「本田宗一郎ものづくり伝承館」を見学した後は、お隣の「諏訪神社」にお参りすることにしました。
「諏訪神社」
『諏訪神社の祭神は、伊弉諾命(いざなぎのみこと)、天照皇大神(あまてらすおおみかみ)、建御名方命(たけのみながたのみこと)、八坂刀売命(やさかとめのみこと)の4神で、昔は諏訪大明神と呼ばれていました。
創立年代は不明ですが、口伝によると神明社が最も古く、明治7年(1874)に諏訪社、熊野社を合祀して諏訪神社としたと言われ、伝承では信州の諏訪神社の神札が二俣川を経て、ここに辿り着き、村人が拾い上げて祀ったのが創始とされています。』(二俣町ホームページより)
ご神木は、樹齢450年の夫婦杉
どんな願いも叶えてくれるという「塩地蔵」
階段を上がると「滝不動尊」
その隣は「大黒天神殿」
屋根の上には、目までしっかり作られた人の顔と何故か貝?の飾り瓦がのせてあります
諏訪神社の境内(というか?このお隣の「清龍寺」の門前というか・・・?)
二俣城の井戸櫓(いどやぐら)(復元)
『井戸が無かった二俣城では、井戸櫓を建てて天竜川から釣瓶を使って、飲み水を確保していたといわれています。
元亀3年(1572年)10月、武田勝頼が徳川軍の二俣城を攻めた際には、上流から筏を流して井櫓を破壊して開城させました。』(静岡観光おでかけガイドより)
家康が、流れる清水を見て名づけた「清龍寺」
『 清龍寺
浄土宗知恩院(京都)の末寺で、本尊には阿弥陀如来を祀り、信康の霊廟でもあります。
信康は、徳川家康の長男として永禄2年(1559)に駿府で誕生。戦国時代とはいえ数奇な運命を背負わされ、天正7年(1579)22歳の若さで織田信長により自刃させられました。
その後、家康の命により信康の菩提寺に指定され、廟、位牌殿、庫裡、方丈、不動堂、山門、鐘楼などが建設され、「信康山長安院清瀧寺」と号すようになりました。』(だいすき 天竜より)
以前白い藤の花を見に伺った清水のお寺に信康のお墓があったような気がしていたのですが・・・? 江浄寺のことは、以前のご紹介のページを見てね。
本田宗一郎氏が、尋常小学校の頃、正午を知らせる鐘を30分前に突き、早くお弁当を食べたと言われている「梵鐘」
つづく
「諏訪神社」
『諏訪神社の祭神は、伊弉諾命(いざなぎのみこと)、天照皇大神(あまてらすおおみかみ)、建御名方命(たけのみながたのみこと)、八坂刀売命(やさかとめのみこと)の4神で、昔は諏訪大明神と呼ばれていました。
創立年代は不明ですが、口伝によると神明社が最も古く、明治7年(1874)に諏訪社、熊野社を合祀して諏訪神社としたと言われ、伝承では信州の諏訪神社の神札が二俣川を経て、ここに辿り着き、村人が拾い上げて祀ったのが創始とされています。』(二俣町ホームページより)
ご神木は、樹齢450年の夫婦杉
どんな願いも叶えてくれるという「塩地蔵」
階段を上がると「滝不動尊」
その隣は「大黒天神殿」
屋根の上には、目までしっかり作られた人の顔と何故か貝?の飾り瓦がのせてあります
諏訪神社の境内(というか?このお隣の「清龍寺」の門前というか・・・?)
二俣城の井戸櫓(いどやぐら)(復元)
『井戸が無かった二俣城では、井戸櫓を建てて天竜川から釣瓶を使って、飲み水を確保していたといわれています。
元亀3年(1572年)10月、武田勝頼が徳川軍の二俣城を攻めた際には、上流から筏を流して井櫓を破壊して開城させました。』(静岡観光おでかけガイドより)
家康が、流れる清水を見て名づけた「清龍寺」
『 清龍寺
浄土宗知恩院(京都)の末寺で、本尊には阿弥陀如来を祀り、信康の霊廟でもあります。
信康は、徳川家康の長男として永禄2年(1559)に駿府で誕生。戦国時代とはいえ数奇な運命を背負わされ、天正7年(1579)22歳の若さで織田信長により自刃させられました。
その後、家康の命により信康の菩提寺に指定され、廟、位牌殿、庫裡、方丈、不動堂、山門、鐘楼などが建設され、「信康山長安院清瀧寺」と号すようになりました。』(だいすき 天竜より)
以前白い藤の花を見に伺った清水のお寺に信康のお墓があったような気がしていたのですが・・・? 江浄寺のことは、以前のご紹介のページを見てね。
本田宗一郎氏が、尋常小学校の頃、正午を知らせる鐘を30分前に突き、早くお弁当を食べたと言われている「梵鐘」
つづく
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