だんなさんと二人で、街の雰囲気を楽しみながらホテルに戻ることにしました。せっかくなので、現在の長浜駅舎を見て・・・。ひょいと覗き込んだ路地に石の鳥居が見えました。ちょこっとお参りすることにしました。
金毘羅神社
手前の朱い鳥居はお稲荷さんかしら?
逞しい感じの狛犬がお守りしていました。
小さなお地蔵様や石仏がまとめて置かれています。
この「金毘羅神社」は縁の深い「浄国寺」と細い道を隔てて並んで建っています。
浄国寺の山門
本堂
『浄国寺は、長浜城最後の城主内藤家が菩提寺として創立した寺院である。
長浜城は1574年に築城し、1583年まで羽柴秀吉が長浜城を統治していた。二代目が柴田勝豊(勝家の養子)、三代目が山内一豊、その後長浜城は天領となるが、1606年に内藤信成が四代目の城主になっている。
1615年に摂津高槻城に国替えになるまで、信成、信正と二代、10年間長浜の地を統治、
その折に内藤家の菩提寺として浄国寺が創立された。
現在、浄国寺には内藤家の遺物は残ってはいない。
また、この地に二代目信正の守護神と言われている金刀比羅神社がある。』(案内看板より抜粋)
そして、とても興味深いのは、最初の鳥居の写真、金毘羅神社の文字の書かれた石柱の隣の「従是東 長濱領」の石柱です。
長浜の町を歩いているといたるところで見られるこの石柱は、天正19年(1591年)、秀吉が町屋敷の年貢米三百石を免除する朱印状を与えた時の境界柱を再現したものだそうです。
この朱印状は、賤ヶ岳の合戦の際に長浜町衆が秀吉軍に従軍し、兵糧・弾薬の運搬や戦闘にまで参陣した結果、その恩賞として与えられたものです。年貢米免除の特例は、長浜を除くと京都・大阪・大和郡山しか与えられていないそうです。
ここ長浜市が、今でも市章に瓢箪のデザインを使っている訳の一端に触れたような気がしました。
つづく
金毘羅神社
手前の朱い鳥居はお稲荷さんかしら?
逞しい感じの狛犬がお守りしていました。
小さなお地蔵様や石仏がまとめて置かれています。
この「金毘羅神社」は縁の深い「浄国寺」と細い道を隔てて並んで建っています。
浄国寺の山門
本堂
『浄国寺は、長浜城最後の城主内藤家が菩提寺として創立した寺院である。
長浜城は1574年に築城し、1583年まで羽柴秀吉が長浜城を統治していた。二代目が柴田勝豊(勝家の養子)、三代目が山内一豊、その後長浜城は天領となるが、1606年に内藤信成が四代目の城主になっている。
1615年に摂津高槻城に国替えになるまで、信成、信正と二代、10年間長浜の地を統治、
その折に内藤家の菩提寺として浄国寺が創立された。
現在、浄国寺には内藤家の遺物は残ってはいない。
また、この地に二代目信正の守護神と言われている金刀比羅神社がある。』(案内看板より抜粋)
そして、とても興味深いのは、最初の鳥居の写真、金毘羅神社の文字の書かれた石柱の隣の「従是東 長濱領」の石柱です。
長浜の町を歩いているといたるところで見られるこの石柱は、天正19年(1591年)、秀吉が町屋敷の年貢米三百石を免除する朱印状を与えた時の境界柱を再現したものだそうです。
この朱印状は、賤ヶ岳の合戦の際に長浜町衆が秀吉軍に従軍し、兵糧・弾薬の運搬や戦闘にまで参陣した結果、その恩賞として与えられたものです。年貢米免除の特例は、長浜を除くと京都・大阪・大和郡山しか与えられていないそうです。
ここ長浜市が、今でも市章に瓢箪のデザインを使っている訳の一端に触れたような気がしました。
つづく