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念願叶って・・・。 その6 ( 明治村 坐漁荘 1 )

2015-08-17 09:16:09 | 建物紀行
 さて、岐阜旅行の2日目です。
今回の旅行の一番の目的「鵜飼」は、前の日の夜に堪能しましたし、前回上がらなかった金華山にも上ったし、川原町の蔵のある風景も写真に撮ったし、お土産に「登り鮎」も買ったし・・・。
 旅行の下調べに地図を見ていて(実は、地図が大好き)、1時間ほどで明治村に行けることが分かっていたので、それならと「坐漁荘」の本物を見に行きたいと思っていました。富士市からそう遠くない「興津(現静岡市清水区興津)」には、西園寺公望公の晩年の別邸「坐漁荘」が再建されています。
 ゆっくり起きて、美味しい朝食を頂いて、明治村に車を走らせました。夏の強い日差しが照りつける中、建ち並ぶ興味深い建物を見ながら「坐漁荘」に向かいました。

     
     (当たり前ですが)興津の「坐漁荘」と同じ入り口です。

 玄関に向かいましたが、どうやら中は見学できないようです。
がっかりしていると、お庭の手入れをしていた女性が
「11:20から建物ガイドがありますよ。」
と教えてくださいました。建物の中を解説付きで見て回れるということなので、少し待つことにしました。

『 坐漁荘 

旧所在地 静岡県清水市興津町
建設年代 大正9年(1920)

西園寺公望は明治3年(1870)法学を学ぶため渡仏、10年間滞在した後帰国し、中江兆民等と東洋自由新聞を発刊、ブルジョア自由主義の普及に努める。廃刊後は政府に入り、憲法調査のため伊藤博文に従って外遊、次いで各国公使、各大臣を歴任し、明治39年(1906)には伊藤博文のあとを受け、政友会を率いて内閣を組織した。その政治姿勢は終始平民主義を貫き、その後、我が国の元勲と呼ばれるにいたった。


この「坐漁荘」は西園寺公望が政治の第一線から退いた後、大正9年(1920)に駿河湾奥、清水港近くの興津の海岸に建てた別邸である。旧東海道に沿って建てられた低い塀の奥に、玄関、台所、二階建座敷等の屋根が幾重にも重なる。木造桟瓦葺で軒先に軽い銅板を廻らした純和風建物であるが、小屋組には強い海風に耐えられるよう工夫がみられ、梁を斜めに渡し、鉄筋の水平筋違いを十字に張っている。
「坐漁荘」の名には"なにもせず、のんびり坐って魚をとって過ごす"という意味がこめられていたが、実際には事あるごとに政治家の訪問を受けざるを得なかった。


現在、二階の座敷の障子を開け放つと、遠い山並みを背景に入鹿池が見渡せる。興津に建てられた当時は、右手に清水港から久能山が、左手に伊豆半島が遠望された。


昭和4年(1929)、海に面した座敷の横に洋間が、又、その奥には脱衣室を兼ねた化粧室や洋風便器の置かれた便所等が増築された。晩年になって別邸に洋間を設けたことは、若い時から西欧に遊学し、洋風生活に親しんでいたとは言え、洋間の居住性を評価する上で面白い。』(明治村 ホームページより )(文字色づけは私です)

     
     外回りなど写真に撮って待ちます。

 時間になると、先程の女性が、いらっしゃって建物の内部の説明をしてくださいました。
まず玄関を上がると

     
     木が織り込まれた襖(現在の技術では真似できず、当時の物をそのままにしたそうです。)

 風流な竹がふんだんに使われています。窓の竹の格子には鉄筋が入っているとのことです。

     
     雨どいにも竹が使われています。
 
   
                                 まだ玄関を上がったばかり・・・、つづく