中尊寺、毛越寺のことを調べていた時、岩に張り付くように建てられた赤いお堂の写真を見ました。毛越寺から近いので、ここにも行ってみることにしました。
『 達谷窟毘沙門堂(たっこくのいわやびしゃもんどう)
清衡が平泉に居を構える以前にも、すでにいくつかの寺院が平泉とその周辺に建立されていました。その一つが西光寺です。寺法によれば、坂上田村麻呂が蝦夷(えぞ)平定の際、毘沙門天(びしゃもんてん)の加護を謝して京の清水寺を模して毘沙門堂を建立、鞍馬寺にならって108体の多門天を奉ったのが始まりとされています。
蝦夷と田村麻呂に係わる事情は、多くの物語、伝承となり、西光寺の寺伝にも色を添えています。毘沙門堂は2回にわたって焼失し、現在のものは昭和36年に再建されました。』(いわての旅より)
石造りの一の鳥居
朱塗りの二の鳥居(両部鳥居)
鮮やかな朱塗りの三の鳥居(両部鳥居)
清水寺を模した「毘沙門堂」
右が阿、左が吽、ユニークなお顔の狛犬
本当に岩にのめり込むように建てられています。
内部は、撮影禁止でしたが、特別な雰囲気の場所でした。
明治29年の地震で肩から下が剥落して、現在は顔面のみが残っているという「岩面大仏」
この大仏は、前九年後三年の役で亡くなった敵味方の諸霊を供養する為に陸奥守源義家公が馬上より弓張を以って彫り付けたと伝えられているそうです。高さ五十五尺(約16.5m)、顔の長さ十二尺(3.6m)、肩幅三十三尺(約9.9m)の大きな仏様です。
大日如来とも言われているが、崖下にある古碑には、阿弥陀如来を示す種字(梵字一文字で諸仏を表現したもの)「キリク」が刻まれており、阿弥陀仏ではないかとの説もあるそうです。
以前、奈良で石に彫られた仏様も大きかったなあ~。大野寺の仏様は、
以前のご紹介のページを見てね。
前庭の蝦蟆ヶ池(がまがいけ)から平安末期のかわらけが大量に発掘されたという「辯天堂(べんてんどう)」
「辯天堂」には、慈覚大師の作だという八肘の辯才天が祀られ、昭和二十一年の大火の時にも焼失を免れた美しいお姿を見ることができます。
茅葺き屋根の「姫待不動堂」
『 姫待不動堂
その昔蝦夷の長悪路王は京からさらってきた姫君を窟上流の「籠姫」に閉じこめ花見を楽しんでいました。姫君は逃げ出したが悪路王は瀧で待ち伏せし再び捕らえられてしまいました。この瀧が後に「姫待瀧(ひめまちのたき」と呼ばれるようになり、後年不動堂が建てられます。これが姫待不動堂の縁起です。
なお姫君が再び逃げ出さないように姫君の黒髪を見せしめに切り、その髪を掛けたとされる岩が「髢石(かつらいし」と呼ばれ、達谷窟から平泉方面に向かってすぐのところにあります。
・悪路王
悪路王とは悪路(悪い道)の王という意味で蝦夷の指導者「アテルイ」と同一であるという説もある。
毘沙門堂縁起によれば『およそ1200年の昔、悪路王・赤頭・高丸らの蝦夷がこの窟に塞を構え、良民を苦しめ、女子供を掠める等の乱暴な振舞い多く、国府もこれを抑える事が出来ない。そこで天皇は坂上田村麻呂公を征夷大将軍に命じ、蝦夷征伐の勅を下された。対する悪路王等は窟に隠り守りを固めた。
延暦20年(801)、大将軍は窟(達谷窟)に篭る蝦夷を激戦の末に打ち破り、悪路王・赤頭・高丸の首を刎ね、遂に蝦夷を平定した。』となっている。』(日本の旅 観光地一覧・宿情報より)
毛越寺からこちらに来る途中、大きな岩(残念ながら写真はありません)がありましたが、その岩が「鬘石」だったようです。
この「悪路王」のお話から、吉備の温羅伝説(桃太郎のお話のもとになったと言われています)、飛騨の両面宿儺、安曇野の八面大王などと似た感じを受けました。伝説も歴史も大きな強い力によって伝えられるのかもしれません。
桁行五間梁間六間の昔ながらの工法で再建された「金堂」
「御供所」前の大きなしだれ桜、春に会いたいなあ~。
駐車場は、コスモスに彩られたバス停前
お寺紹介 別當 達谷西光寺 (べっとう たっこくせいこうじ) 岩手県西磐井郡平泉町平泉字北澤16番地
☎ 0191-46-4931
まだちょこっとだけつづく