今日が一番素敵

丁寧な暮らしを心がけながら、日々、折々のの心模様を素直に語ります。
今が一番素敵との思いを込めて。

その後の私の暮らし~目先に小さな目標を立て、達成感を味わう日々

2016-07-17 07:26:36 | 暮らし

夫が逝ってしまい、私の暮らしのリズムは、すっかり変わってしまうかに思えましたが・・・・・・。

実際は、それほどでもありません。

夫が元気な頃と余り変わりないリズムで、生活を送っているといっていいでしょう。

大きな変化は、食事の回数を二回にしたことでしょうか。

もともと小食でしたから、二回にしても、差し障りは全くありません。

その代り、朝食は、かなりの量にして、お野菜たっぷり、卵料理、肉料理、ヨーグルトなど、バラエティー豊かにしています。

お洒落には程遠い平凡な朝食。
いつも、こんな感じです。

 

私は大変な早起きのため、起床後すぐ目覚めの効用も期待して、トースト半切れとコーヒーを飲んでいます。

ですから本格的な朝食は9時から10時の間に摂ります。

朝は、1日の活動の始まりゆえ、栄養価高いものを多彩に食するのは、理に適っていると思っています。

けれど、この調子で、昼も夜も同様の量の食事をすると、カロリー過多で太るのは目に見えています。

ですから、お昼は抜いて、夕食は5時前あたりにして、早めに済ませます。

かなり横着をしていますが、1日三十品目以上は食べるように心がけていますよ。

 

最近の一人ご飯

 五目ずし・じゃがいもとちくわの煮物・きんぴらごぼう・冷奴・・ほうれん草のお浸し

 

夕食を早めに済ませるのも、理に適っていませんか。

夜が更けるにつれて活動は少なくなっていくのが自然な暮らし方です。

食事を早く終えれば、消化器官の休息を助けることになるのではないでしょうか。

夜に多少お腹がすくので、腸に優しいヨーグルトをたっぷり摂るようにしています。

目に良い、シロップ漬けのブルーベリーを沢山のせて。

 

こちらも、最近の一人ご飯の夕食です。

鮭ずし・なす煮・かぼちゃの含め煮・冷奴

 

二食生活の私の暮らしになってから、体重の増減はほとんどありません。

夫が亡くなった直後は、二キロ程度やせたでしょうか。

体調は上々と言いたいところですが・・・・・・。

年を重ねるごとに、暑さが応える度合いが大きくなっていくようです。

まだ序の口ですのにね~。

くわばらくわばらといった感じ。

気力で何とか乗り切らなくては。

夫の遺影に向かって、時々、暑気の泣き言を言って、ストレスを発散しています。

多少は力になってほしいものです。

 

一昨日の朝食

 

 遺族年金になってからも、夫のお蔭で、予算の費目は、前とさほど変わらず、当面は不安は抱かないでいい暮らしです。

食費と光熱費は、随分減額しました。

一人暮らしになると、外食とお弁当の回数が増えると思いましたが、あにはからんや。

お弁当は、京樽のちらしずしの折詰を一回買っただけ。

外食も、デパートの階上での和食定食と中村屋のカレーライスを二度頂いただけです。

 

京樽のちらしずしの折詰・豚汁・ほうれん草のお浸し 

 

調理は、私の暮らしの生きがいの一つですから。

とは言っても、栄養さえあれば、見映えは悪くても、あまり気にしない日が、最近は多くて。

 

涙ぐましい倹約の一方で、六月の中頃、鎌倉プリンスホテルに一泊して、アジサイ寺を中心に、いくつかの古刹名刹を訪ねる一人旅を愉しんできました。

また何時か、この思い出話はさせていただきますね

 

長谷寺の境内より望んだ相模湾
梅雨時ゆえ、小雨模様と曇り空の日が多かったのですが、束の間ながら青空となり、
理想的なお天気に恵まれた旅行でした。

 

最近また、JTBでお盆の広島行きの新幹線往復切符と、ホテル予約の諸手続きを済ませ、ほっとしています。

広島に行く前に途中下車して、二泊三日の旅行も愉しむ予定です。

昨日、JTBに八万円ほど振り込みました。

前回のお彼岸の墓参は、5万円の支払いで済みましたが、今回は途中下車するので、パック旅行が適用できないうえ、

旅行シーズンのため、割高になるのだそうです。

遠方の墓参は、経費もかかり大変ですが。

旦那さまの喜ぶ顔を思い浮かべると、今から楽しみです。

 

穏やかな瀬戸内の海の朝焼けの光景です。
広島のホテルより

 

旅行好きの妹(世界でただ一つの姥花日記)に、

「出不精だと思っていたお姉さまだけれど、結構意欲的にお出かけしているじゃない。

鎌倉観光も、上出来よ」

と言って、感心されました。

 

確かにそういわれればその通りですが、鎌倉への一人旅の前は、言い知れぬ緊張感で精神的に疲れ、

「私は旅行好きではやはりないのでは」

と心から思ったものです。

ところが帰宅し、振り返ると、良き想い出が輝いていました。

出かけてよかった、と心から思えた私です。

一方体調だけは、悲しい哉、思い通りに行かず、数日間疲れが消えなくて、不良続きでしたけれど。

 

お料理ばかりの画像も、時には良いかしら。

 

わが家での、その後の私の暮らし方についても、少しお話させてください。

タイマーを片身離さず、計画的に生活する私の暮らし方のスタンスは、以前と全く変わりありません。

目先に小さな目標を立て、一つ一つそれをこなして達成感を味わいながら時を紡ぐ。

この暮らし方のお蔭で、私は夫を失った寂しさを乗り越えて前向きに生きていくことができています。

夫が存命中の頃以上に、計画が細かくなってしまって。

心に隙間を作ると、悲しみと寂しさのるつぼにはまってしまいそうで怖いから。

小さな目標をできるだけたくさん作って、成し遂げる充実感に浸るように心がけています。

 

旅行以外にも、わが家でイベント的な出来事がありました。

二階の南側の部屋のレースカーテンの総入れ替え。

システムキッチンのキャビネット、換気扇のの一部補修などです。

 

次女宅に週三回通い、下校したK君を迎え塾に送り出す、代理ママのお役目も、せっせとこなしています。

土曜日は、ほとんど次女宅で夕食を共に。

私も孫たちの口に合いそうなものをこしらえた時には、そのお料理を運んだり、と。

 

次女宅の或る日の夕食

 

業者さんの出入りが幾度もあり、その合間を縫っての娘宅通いでした。

のんびりマイペースが、本来ならば一番好きな私ですが・・・・・。

孫に喜んでもらえる事に励むのは、多少の犠牲を払っても、心の張りとなり、私を元気づけてくれます。

50代のころの自分を思い出し、若返った気分になって、今後も、当分頑張り続けましょう。

 

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初夏の庭 

2016-07-16 07:11:58 | ガーデニング

わが家の花壇のその後について、そろそろ語りたいところですが、草花の入れ替えをほとんどしていません。

ですから、話題に乏しくて、つい延び延びになってしまいました。

1日に数回は庭に出て、水を遣ったり、花柄を摘んだりの作業は変わらず続けています。

夫が逝った後の一人身の寂しさを、庭の植物たちが、いかに慰めてくれていることでしょう。

ガーデニングを趣味にしていて良かった、と改めて思うこの頃です。

このフレーズは、幾度も記事で繰り返してきた気がします。

これから書くことも、同様です。

同じ気持ちをかみしめて暮らしているので止むを得ないこととはいえ・・・・・。

ガーデニングの話題は、なかなかうまく広げられなくて・・・・・・。

何とか工夫して、もう少し気の利いた記事が、次回からかけるように努めますね。

 

かれんじゅら

 

 初夏のわが家の花壇は、花が乏しくて、緑ばかりです。

そのカラーリーフの一部は、夫の入院先の小さなお花屋さんで求めたもの。

やはり同じお店で求めた可憐な黄色の小花をたくさん付ける「かれんじゅら」も、半日陰の場所ながら、とても長い期間、私の目を楽しませてくれました。

大すきなお花になりました。

けれど、早まった無慈悲な対応をしてしまった私。

梅雨前に萎れたので、抜いてしまったのです。

説明では、種がこぼれて世代交代を繰り返しながら周年花が付くと書かれていましたのに。

周年はあり得ない、と勝手に思い込んでしまい、早々に諦めてしまいました。

 

園芸が趣味で大変研究熱心だった父とは大違いです。

「父は育てる人、母は観る人」と私たち姉妹は、よく言っていました。

これからの時期、父丹精の盆栽仕立ての朝顔が、目覚めるとお茶の間にいつも飾られていました。

その父とは、大違いの私。

いい加減な手入れしかできなくて・・・・・。

根を詰めすぎると、疲労困憊してしまう私の体質ですから、何事も適当を旨としています。(笑)

 

けれど、葉物はいずれもとても元気ですよ。

生き生きしています。

 

春ごろの花壇の様子です。今も、似た光景です。

 

 夫が入院中、よく訪ねた不愛想な中年の男の店主さんが経営する小さなお花屋さん。

センスが素晴らしく良くて、店頭に並ぶ草花には私の目を引くものばかり。

よく電車に乗る前に、束の間の時間訪ね、買い求めたものが結構あります。

元気のいい苗だったのでしょう。

いずれも期待を裏切らず、すくすく成長してくれました。

夫が闘病中の切ない思い出とも重なり、愛着もひとしおです。

 

 

一方、最近、近所の花屋さんで購入した草花は、一週間もたたずして萎れてしまい、がっかり。

数千円も支払いましたのに。

とても感じの良い母娘が経営なさっておられます。

久しぶりに立ち寄り、店先に並ぶセンスの良い草花を見て、今後ひいきにして差しあげたい、と心から思ったのですが。

苗の余りの元気のなさを見て、すっかり信用が置けなくなってしまいました

夫の入院先の最寄り駅前の花屋さんの苗は、いずれもとても元気でしたから。

 

遺族年金暮らしになってからは、数千円の無駄は、結構な痛手です。

以前のような、万以上の大人買いは全くしなくなりました。

草花を求める時、心から楽しめない自分がいるようで・・・・・・。

悲しい事だけれど、無駄な出費のように感じたりするのですよね。

せこくなってしまった、そんな自分の心模様が、なんだか悲しい。

今でも、時には大人買いだって、できないわけではむろん全くないのですが・・・・・・。

自分にとって絶対必要な出費とまで思えないのですよね。

今後のガーデニングへの予算の配分は難しい課題となりそうです。

 

 雨樋を入れ替えた時、色を緑にして大正解でした。
庭の風景に溶け込んで、樋が目障りでなくなりました。

 

今は、ほとんど緑中心の花壇になっていますが、この現状に、私は結構満足しています。

派手さはないけれど、しっとりとした落ち着いた風情で、色合いとテクスチャーの変化だけでも、十分私を愉しませてくれます。

一層の事、緑の花壇にしてしまいましょうかしら。

費用も掛からないうえ、手入れも簡単ですもの。

花物は、テラコッタの植木鉢のみにすれば、日当たりのよい所に、移動でき、草花にとっても幸せなことでしょう。

花壇に植えては、我が家の場合、半日陰のところが多いため、条件が厳しすぎて、草花が可哀想。

 

サルビアの深い鮮やかなブルーに魅せられて、毎年買うのだけれど。
この場所も、ムクゲとシャラの木に陽を遮られ日照不足なのでしょう
花が鑑賞できたのは最初だけ。今は待てど暮らせど、花が咲いてくれません。

 

私の理想のイメージで植えつけるのでなく、植物は適材適所の精神で配置することが大切ですね~。

色々な思いを,徐々に生かして、少しでも良いガーデナーになれるように頑張りたいものです。

 

草花にとり、日当たりがよく一番好条件の場所です。
春の頃の光景です。

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続 私の心の支えとなった友人の言葉

2016-07-15 07:16:53 | 想い出

中高時代は、まだ自我が確立されておらず、悩み多き、ひ弱な学生に過ぎなかった私。

そんな私を心配されたのでしょう。

高校時代の恩師、H先生が私に贈って下さった卒業時の言葉は、「大地を踏みしめて歩いていこう」という、特別なものでした。

友、Iさんは、おそらく私のその印象が、完全には拭い切れておられなかったのかもしれません。

 

その友人のお父さまに当たられる小学校の恩師、I先生のお墓参りを兼ねた同窓会が、伊勢で開かれた時、数十年ぶりに彼女に会いました。

昔と変わらない、楚々とした慎ましい雰囲気のIさん。

今は茶道の先生をなさっておられるようでした。

私が前々回の記事で綴った、日本古来から伝承されてきたお稽古事を、マスターの域まで極められたお手本のような人。

清楚な凛とした佇まいでいらっしゃいます。

その時久し振りに、いろいろ語り合うことができた私達。

 

その半年後の年明け、私は久しぶりでしたが、彼女に、夫が亡くなったことを知らせる喪中葉書を出しました。

このたび、ご紹介させていただいた彼女の言葉は、そのお返事に書き留められていたものです。

 

「腰の痛みにかかわらず貴女が、どんなに幸せな人生だったか、すぐわかりました」

 

素直に嬉しく、この言葉を幾度もかみしめた私です。

 

 

もしかすると、彼女は、中高時代との私の変わりように、驚かれたのかもしれません。

多少趣が違いますが、40代後半の頃でしたでしょうか。

妹に、「過去のお姉さまと、今のお姉さまは別人のよう」などと言われたことがありました。

 

確かに私自身も、青春時代を含めた若かりし時の自分より、厳密にいうなら、30代後半頃からのの自分の方が遥かに好きです。

夫の海外赴任で、米国に在住した頃に重なります。

一皮むけられたのは、この時代に出逢えた、良き友人達の薫陶のお蔭だと思っています。

とはいえ、相変わらず、妻として母親として試行錯誤の連続でしたが、大地を踏みしめて、私なりの人生をしっかり歩めるようになっていました。

理想は高いながら、自分の弱さには勝てず、矛盾を一杯抱えながら、それを乗り越え乗り越えの暮らしでしたが。

努力が一つ一つ成果となり順調に実る、幸運な人生だったように思います

その私の人生を陰になり日向になり、ずっと見守り続けてくれたのが、夫です。

 

 

結婚当初は、世間知らずで、何事に臨んでも要領が悪く、未熟そのものな女性に過ぎなかった私。

そんな私にもかかわらず、全幅の信頼を寄せ(?)、家事全般、子育てに至るまで、すべての事を私にまかせてくれた旦那さまでした。

時には、その重荷に耐え切れず、「もっと手伝ってよ」との愚痴を述べたことも再々ありましたが。

夫のこの姿勢のお蔭で、娘時代とは見違える程、私は逞しくなり、恩師の言葉通り、大地をしっかり踏む締めて歩けるようになりました。

 

寡黙な旦那さまで、優しい言葉などかけてもらった覚えはほとんどないけれど・・・・・・。

夫が私に寄せてくれたこの信頼こそが、何よりの優しさだったと思うこの頃です。

 

文句や愚痴を述べたことがほとんどない人。

投資で、ひと財産を失うといった愚行を私が犯した時でさえ、咎め立ての言葉一つ言わなかった人でした。

娘たちを叱ったことも一度もありません。

子供たちを叱る憎まれ役は、私と決まっていました。(笑)

 

 

おおらかな気持ちで私たち家族を常に見守り、経済的にも何不自由のない暮らしをさせてくれた旦那さま。

私はその庇護のもと、伸び伸びと、自分が立てた夢多き人生設計の道を、幾度も脱線しながらも、幸せに歩むことができました。

 

私の友人の「貴女がどんなに幸せな人生を・・・・・・」の言葉は、すべて夫のお蔭によるものです。

 

命日になるとお花屋さんから、花束が届きます。
Mちゃん!ありがとう

 

がんが骨に転移し、激痛に苦しんでいる頃の旦那さまは、弱音も幾度か吐きました。

とても強い人だっただけに、最後の変わりように、私は驚きもしましたが。

「傍にずっといてほしい」とつぶやいたその当時の旦那さまへの愛しさが、今は切なさと共に、一層募って仕方がない私です。

今なお、「ありがとう」の言葉しか浮かんでこない暮らしの日々を、私は送っています。

 

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私の心の支えとなった友人の言葉

2016-07-14 07:17:54 | 想い出
夫の葬儀後に頂いたお手紙やメールにおける、とても印象的な言葉。
 
今も深く心に刻まれ、折々で私を励まし、慰め、支えてくれていることについて、少しずつ書き留めていこうと思います。
 
 
「豊橋でなん十年ぶりでお会いしたとき、腰の痛みにかかわらず貴女が、どんなに幸せな人生だったか、すぐわかりました」
 
 
 
 
 
私はこの一言を目にした時、友人の優しい気遣いを有難く思うとともに、改めて夫への感謝の気持ちが溢れ、涙しました。
 
 
 
 
 
 
私が秘かに慕い尊敬して止まなかった中学の同級生、Iさんからのお手紙に書かれていた文章です。
 
Iさんは、私が小学生の時、六年間にわたってお世話になった担任の先生のご長女でした。
 
とても優しくて、お姉さんぽい雰囲気。
 
学業も、とても優秀な人でした。
 
 
彼女とは親しくなりたかったのだけれど、結束の固い仲良しさん達がすでにもういて、そのグループに入れてもらえなかった辛さは、今でも思い出します。 
 
その頃の私は、主体性などまるでなく、どこかお嬢様気取りのおとなしいに女子学生に過ぎませんでした。
 
お嬢様気取りなぁ~んて言っても、一介のサラリーマン家庭の娘に過ぎなかったのですけれどね。(笑)。
 
 世間知らずもいいところでしたし、花にたとえれば、「白百合」なんていわれて、清純派ぶっていました。(笑)
 
そんなひ弱な雰囲気の私に、彼女は魅力を感じなかったのでしょう。
 
 
そのクラスは、個性的な学生が多く、学校行事にも前向きでとても良いクラスでした。
 
中学の難関試験を合格した優秀な学生が大半を占めていました。
 
私は、小学校からの持ち上がりで、受験は経験しなかったも同然。
 
そのためか、中学入学後は、最初からコンプレックスが結構大きかったように思います。
 
 
 
 
小学校高学年になるまでは、勉強なんて一生懸命した覚えはほとんどなかったけれど、オール5が当たり前のような生徒でした。
 
小学校レベルの内容なら、何をしなくても十分ついていけていた私です。
 
 
 ところが、中学に入学した途端、委縮してしまって、成績はみるみる下り坂。
 
(ネットで調べたところ、私が小学生当時の成績表は、かなりアバウトなものだったようです。
頑張っている子には、オール5の成績を先生がよく付けた、と書かれていました。笑)
 
 
けれど、中学の学習内容は、そんな生易しいものではありませんでした。
 
無力体質との診断を受けたほど、疲れやすかった私。
 
勉強に取り組み、やる気は十分あっても、すぐぐったりしてしまって、集中力が続きませんでした、
 
それも原因の一つだったかもしれないけれど、要領も悪くて勉強のコツがよくわかっていなかった私です。
 
 
前のお宅にお住いだった大学講師のK先生が週一回、ご指導下さったお蔭で、英語だけは、よくできましたけれど。
 
高校時代は、数か月、登校拒否もしたりして・・・・・・。
 
ですから中高時代の自分が、今思い出しても一番好きになれません。
 
 
 
 
 
そのため、大学は、恩師のF先生の推薦で、或る中堅のミッション系の女子大に入学でき 英文学を専攻しました。
 
最初の二年間は能力別クラスになっていて、私は英語だけは比較的優秀だったらしく、一番良いクラスへ。
 
大学時代も、後悔することはいろいろあるけれど、心から信頼できる友人二人に恵まれ、充実した学生生活を過ごせました。
 
そのうちの友一人は、亡くなって二十年以上が経ちます。
 
めったに会えないもう一方の名古屋在住の親友は、今でも、私の心の友であることに変わりありません。
 
電話でたまにお話すると、身内のような親近感を覚えます。
 
 
冒頭でご紹介した今日の記事のテーマらしき言葉から、随分外れた内容になってしましました。
 
いかに私が、か弱くて存在感の薄い人間であったかを説明したくて、前置きが長くなりました。
 
それが、中学時代の友人、Iさんの
 
「腰の痛みにもかかわらず、貴女がどんなに幸せな人生だったか、すぐわかりました。」
 
に繋がるのでしょう。
 
この続きは、明日にさせて頂きますね。
 
 
追記
 
拙いブログにもかかわらず、たくさんの方達に応援いただき、ありがとうございました。
思うところがあって、しばらくランキングを外れようと思います。
 
結構気が小さい私。(笑)
半年ほど前でしたでしょうか。
マイページのポイントが操作を受け、大きく変動したことがありました。
夫が亡くなり、しばらくお休み後、復帰した頃の事です。
 
1000以上あったインポイントが、突然800くらい削られ、260ほどになり、動かなくなりました。
数日不自然な動きが続きました。
数度ブログ村に、その原因を問いあわせましたが、無回答でした。
それ以来、不信感が拭えなくなってしまっている私です。
 
それとは別に、インポイントがいつもに比べ、異常に少ない日があると、自分では正直に書いているに過ぎなくても、自慢話に聞こえて、皆様の心証を悪くしてしまったのでは、などとくよくよ、ドキドキする自分がいます。
そんな自分が情けなくて嫌でたまりません。
過去、数年に亘って中傷を受けたトラウマから、完全に立ち直れていないのかもしれません。
 
煩うことなく、伸び伸びと記述するために、ランキングを外れる方がよいのでは、と思い始めました。
単なる気まぐれにすぎないかもしれません。
またすぐ戻ってくるかもしれません。
その時は、今まで同様、お付き合いの程、宜しくお願い致します。
 
お休みの間に、今後どのようなスタイルでブログ綴りに臨めばよいのか、試行錯誤してみようと思っています。
知識もボキャブラリーも乏しく、文章力に全く自信がない私。
ブログ綴りは、結構苦労を要する作業です。
でも辞めることはできません。
止めると、ボケが一気に進んでしまいそう。
認知症になるのが怖いから。(笑)
予防に、ブログ綴りほど効果があるものを、私は他では見つけられません。
 
皆様の温かな励ましの応援に、心より感謝申し上げます。
ランキングは外れますが、ブログ村には今のまま在籍させていただくつもりでいます。
新着記事が目に留まりました時には、宜しければ、お立ち寄り下さいませ。
 
バナーを一旦外しましたが、取り付けたままにすることに致しました。
 

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続 お稽古の話

2016-07-13 07:23:39 | 想い出

私が娘時代の頃の事です。

母に勧められ、あるいは自分で興味を抱き、始めた習い事に、下記のようなものがあります。

茶道(表千家)、華道(小笠原流)、お習字、日本舞踊(花柳流)、洋裁、料理等。

 

そういえば就学前から、小学生の低学年の間、絵画教室にも週一回通っていました。

その頃、妹はバレーのレッスンに励み、そのバレー団の子供のプリマドンナ的存在として活躍していました。

母の話では、私は体が弱かったので、お絵描きの教室が向いていると感じたようです。

私の絵画教室の先生のお名前は、今でも覚えています。

下村先生。

細身で背が高く、優しい雰囲気の方でした。

家から、かなり遠く離れたところにお教室があったため、いつも母が付き添ってくれたものです。

 

 

もしかすると、母は、その子の興味の対象と、潜在的な才能を見抜く能力にたけた人だったのかもしれません。

妹同様、私の才能が、短期間でしたが花開いた時期がありました。

朝日新聞主催の全国コンクールに入賞したり、学校の宿題となった夏休み帳のドリルの裏表紙に、私の絵が載ったりしました。

図工の先生が、私に一目置いていらっしゃる、との意識もありました。

二名だけ図工室に呼ばれ、放課後、絵を描かされたりしたこともあります。

 

でも数年間ほど習ったのみで、その絵画教室に通うのを止めてしまった私です。

母に連れられ、デパートで催された印象派の絵画展を鑑賞後、帰宅するとすぐ、絵筆を握って絵を描きだすような子供でしたのに。

続けていれば、私の人生のどこかで、その才能が花開いたかも知れませんね~

なぁ~んて、私の勝手な想像です。

孫のR君とK君は、お絵描きが大好きで、才能も感じられます。

もしや、私の遺伝かなあ~なんて、またまた。(笑)

 

 

今春、わが家の庭に咲いたバラのアイスバーク

 

絵画と同じくらい、多少長く続いたお稽古事に、茶道があります。

中学生時代、ご近所のお宅で習いました。

わが家から数軒先のお宅で、広いお庭の隅に本格的なお茶室がありました。

 

私は若いというだけの理由で、年明けの初釜の日に、お点前をするように仰せつかった事があります。

周りはみんな年配の貫禄あるおばさまたち。

緊張のあまり、柄杓を持つ手が小刻みに震え、炭火で熱くなった鉄の茶釜に、掬ったお湯が滴ってしまいました。

確か、お茶室のお湯が煮えたぎる音を、「松風の音」と言いませんでしたかしら?

風雅なたとえですね~。

ところが私は、そのお茶室の静謐さに水を差すような音を、そのせいで立ててしまいました。

恥ずかしさから、ますます緊張して、お点前を続けたものです。

 

母の遺品のお茶道具
和室には、炉が切られていました。

 

わが家から近かったのは、茶道の先生のお宅のみならず、華道の先生も同様です。

何とお隣でした。

お庭は、手入れが行き届いた実に立派な日本庭園。

起伏があり、鯉が泳ぐ池には石橋までかかっていました

それを臨む広いお縁側で、お稽古を受けました。

権威ある有名な先生でいらしたようで、とても活躍しておいででした。

 

今なら、いくら出好きでない私でも、地理的な利便性がこんなに良ければ、熱心に通って、自分のものにしたでしょうに。

臆手で精神的に幼かった私には、そんな意欲がなかったのでしょう。

何をお稽古しても長く続けられなかった私。

それにもかかわらず、お月謝を払い続けてくれた両親のことを思うと、改めて感謝の気持ちが湧いてきます。

 

妹は(ブログ名 ただ一つだけの姥花日記)、私と違い、茶道はお免状を頂いているはずです。

バレーも、そのバレー団の子役として大活躍しました。

森下洋子さんとは、一時、そのバレー団で、一緒にレッスンを受けたことがある妹です。

私とは大違いですね~。

 

ドリームラベンダー

 

他で思い出深いのは、日本舞踊。

郷里では母のお師匠さんからご指導を受けました。

父の転勤先でも、お稽古に週一回通いました

お稽古用の浴衣を着て、扇子を手にすると、おのずから背筋が伸びて、心が凛としたものです。

夫とお付き合いを始めた頃も、まだ続けていました。

辞めてからも扇子は、長い間、身近において大切にしていたのですが、その内に見当たらなくなってしまいました。

 

同じお稽古場でお習字も習っていました。

花嫁修業として、お料理学校にも、もちろん通いましたが・・・・・・。

 

けれど結局、何一つ、ものにできなくて・・・・・・。

お月謝を無駄払いさせてしまった両親に申し訳ない気持ちがします。

けれど、短期間でもいろいろなことを体験できた私は、本当に恵まれていました。

きっとわずかでも、その経験が、私の心の糧となり、成長の助けになってくれたに違いない、と思うこの頃です。

 

 

 ご覧下さいまして有難うございました。

 

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お稽古の話

2016-07-12 07:14:42 | 想い出

お稽古。

何となく古風な響きがし、奥床しさが感じられる言葉ですね~。

ブログを拝読していますと、いろんなお稽古に励まれた方の記事を目にすることがあります。

私はそれだけで、その方に一目置いて、あこがれの眼差しさえ抱いてしまいます。

 

何故なら、私も娘時代、母に導かれ、或は自発的に、随分いろいろなお稽古に手を付けました。

でも長くて、続いて2~3年。

その道を究めるほどに至ったことは、一つとしてありません。

何か一つくらい免許皆伝のものがあれば、ブログ記事で話題にでき、私の格をチョッピリ上げることができたかもしれませんのに。

格を上げるという言い方は語弊があり、抵抗を感じる方もいらっしゃるかもしれません。

けれど、お稽古の表現がふさわしいものと言えば、日本古来から伝わる習い事が多いですものね~。

一概に日本的なものばかり、とは言えないかもしれませんけれど。

西洋・東洋の伝統を偲ぶような習い事もありますから。

 

 鎌倉へ一人旅した時に撮った長谷寺のアジサイです。

 

私が常に愛読している書物に、次のような記事が載っています。

「稽古」の「稽」は「考える」と言う意味です。ですから「稽古」は昔の物事を考える、古書を読んで学問をする、ということになるわけです。この意味が、時代の移り変わりとともに広く使われるようになり、「学習すること」や「練習すること」も稽古といわれるようになった。でもね、「練習する」といっても、「バスケットボールの稽古」とか「スキーの稽古』とはいわないでしょう。やはり「生け花」「茶の湯」「書道」「琴」などの場合に「稽古」を使う。何故か。これらの伝統技芸には、古くから伝えられた型があって、その型から入ってゆくからです。だから「練習」ではなくて稽古なのです。

中略

古くから伝えられた「型」は生きている。生き続けてきた、と言えるのです。今日の型になるまではに、余分なことは削られ、必要なことは付け加えられてきた。つまり、「定型」と言うのは実は無いのであって、型は常に生成発展をしている、いわば歴史上の生き物なのです。

 

これを読んで、私も古来から伝授され、生成発展してきたような奥の深い習い事を一つくらい極めるべきであったと。

今更反省しても、もう遅い。

いえいえ、スポーツのように体力を余り要しないので、これからお稽古に励んでもいいのかもしれない。

けれど、私はまたきっと、三日坊主とはならなくても、そのうち辞めてしまいそう。

マイペース人間ゆえ、日が決められ、週に一回でも必ず拘束されてしまう事を好まない性格です。

習い事は向いていないのかもしれません。

 

 

 

自分にはそういった情けない面があるので、一つの事を極める人に、私は頭が下がります。

芯がスッと通り、ぶれない凛とした人を心に描いてしまうのは私だけでしょうか。

茶道でも、華道でも、日本舞踊でも、師匠となられるような方々は、皆さんそのような雰囲気をたたえておられませんか。

私にはその様に思えてなりません。

 

そういえば、身近に、伝統的なお稽古ごとに励み、一つ一つものにした人がいました。

私の母です。

お琴、茶道、華道、お習字、日本舞踊、短歌等。

お琴のお稽古に励む母の姿を見たことはありませんでしたが、八畳の和室の床の間には、長い間、お琴が立てかけてありました。

娘時代に精進した和楽器のようで、想い出のアルバムにその姿が見られます。

その他のお稽古事にも励む母の暮らし方が、私の胸に印象深く焼き付いています。

 

母は、努力のみでなく、天性の器用さに恵まれた人でした。

上に挙げたようなお稽古事は、ことごとく自分のものとして、マスターの域に到達していました。

お習字や短歌は入選作品もあり、母が嬉しそうに私に、よく報告してくれたものです。

日本舞踊もかなり上達し、花柳流のお師匠様と発表会の舞台で連獅子を舞った時の母の姿が忘れられません。

 

 

このように何事にも一生懸命臨み、途中でいい加減な挫折を良しとしなかった母。

それゆえ、如何なる時でも姿勢を崩さない凛とした人で、振る舞いも美しい人でした。

恐らく、日本古来から伝わるお稽古ごとに精を出したことにより、自然に身についた所作だったのでしょう。

他に、お料理、編み物なども得意とした母です。

 

 

母に比べ、私の習い事、お稽古ごとの何と浅く、いい加減なものであったことか。

もっとひとつひとつ努力を重ねていれば、それが私の人格を多少でも薫り高いものにしてくれたでしょうに。

今更、後悔しても始まりませんが、束の間の期間でも体験できた事を喜ぶことにしましょう。

何か目に見えない形で、私の成長の糧になっていると思うからです。

 

明日は、私がこれまで習ってきたお稽古事や習い事について、お話させていただきますね。

 

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孫と私~参院選投票日に思ったこと一言

2016-07-11 07:09:42 | 

私には、愛しい孫が四人います。

高校2年生を筆頭に、中1、小5、そして歳のかなり離れた次女家の娘、かれんちゃんです。

保育園の年長さんで、来年、小学生に。

娘たちは見事に産み分け(笑)、両家とも、一男一女に恵まれました。

 

 一昨日(7月9日)は保育園の夏祭り。

催し物を愉しむ、かれんちゃんとお兄ちゃん

 

私は娘二人でしたから、男の子はある意味、未知の領域。

ですから、対応に自信が持てなくて・・・・・・。

けれど、長女家の孫息子R君は初孫ゆえ、その可愛さ余って、かなり夢中になってしまった祖母の私です。

 

今でこそ、子供たちも大きくなり、我が家に来ることは余りありませんが、R君が幼い頃、長女家は頻繁に私の所にやってきました。

そしてR君は、実によく我が家にお泊りしたものです。

一週間一人でも全く平気。

ママを慕って、私を困らせるような事はありませんでした。

子供服を選ぶのは私の趣味と化し、ラルフやファミリアの服に目がなくて、ほとんど買い揃えてあげたものです。

 

 

 

 

何故、そんなに夢中になってしまったのでしょう。

今となっては、理解に苦しむ程ののめり込み様でしたが、夫も、大変な子供好き。

私以上に全身全霊で、孫に接する人でした。

孫とじいじの意気投合振りは、R君のみでなく、長女家の次女のさくらちゃんも、次女家のK君も同様。

かれんちゃんも、おじいちゃま大だ~い好きの片鱗は十分覗かせてていましたが、

その途上で、重い病にかかり、亡くなってしまったじいじ。

 

 

 

病状がひどくなると、あんなに可愛がっていた孫からも、離れたがるようになりました。

私には、とても意外なことでしたから、そんな夫の態度が悲しくて、辛い気持ちになった時期もあります。

でも夫への遠慮から、孫を我が家で預かることは、次第になくなっていきました。

 

次女のお婿さんが数年単身赴任となり、娘と長男のK君はその間、我が家で同居した事があります.

夫が肝臓がんを患う前の事。

ですから、初孫のR君同様、じいじとK君の蜜月は数年やはり続きました。

良き思い出を共有して、亡くなるまでの日が一番浅かったのがK君です。

 

そのせいもあるのかもしれません。

私は、別の車に乗っていましたから気が付きませんでしたが、妹が葬儀後、報告してくれました。

K君が、火葬場に向かうバスの中で、ずっと泣きじゃくっていた、と。

娘の話では、家に帰ってからも同様だったらしく、消沈したきった状態がその後もしばらく続いたようでした。

 

ごく最近も、私は切なくなり、K君への愛しさで胸が一杯になるような事がありました。

「僕は将来広島に住もうかな~。お爺ちゃんのお墓もあるし」

小学校五年生の子が発した言葉とは思えませんでした。

この話を次女から聞き、感極まってしまった私です。

 

幼い頃のK君

 

 K君の優しさは、どうも天性のようです。

同居していた幼い時から、私を困らせるようなわがままを言ったことが一度もありません。

実に穏やかな性格。

今も変わらず、クラスでは誰とでも仲良くでき、リーダーシップもなかなかのようです。

 

私はK君の傍に居させてもらうだけで、まだ小学生ですのに、純白の真綿にくるまれたような居心地の良さを感じます。

今は眼鏡をかけていることが多い大きな美しい瞳にも、その優しさが溢れています。

 

  

妹にも、とても優しいお兄ちゃんです。

 

いつか、K君のパパに、その私の思いを語ったところ、私の身に余るような思いがけない言葉が返ってきました。

「K君の優しさは、お母さんの家の血を受け継いだのだと思いますよ。

M子も優しいし、お姉さんも優しい。

お母さんも優しい性格じゃあないですか。

その性格を、Kは受け継いでいるのですよ。

僕の家はそうではありません。

徹底した個人主義のうちですから」

 

私はとんでもないと思い、言い返しました。

「Hさんのご両親こそ、とても優しくて思慮深い方達ではないですか。

敬虔なクリスチャンでもいらっしゃるし」

「いえいえ、うちは違います」と笑いながら言い返した婿のHさんでした。

 

個人主義は、インテリに多いと聞いたことがありますもの。

個人の尊厳を尊重するこの言葉は、悪い意味合いでは決してありませんよね。

 

本当の優しさを突き詰めるとなると、我が家の人たちが、その言葉にふさわしいかどうか。

首をかしげ、気恥ずかしさで身の置き所がない心境になりましたが・・・・・・。

身内のお婿さんが、そのような感想を述べてくれたことは、素直に嬉しくあり難い事でした。

 

 

さくらちゃんが一歳の頃 

夫の笑顔が最高

 

もしかすると、わが家で一番優しかったのは、旦那さまだったかもしれません。

一見、不愛想に見える寡黙な人でしたが。

私に対しても、文句を言ったり怒ったりすることは、長い結婚生活の間、ほとんどありませんでしたから。

娘たちを叱ったことも一度もありません。

空のように広く、海のように深い心の持ち主だった旦那さま。

ですから幼い孫たちが大好きになったのでしょう。

 

今春中学1年生になった長女家の孫娘のさくらちゃんは、

「理想の男性はおじいちゃま」

と言って、今も憚りません。

 

追記

昨日は、参議院選挙投票日でした。

今の時代ほど、先が見えない不安な世の中を意識して暮らすのは、私は初めてのような気がします。

この状況は、日本のみならず世界的な現象のようですが。

それにもかかわらず、投票率は、過去4番目の低さとの事。

少々驚きましたが・・・・・・。

 

そうはいっても、私も重い腰を上げ、投票所に向かったのは、日も暮れた7時ごろ。

一票を投じてきました。

選挙の帰り道の事。

西の空は、茜色に染まり、それはそれは美しい夕焼けに輝いていました。

しばし見惚れてしまった私です。

 

この夕焼けは、きっと明るい未来を示唆して、私たちを祝福してくれているのかもしれない。

楽観的な私は、ついそのように考え、孫たちの将来に希望を託しました。

世界的に、高齢化と少子化が進む中、グローバリゼーションによる格差も進み、大変厳しい現状ですが。

人間の英知と努力で、この難関を乗り切り、不安を抱かないで済む世の中を作り上げてほしい、と切に願っています。

 

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