、してもらって当然、時にはその結果にあれこれ言われる場合もあれば、初めに断る勇気も大切かなと思います。

それで壊れる人間関係なら、それはそれだけの間柄だったと思いましょう。

翻って、自分自身は人の厚意に甘え、気が付かずに無理なことお願いしてないか、時折立ち止まって振り返らないと・・・と思わされました。


きょうは毎月恒例の、おばあちゃん達のお茶会。12月なので、前もって注文していたイチゴのショートケーキを配達してもらい、みんなで食べていい年納になりました。

きょうもお寿司を寄附する人がいて、道後温泉土産の坊ちゃん団子もあり、おやつ一杯の楽しい会になりました。

皆さんが準備する私にお礼を言われるので、こんな私でも少しはお役に立てているのかなと嬉しかった。

お礼と感謝の気持ちは言葉一つで充分。人の気持ちを動かすのも言葉一つから。

説明を拒んだり、意味不明の日本語ではぐらかしたりって、せっかく人間は言葉という便利な道具を持っていて、それを発信できる立場にあるのに、残念としか言いようがない。今国民が困っている問題について、何も考えていない、成り行き任せ、そんな印象を受けます。

話がよそに飛んで行ったけど、どう見ても当事者能力があるようには見えません。他に誰かいないのでしょうか。暗澹。

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歩く、食べる、話す、笑う。

2020-11-29 | 断想

今はクリスマス。

お正月には飾りを替える。


昨日会った友達、お店の配慮で斜め向かいに座り、お互いマスクなので話が遠い。遠いけど頑張って話をする。

暗い気分になる話はしない。前向きに、今していること、これからしたいことを話す。

まだまだ頑張ってやりたいことしようねと確認。それから10代の時のことを一昨日のことのように話した。同窓生の誰彼のことを。

頭いい人に限って美人なのよね。とひがんだ発言をする私。でもまあ、頭の中身や顔の良しあしも親から受け継いだ資産。限られた資産で生きてきたこの人生、今さら悔やむのはおかしい。私は私なりに。それはこれからも。


私は同世代や少し上の人との付き合いが多いのだけど、皆さんそろそろ、歩きにくい、あまり食べられない、正座しにくい、階段がつらいなど、不調を訴えるようになった。

その話聞くとちょっと寂しくなる。

うちの姑様は2019年の1月まで、エレベーターのないビルの四階に住んでいて、2018年の一月、年で言うと94歳に大腿骨を骨折するまでは、手すりに掴まりながらも、自力で何とか階段を上り下りできていた。

今思うと素晴らしい体力だったと思う。階段使えなくなったら施設に入るしかないと自分でわかっていて、必死だったのだろう。

自立心の旺盛な人なので、私たちの援助も受けつつではあるけれど、一人で暮らしていた。

夫は昨年の一月にぎっくり腰になってからずっと調子が悪い。昨年の五月にはあまりの痛さに歩けなくなり、私は旅行で不在、スタッフに車椅子押してもらって近所の整形外科を受診した。

本人は姑様の家での介護、特に中腰でオシメ替えて腰を傷めたのだと言っている。姑様本人の、家族の恥になるのでしょうか?こんなことは。いえいえ、自分自身への自戒として、書き留めておきたいのです。

私は息子が介護するといっても、断るつもり。一人で暮らせなくなったら住み慣れた家を卒業して、年寄りの寄宿舎に入り、同じ境遇の人と介護受けながら共同生活して最後の時を迎える。それでいいと思っています。

夫は体格がいいし、自分の体力を過信していたのです。しかし、一回ずつは大した負荷がかからなくても、毎日何度も繰り返すのがじわじわとダメージを与えたのだと思います。

そういうことにならないよう、今からしっかりと言っておかないと。認知症になって言えなくなる恐れもあり。

夫は、私が反対しても納得するまでお世話したはずだからもう何も言うことはないのですが、私の息子が介護の結果、不調をずっと抱えて老年を迎えることになったら、母親として悔やんでも悔やみきれない。無理はしないように、美談にしないようにと言い続けるつもり。

私は夫に、介護になるずっと前から、お母さんの介護はあんたがしてね。長男の嫁がしたのでは当たり前すぎて誰も目に入らないし、感動しない。息子がしてこそ世間は感動し、お母さんも喜ぶと言い続けてきましたが、今思えば悪いこと言ったなと後悔しています。

感動するような美談にしてはいけなかったのだと。義理の親なら愚痴も言えるけれど、実の親は黙って受け入れるしかないのだから。

お母さんの介護は専門家に任せて、しっかり話し相手になったりするのが大事って、なんで言えなかったのかと後悔している。

昨日の友達、お見舞いに行った友達のご主人に「頑張ってください」と言っていたけど、それは経験がないから言える言葉。私はとても言えなかった。「体に気を付けて、使える制度は使って少しでも楽に」と言うしかなかった。


話がタイトルとどんどんずれてきたけれど、元に戻すと、昨日の友達も食べるのも歩くのもゆっくりになり、合わせ鏡として自分の年齢も自覚せざるを得なくなったということです。

今日は自転車で外出して、以前ほど体の機転が利かなくなり、ちょっと危ない思いもしました。危ないと思えばもう自転車から降りて危険をやり過ごす。そうしたいと思います。

少しの距離でも歩く。三食バランスよく食べる。(食べられないという感覚が私にはわかりにくく、常に食べ過ぎ気味。反省)。誰とでも仲良く、楽しい話で盛り上がると、まあ年寄りの心得としては王道の数々を今日は強く思いました。

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恐るべし、google

2020-11-27 | 断想

まったくもって、便利と言えば便利だけど、昨日は本当に焦った。

たぶん、このブログ見つけられたかも。悪いことは書いてないつもりだけど、それでも私のしょぼい暮らしと、シンプルな思考が丸わかり。

8年前にも、前のブログが人の知れるところとなり、こちらへ引っ越してきたんだった。

明らかにした人は全然悪気はなく、応援してくれていたと思う。公開しているのに知っている人に見られるのを嫌がるのは、その人にとっては理不尽。嫌がる私が悪い。

でも、その人とはその後普通に話していてもわだかまりがある。

固有名詞は書かないこと。これ、鉄則。

それでもたった一つの言葉を手掛かりに、どこかから探ってくるのがgoogle。一度ネットに乗ってしまえば、探し出そうという気さえあれば、防ぐのはほぼ不可能。

昨日はそれを実感しました。それでせっかく見ていただいた記事のいくつか、下書きに移しました。申し訳ありません。

このブログも、自分の記録にとって置いて←そういう未練が禍いの元!!また人知れずどこかへ引っ越そうかなあ。。。。

私としたことが気になって、夜中過ぎに目が覚めてこれ書いてます。

コメント (8)
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