今日は、少々おこがましい行為ですが、あるお手紙をブログ上に載せたいと思います。
載せるべきかどうか、随分迷いました。
恐らく、自慢話と受け留める方がいらっしゃるのでは、と、不安だったからです。
でも、こんなに心温まるお便りは、めったにいただけるものではありません。
その文面は、抱きしめたくなるほど、心優しいお言葉で溢れていました。
その手紙は、私が模範とし、尊敬して止まない方からのものです。
国立大学の名誉教授で、ドイツ文学者でいらっしゃいました。
一昨年の冬に、享年90歳で亡くなられ、もうお会いすることはかないませんません。
昨日の記事で、「しみじみとした素敵な思い出について明日は書きます」と述べたのは、この先生のお宅に弔問に伺った時のことです。
このことについて、K先生との出逢いやその後の交流は、次回の記事に回します。
同窓生のN君のお世話で、初めてK先生の宅に伺った時の写真です。
数十年ぶりの再会でした。
右がK先生です。
今日はK先生からいただいたお手紙についてのみの、私の溢れるような思いを記します。
私はそのお手紙を、文箱ではなくて、いつでもすぐ手に触れることができる、身近な引き出しに収めています。
でも、読むのは、本当に久しぶりでした。
それを読み終わった後、私の目は、涙で濡れていました。
そのくらい、また感動してしまったのです。
この温かなお言葉に、私は十分応えるような対応を、その後、先生にしたであろうか。
否としか、答えられない、過去の自分が情けなく、たまらない気持ちで昨日の半日を過ごしました。
もっともっと心を込めた気配りで、K先生に接するべきだった、と後悔の念で一杯に。
最愛の奥様を失くされ、侘しいお一人暮らしでいらっしゃいましたのに。
けれど私は、先生との数十年ぶりの再会を果たした直後あたりから、夫の看護と介護に追われる日々でした。
そのため、心にもないご無沙汰を重ねてしまったのです。
先生からお手紙を頂くたびにお返事は認めたとは思いますが、それも心もとない記憶です。
先生からは、年賀状以外に、数通のお手紙。
さらに、教え子の集まりで岡山にお出かけになる度に、マスカットをお届けくださいました。
K先生から届いたお手紙や文集です。
昨日は、懐かしさで一杯になり、K先生のお優しいお手紙を読み返して過ごしました。
思い切って、そのお手紙の一通を、今日はご紹介させていただきますね。
わたしへの褒め言葉は、とても心優しいK先生の私への気遣いに他なりません。
過大評価です。
言葉通りに受け取らないでくださいね。
現実の私はかなり違いますから。
K先生のお手紙で注目していただきたいのは、若い頃、指導した(個人教授として)教え子に再会できた喜びを、温かな言葉で率直に表現してくださっているところです。
「あの日は本当にしみじみ楽しい日でした。~さんのご両親の事、~町のご近所の人々のこと等々、いくら話しても尽きない想い出が次々と湧いて出ました。河豚料理を戴きながらこのまま時間を引き留めたい気持ちでした。「神よ時を留めたまえ」と祈ったのは、キーツだったでしょうか。あんなに速く時間が過ぎたことは最近は経験したことがありません。別れが寂しかったです。」
さらに続きますが割愛します。
しみじみ良いお手紙だと、感じ入りました。
私も、人をもっともっと大切に思い、受け取った人が感動して下さるようなお便りが認められる人になりたい、と心から思いました。
今はK先生ご夫妻への感謝を込めて、ご冥福をお祈りするばかりでいます。
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