今日が一番素敵

丁寧な暮らしを心がけながら、日々、折々のの心模様を素直に語ります。
今が一番素敵との思いを込めて。

ハプニングに見舞われた倉敷の旅

2016-03-13 08:31:52 | 旅行

尾道の観光を期待以上に満喫した私。

その企画を立ててくれた妹への、感謝の気持ちで一杯でした。

心和む尾道の眺望を眼下にしながら、文学の小道を散策しているとき、妹が

「お姉さま、何か詠める心境でしょう。Yさんを偲んで、一句どうぞ・・・・・・」と。

相変わらず折々で涙拭う感傷的な心でしたから、何か詞を紡げそうでも、貧弱な私の感性と語彙では、え~え~とつぶやくばかり。

暮らしの折々で、優れた短歌を詠んだ母とは大違い。

そんな口惜しさもチョッピリ味わいながらも、心から満たされた尾道の旅でした。

 

そして、昼下がり、私たちは倉敷に向かいました。

尾道の時と同様、私は妹の案内に身をまかせた、実に気楽な旅。

やはり観光ガイド本もなく、下調べも一切していませんでした。

辿り着いたホテルは、過去の紡績工場を改装し、ホテルへと変貌した建物。

タクシーの車窓から、これはいったい何?と思わず目が惹きつけられた赤煉瓦の威圧的な高い塀。

まるで牢獄の塀のようでしたが。

それが、私たちが泊まったホテル、アイビースクエアーです。

 

 

倉敷では、とても人気の高いホテルらしく、確かにその塀の門をくぐると、そこはタイムスリップしたかのよう。、

レトロで重厚な趣の素敵な空間が、私達を迎え入れてくれました。

またまたとても感動した私です。

 

 

 

妹の予定表には、夕食後、美観地区の夜景を愉しむプランが組み立てられていました。

けれど、それはさすがに私達には強行軍過ぎる、との思いから中止。

ホテルの夕食を、時間をかけてゆっくり愉しみことになりました。

ところが、どうしたことか、私は食欲がありません。

「ホテルは素敵だけれど、お料理の味は今一つね~」

と、感想を述べた私でしたが、その食欲の減退は、体調異変と言う思いがけないハプニングの伏線だったようです。

 

その翌朝あたりからの記憶が、今綴るにあたってあまり鮮明でなく、少々困ります。

体調が良くなかったせいでしょうか。

でも翌日の朝の私は、まだ普通に行動ができました。

二人で向かったのは、街並みが国の重要伝統的建造物群保存地区になっている、倉敷河畔の美観地区。

 

 

そこは、まるで昔ににタイムスリップしたかのようでした。

歴史のロマンを感じながらの散策。

白壁の蔵を持つ商家風の建物や町家が軒を連ね、倉敷河畔に独特の情緒を醸し出していました。

江戸時代の商人や武士が往来する姿が、目に浮かんでくるような風情です。

倉敷は、江戸幕府の天領となり、年貢米の集積所として栄えた街とのこと。

 

 

その街の一角に、私が観光を待ち焦がれていた大原美術館があります。

ところが、誠に誠に残念ながら、私たちが訪ねた月曜日は、休館日。

まだ私はホテルにいて、そろそろ身支度を始めようとしていた時、一足先にこの河畔の散歩に出かけた妹が戻ってきました。

ドアを開けるなり、素っ頓狂な声で発した第一声が、このお知らせ。

私としたことが、なんという失態・・・・・・云々。

私も残念至極だったけれど、今後お墓参りの帰省で、幾度も通る街。

またの機会の楽しみにすることとなりました。

 

ギリシャ神殿風の重厚な石造建築の佇まいの大原美術館。

今回は、やむなく外観のみ、恨めしく観て終わりでした。

 

 

その美術館がある場所の向かい側に、川を挟んで、国の重要文化財になっている大原家の蔵屋敷があります。

美観地区の蔵屋敷を守り、大原美術館まで設立した大原家の人たちの功績とご苦労に頭が下がる思いがしました。

 

 

さて、このころから、私の体調は一気に下り坂。

お汁粉を頂いたのは良く覚えているけれど、お昼食は、どうしたのだったかしら。

記憶が途絶えてしまっている。

後半の美観地区の観光は私は取りやめ、アイビースクウェアーの一室を特別提供してもらい、新幹線の発着時刻近くまで休ませてもらうことに。

 

 

妹が、残りの観光を済ませ、部屋に戻り、私を叩き起こしにかかりました。

最悪の体調になりつつあった私には、まるで拷問を受けているかのよう。

でも無理しても帰って良かったです。

インフルエンザだった私の体。

タミフル効果の期限がぎりぎりのところで、治療が間に合ったからです。

 

叩きおこされたなんて、少々大袈裟。

妹が私が体調を崩した時の事を面白おかしく、オーバーに表現していたので、その仕返し。

わたし、「死にそう~」何て言った覚えありません。

観光を途中で取りやめざるを得なかった残念な気持ちを抑え、静かに耐えて、ベッドで横になっていただけです。

次女のMちゃんに、迎えのお願いを頼んだのも、妹。

私はタクシーに乗れば一人で帰れるから、と言いました。

 

でも、本当に楽しかった姉妹旅行。

次は、イタリア旅行の企画が持ち上がっているけれど、一周忌が過ぎるまではちょっと無理そう。

旅慣れている妹に聞くところによると、旅行経費は、お小遣い除いて5~60万円とのこと。

ビックリ!

遺族年金暮らしの身になった今、お金の使い道は頭を悩ますところです。

シニアーの海外旅行は、今、人気が高いのかもしれないけれど、私は本当にそれを望んでいるのかしら。

それほどの金銭を投入する価値を、そこに見いだしているのかしら。

時差もあり、体力が持つかどうかも、とても気がかり

じっくり検討しましょう。

限られたお金を、一人身になった今、いかに有効に使い、人生を楽しむか。

十分に考えたいものです。

 

 

しばらく、またお休みさせていただきます。

心のエネルギー不足か、今回の投稿はいつも以上に疲れました。

長い間お休み後の投稿でしたのにね~

肩に力が入ってしまうのでしょうか。

文章を綴ることへの苦手意識は相変わらずなので、心からまだブログ綴りを楽しめていないのかもしれません。

もっと楽しく、もっと気楽に、を目指したいものです。

 

最後になりましたが、あの悲劇をもたらした大震災から、五年が過ぎました。

なおその傷から癒えない方々の、ご苦労を思わないではいられません。

被災地の復興が、住民の望み通りに進展しますように。

そして、希望に満ちた良き日々が紡がれますように、と心からお祈り申し上げます。

 

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尾道・倉敷の姉妹旅行 

2016-03-12 07:36:37 | 旅行

四十九日の法要を郷里の広島で無事に終え、翌日、私達姉妹で出かけた尾道・倉敷の小さな二人旅。

旅行を終えた数日後には、妹が(世界に一つだけの姥花日記)、非の打ちどころがない旅行記と見事なアングルでとらえた風景写真をアップして記事にしています。

それを見た時は、私はもう何も書けない。

「妹の記事を読んでください」で終わりにしようかしら、と思ったほどです。

妹にも、よくまとまっていて見事な文章と画像だった、との感想を私は述べました。

 

 

こういったことは、まだ感動が醒めやらない内に綴ってこそ、読む人に多少の臨場感を感じて頂ける、生き生きした文章が書けるというものですよね~。

旅行を終えて、ほぼ半月以上が経過してしまいましたし・・・・・・。

妹の素晴らしい記事を読んでしまったせいもあり、書く自信がなくて・・・・・。

でも久しぶりの観光旅行だったせいか、今も思い出が、結構鮮やかに蘇ってくるのですけれどね。

 

最後は私の体調不良で、大変な苦労をしましたが、姉妹ならでこその、本当に楽しい寛いだ旅ができました。

計画はすべて妹が立ててくれ、私はすっかりおんぶ抱っこ。

下調べも一切せず、白紙の心で臨んだ旅でした。

 

妹が作成した計画表です。これを見て、感心の極みでした。

 

尾道の散策で私の心に強く印象付けられたことがあります。

それは、夫の供養には最適の旅であった、との思い。

もし私に寄り添い一緒に旅行を愉しんでくれたのであれば・・・・・。

さぞ満足してくれたに違いありません。

Yさんの関心を惹きつけて止まない、史跡や記念碑がたくさんありましたから。

文学の小道、然り。

志賀直哉の旧居や、林文子はじめ、この地を愛して止まなかった文人たちが紹介された文学館も。

尾道が小津安二郎の映画、東京物語の舞台であったこともそうでした。

長女が結婚するとき、夫が娘に手渡したのが、この映画のDVDだったからです。

 

海と反対の山側の風景です。

 夫のみならず、悲しみからまだ立ち直れていない私の心が和まされ、癒されたことは言うまでもありません。

ビュースポットからは、360度、尾道の大パノラマを展望できます。

しかしそれは、雄大な自然とは異なった趣でした。

ロープウェイで、千光寺山をのぼるにつれて、視界に広がった眺望は、尾道ならではの独特のものでした。

人家、海の水道、連なる山並み、点在する島々、そこに停泊する大きな汽船、それらを包み込むように広がる青空。

すべてが箱庭的に一体となって、一幅の絵画のように私の目に飛び込んできました。

月並みな「素敵~!」の言葉を幾度も連発してしまった私です。

 

 

この風景を心から愛した文人たちが大勢います。

その一人、林文子の「放浪記」の文章の一節を、ご紹介させて頂きますね。

 

「海が見えた。海が見える。五年振りに見る、尾道の海はなつかしい。

 汽車が尾道の海へさしかかると、煤けた小さい町の屋根が提灯のように拡がって来る。

 赤い千光寺の塔が見える、山は爽やかな若葉だ。

 緑色の海向こうにドックの赤い船が、帆柱を空に突きさしている。

 私は涙があふれていた。」

 

郷愁をそそる切なさが漂った文ですね。

少々おこがましく生意気な言い方ですが、他県の私にも、この言葉を紡いだ時の林文子の感慨が、理解できるような気がしました。

この地を愛して、一時的にでも転居した、志賀直哉をはじめ多くの文学者の気持ちまでも。

 

私達が千光寺公園に着き、その後、散策したルートは、まずは展望台から、町の全景を眺望。

 

 

そのあと思いがけず出会えた、私が尊敬して止まない安藤忠雄氏が設計した美術館の見学。

 

 

それから文学の小道を散策。

道の途中に置かれた幾多の石碑には、林文子、正岡子規初め、この地を愛して止まなかった文人たちが、この町に寄せた感慨を詠った詞が刻まれています。

 

 

そしてこの町のシンボルと言われるお寺、千光寺に。

絶景の場所にあり、尾道の街を一望し、見守るが如くでした。

手を合わせ、私は夫の冥福を改めて一生懸命祈りました。

 

 

そしてその後、来た道をまた戻り、先ほど館内を見学した美術館の傍にある、おしゃれなフレンチレストランに。

腰かけた席からは、尾道の素晴らしい眺望が開け、それを眺めながらのお昼食。

このレストランも、妹が旅行前に下調べし、すでに決めていてくれていたた場所です。

すべて用意周到で、完ぺきな準備に、旅行慣れした妹とはいえ、頭が下がります。

私は、心強いガイドの妹に、ありがとうの感謝の言葉しかありませんでした。

 

 

ところが、ここでとんでもないハプニングが。

千光寺で、すでにそれらしきものが舞っていて、驚かされましたが、窓の外は突然本降りの雪。

開けた視界が、その雪でかすんで見えなくなるほど。

さあ~大変!

本格的な雪模様のお天気に、恐れをなした私です。

あっという間に積雪しそうな雰囲気でしたから。

ところが妹は、平然と言いました。

「この程度の雪は平気よ~

これからは、文学館や志賀直哉の旧居を訪ねながら、山道を一気に歩いて降りるからね]

と。

 

「そ、そんなの無理~

あなたは登山んで雪道に慣れていて平気かもしれないけれど、私はとても無理、と泣き言を言いまし」

 

ところが日ごろの行いがいい私達には、幸運の女神がすぐ微笑みかけてくれるようです。

レストランを出る頃には、先ほどまでの雪が嘘のように、明るい陽が差し始めました。

 

安堵し、元気を取り戻した私。

情趣溢れる入り組んだ路地的な細い坂道を、二人で一気に下りました。

 

 

 

そして、旧志賀直哉邸へ。

学生時代に数冊読んだ記憶があるような。

そのうちぜひまた読み直したいと思っていた、作家のひとりです。

この方の文章は、芥川龍之介など有名な作家が模範とした文体ですものね~

長屋風のこの住いの一室で暮らしたのは、暗夜行路を綴る一時期に過ぎなかったようでしたが。

それも父親と大喧嘩したうえでの転居だったようです。

でも私は、そこで執筆する志賀直哉の姿を思い浮かべ、幾分身近に感じられたような気がしました。

私は相変わらず、昭和の作家の書物が好きといった傾向がありますから、是非読み直したいものです。

 

この後、文学館へ。

道順を私達は間違えたようです。

文学館を見るためには、また来た坂道を上らないといけないようでした。

私の体力を慮ってか、ここの見学は諦めて、一気に坂を下りましょうか、との妹らしくない発言。

ところが私は逆に私らしくない強気の発言。

林文子の想い出品が展示された文学館はぜひ見たいから、登り返しましょう、と。

そこまでの距離は心配したほど長くなく、すぐ到着。

ガイドの伯母さんの丁寧な説明を受け、各部屋を一巡。

 

 

そのあと、無事にすべて観光を終えた満足感に浸りながら、独特な風情の坂道を一気に歩んで下り、尾道駅へと。

レトロな街並みの尾道商店街を見学、カフェでの一服といった妹が立てた最後の企画は、時間的に無理であきめざるを得ませんでしたけれどね

私たちは、充実した尾道の旅を振り返りながら、また車中の人に。

次の観光地、倉敷へと向かいました。

 

追記

昨日、お寺さんの愚痴を書いた部分は削除しました。

不謹慎に思え、夫にも申し訳なくなりました。

お読み苦しかったことでしょう。

申し訳ありませんでした。

 

今日は朝早くから出かけるため、画像の説明の添え書きができません。

重ねてお詫びします。

 

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四十九日の法要を無事に終えて

2016-03-11 07:49:34 | 家族

今日は無事に終わり、すでに数週間が経過した夫の四十九日法要について綴りたいと思います。

(書き始めた時点からの数週間です。紛らわしくてごめんなさい。投稿日の今日からですと、ひと月以上が経過しています。)

葬儀前後は、眠れない状態が幾夜も続いていたのですが、私は気が張っていたせいか、気丈に頑張ることができました。

でもその後、次第に体力が落ち、根気が続かず、すぐぐったりしてしまって。

悲しみにどっぷりつかった日々の暮らしでした。

 

こんな調子では、49日法要のための帰省と、その後の妹との旅行が思いやられました。

正式の四十九日の法要日は、さっちゃん受験の初日の前日に当たり、早めると、追い込みの受験勉強が犠牲になります。

止むを得ず数日遅らせることに。

さっちゃんが不合格の連続で、さらに受験に臨まないといけなくなると、長女家は親子で法事には参列できないところでした。

ところが思いがけない喜ばしい結果となり、体調不良の私も元気づいたようです。

 

法要の当日の朝、次女家族に付き添い、いえこちらが付き添われて、新幹線の車中の人に。

次女家が4人揃って正装し、ホームに立っていると、その姿は、傍から見て、とても素敵な幸せ家族に見えました。

「オーラを発していたわよ」

と、と少々大袈裟に褒めて上げました。

またまた親ばか。

 

 

夫の菩提寺は、郷里の広島にあります。

元気な頃、お墓についてさりげなく尋ねたところ、夫の返事は、

「郷里の墓でいい」

の一言でした。

お墓参りの不便さを思うと、迷いに迷いました。

悩んだ末、結局、広島の菩提寺で四十九日の法要を執り行い、納骨もその境内の先祖のお墓で無事に済ませました。

夫の気持ちに逆らうことは、忍びなかったのです。

 

納骨の時しみじみ、祖先のお墓に夫の本骨を埋蔵して上げて良かった、と思いました。

両親や、同居していらした叔母の骨壺が置かれた場所に、夫の壺が並びました。

まるで家族に迎えられた子供のような、旦那さまの心の安らぎを私は感じたからです。

 

けれど、夫は~家の長男ですが、娘が二人で後継ぎがいません。

このお墓に入る人は、私が最後となります。

そのため、お墓守ㇼをしなければならない娘たちの将来を思い、宗派を超えた自己流の分骨もしました。

わが家からほど近いところにある私の実家の菩提寺のご住職様の、懐深いご提案によるものでした。

私のお墓への思いは、またいつか書きたいものです。

 

その後、広島市の中心に位置する全日空ホテルの和食レストラン「雲海」で、粗餐を皆さんに召し上がっていただきました。

皆さんと言っても、東京、横浜在住の妹夫婦と娘夫婦家族に、広島の親戚数名だけでした。

広島の親戚は、90代や80代も半ばの方達ばかりで、法要のみで戻られた方、最初から欠席の方など色々でした。

お食事は、広島の有名なお食事処、「酔心」はどう、といった案も何処からか出ましたが、私にはどことなく居酒屋のイメージ。

誤解かもしれませんけれどね。

私の好みで、宿泊するホテルのレストランを選択しました。

これは大正解で、まるで芸術品のような美しい彩の献立のお料理の数々。

お味も薄味で味わい深く、心から堪能できました。

 

お料理の画像がありませんから、せめてもと思い、お品書きを載せることに致します。

 

是非写真を撮りたかったのですが、49日の法要後で、私はお招きする立場。

目の前に腰かけられた、N先生。

夫の従兄に当たる方ですが、私は長年、先生とお呼びしてきました、

産婦人科医として、80代を超えるまで活躍された方です、

そのかくしゃくとした上品な紳士を目の前にしては、写真をパチパチ撮る振る舞いは、さすがに控える気持ちが働きました。

この方からは、夫の闘病生活に当たり、私は身に余るご親切をいろいろ受けてきました。

多くの助言をいただき、ある時は、

「そんな冷たい物言いの医師では、Yさんがうつ病になりかねないよ。

先生を変えてもらいなさい」と強く言われたこともありました。

 

私の右隣がN先生です。

 

色つやがいい張りのあるお肌で、まるで後光が差しているかのような柔和なお顔立ち

お年寄りらしさがまるで感じられない、しっかりした口調。

背筋がしゃんと伸びた佇まい。

私は高齢者の理想の姿をみる思いがします。

 

奥様も89歳になられます。

残念でしたが、法要のみでご自宅へ戻られました

生きているのが不思議ですとご主人様がおっしゃられるほど、いろんな大病を乗り越えられた方です。

医師であるご主人様の並々ならぬ手厚い看護と、親しい病院の先生方との協力の許での、長年の治療と療養の成果のようでした。

私はそこに、理想の医療環境を思い、夫の納得のいかなかった後半の治療への悔しさが、また込み上げてきてしまいました。

 

家族全員で、親戚の方々をホテルのエントランスを出てお見送り

 

親戚の人たちをお見送り後、私と長女のMちゃん、さくらちゃんの三人は、ベッドが三つ並んだ客室へ。

若夫婦たちは、私と違って体力が有り余っているのでしょう。

ホテルのカウンターバーに出かけていきました。

私は、意中の中学に合格し、ますます元気いっぱいのさっちゃんとしばらくおしゃべり。

おじいちゃまの話題も、たくさん出ました。

その後、明日からの旅行に備え、早く床に就きました。

次回は、その旅行記を綴ります。

 

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心が次第に軽くなって・・・・・・

2016-03-10 07:57:59 | 家族

妹の絶大なる協力を得て、まだ残されたまま手を付けていなかった諸々の事が、一気に整理され、心の重しが随分取れた感じがしています。

仕事が忙しく、私のためになかなか時間が取れない娘たちの協力も、妹ほどではありませんがありました。

本当に有難う。

まだ気持ちが立て直せずにいる時は、背中を押してくれる人がいないと、なかなか前に進めないものです。

 

妹が得意とする準確定申告。

私は、お役所関連の手続きは、すべて夫任せでしたので、見るだけで拒否反応。

全く自信がありませんでしたが。

 

 

我が家で電卓片手に、Aちゃんがたちまち計算。

17万円ほど戻ってくるらしくて、嬉しい~

妹の話だと・・・・・・。

なんて他人事みたいですね~

被爆者の特別控除があるようですし、去年は旦那さまが身体障害者手帳をもらった年なので、その控除も適用され、還付金が多くなったようです。

後は娘たちに委任状にサインをしてもらえば完成です。

 

遺産相続分割協議書の作成。

これも、妹が我が家で、下書きをしてくれました。

この書類がありませんと、夫の通帳の解約や、お金の私への通帳への移動ができません。

でもあまり早くこの手続きをすると、夫口座の通帳が即閉じられ、私のデパートのカードの引き落としができなくなります。

すべて夫の普通預金口座からでしたから。

今は、キャッシュ払いでお買い物をして、現金を引き出す時も、私の預金口座と決めていますけれどね。

電氣、ガスといった公共料金もですが、カードの名義書き換えの手続きが完了するまでに、数か月を要するようです。

 

お礼状二通と、後は諸手続きのための封書を最近また出しました。

 

夫が亡くなる前の数か月分の高額療養費還付金を受けるための新たな手続き。

その他にも、健康保険料など還付金がありましたが、一方、住民税は6万円以上後払いさせらました。

前払いがあったり、後払いがあったりと、と複雑極まりなくて・・・・・・。

そういえば、年金は後払いなのですね~

それに何と、私が遺族年金を受給できるのは、手続きを済ませたとき、数か月後、と言われました。

その時からだと、4月ごろに当たりますから、もうしばらくの辛抱。

私の国民年金のみは、今まで通り支給されています。

夫の国民年金は、支給停止。

残った夫の厚生年金の金額の4分の3に経過的寡婦年金二十数万円が加わり、さらに何がしか(確か7~8万でした)差し引かれたものが遺族年金の年額になります。

 

夫の死後、家計の収支が複雑で、家計簿の記帳は数十年間続けて慣れているはずですのに、頭が混乱して訳が分からなくなりそう。

暮らしはやっと、自分らしいリズムを多少取り戻しつつあるので、我が家の家計も早く落ち着いてほしいです。

 

 

わが家は、企業年金の方が、厚生年金より多少多めでしたが、その支給は、夫が亡くなると75歳まで。

数か月分が、先日一気に振り込まれました。

今後はその収入はなくなり、遺族年金のみとなります。

収入の落差が、すごい事に。

今後は厳しい家計のわが家ですが、私は遺族年金以外に、アメリカ年金と被爆者手当てが数万ずつあります。

更に、被爆者のため、医療費は今後もずっと無料です。

遺族年金とはいえ、恵まれている私です。

 

身の丈に合った暮らしに努めれば、日々の生活は、貯金を下ろさなくても大丈夫そうです。

できれば、貯蓄も継続したい、と。

この貯蓄は、余生のささやかな愉しみのために使用したいです。

 

それに、企業年金が無くなり収入が激減したとはいえ、生活のレベルが、急に下がるわけではありません。

私は過去のほぼ六年間、株の損失を埋めるべく、企業年金はほとんど貯蓄に回してきましたから。

 

私の今後の収入と我が家の資産状況。

上を見ればきりがありませんが、私は、一人暮らしには十分と思っています。

生命保険金の請求の手続きは、まだ全く手を付けていません。

 

 

今後の暮らしで、いろいろ心配は尽きないけれど、旦那さまは、私の一人暮らしの土台はしっかり築いてくれています。

家計管理は、すべて私に一任されていましたので、この言い方は適切でないかもしれませんが。

でもやっぱり、その通りですよね。

株による大損失も、夫は一言の非難もしませんでした。

 

今も日々、感謝の気持ちのみで、旦那さまのことが片時も心から離れません。

昨日も、幾度涙したことでしょう。

本当に、ありがとう。

きっと、天国から、一人で大丈夫かな~と心配しながらも、私を見守っていてくれるに違いありません。

きっと大丈夫。

本格的な春が訪れる頃には、もう一頑張りすれば、もっと元気になれます。

安心してくださいね。

 

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さっちゃん、おめでとう♪ 

2016-03-09 07:21:56 | 

夫が亡くなり、その後、一週間も経過しない内に、長女から新たなる訃報がありました。

大変親しくしている同世代のお母様が、娘のところと同年齢の息子さんとその妹さんを残して突然死されたとの事。

そしてこのたびの、私のかけがえのない親友の訃報。

涙の壺が重たくなりすぎて、もう抱えきれない、と前回の一連の記事の中でも書きました。

私の人生で、こんなに悲しい状況に矢継ぎ早に見舞われたことが、かってあったでしょうか。

 

けれど神さまは、きちんと一息つける救いの場を与えて下さいました。

人生とは禍福がないまぜになった道を歩むことだ、と改めて実感した私です。

 

一息どころではありません。

とてもとても嬉しい事でした。

長女のところの孫娘のさっちゃんが、中学受験で、意中の学校に合格できたのです。

第二志望の学校でしたが、第一志望はチャレンジ校。

合格率は20パーセントに過ぎませんでしたから、落ちて当然。

それに、さっちゃんの性格に向いているかどうか疑問符が付くところでした。

宿題が多く、厳しい学習を課す学校との評判でしたから。

 

 

ゼラニウム

 

とても天真爛漫で明るく、好奇心が旺盛。

やりたいことがいっぱいありすぎて、困るほど。

お勉強以外の事のようですけれどね。(笑)

明るくてのびのびした性格で、受験のストレスも全く感じていない様子でした。

歌を口ずさみながら、受験勉強をするさっちゃんを見て、「それでは集中できないでしょ」と、ママはよく注意していたようです。

 

それゆえ、受験勉強は、真剣味が足りなかったのではないかしら。

そのために、塾の成績は今一つ伸びなかったのでは。

けれど、そのさっちゃんも、本番では本気度がただ事ではなく、真剣勝負で臨んだことでしょう。

ですから、本当の実力が、本番で発揮された。

これがおばあちゃんによる、好結果の勝手な分析です。

 

 

この度合格した中学は、小、中高、大学まである一貫校のミッションスークールで、長い伝統もあります。

共学を希望していたので、さっちゃんの夢がかない、本当に良かったです。

さっちゃんは、大学は付属のところには進学しないで、パパとママの大学を目指す、と言っているらしいけれど。

余程強い意志がないと、それは無理でしょうね~

もう二校受けたのですが、それもすべて合格。

四校のうち、三校はさっちゃんの希望通り、共学の中学受験でした。

ママの母校は、最初から諦めていたさっちゃん。

でも、少々出来過ぎね~

 

実は、意中の学校も、合格率は50~40パーセントに過ぎなかったのですよ。

ママは、合格発表のボードで見た我が子の受験番号だけでは、まだ信じられなくて、書類を手渡され、初めて実感がわいてきた、と言っていました。

実は、ママも中学受験の時受けた三校のうちの一つでした。

 

お正月休みに我が家で受験勉強に励んでいるときのさっちゃん。

 

私は、夫が風となり、さっちゃんの傍について力になってくれたに違いない、と思っています。

夫が亡くなった時、私はさっちゃんに言いました。

「おじいちゃまは、きっとさっちゃんの受験の事が少々気がかりで、その前に亡くなったのかもしれないわよ。

そうすれば、受験の日、風となって、さっちゃんに寄り添い、力になることができるでしょ。

おばあちゃまには、そう思えてならないの。

だから受験の当日は、必ずおじいちゃまの写真も持っていきなさいね」

 

この遺影の写真の縮小版を数個お願いし、若夫婦や孫に渡しました。
良いと思って選んだのだけれど・・・・・・・。

下の写真は、今年になり、次女の家で見せてもらった夫の写真です

これを遺影に選んであげればよかった、と少々残念。
十数年前の写真だから、若すぎるかもですね~。
次女が結婚前、海外勤務で働いているとき、海外出張のパパとバンコクで落ちあい、撮った写真のようです。

 

さっちゃんはその通りにしてくれたようです。

私はさっちゃんが受験中、一度に十本くらいお線香を立てて、さっちゃんがベストを尽くし切ることができますように。

力になってやってくださいね」

と、Yさんに幾度もお願いしました。

その甲斐があったような気がしてなりません。

もちろん、さっちゃんの努力が実ったことは言うまでもない事ですけれど。

 

合格発表の後、ママとさっちゃんが我が家にやってきました。

おじいちゃまに、報告するためです。

しばらくの間、神妙な姿で正座し手を合わせ、お位牌の前にいたさっちゃん。

夫の喜ぶ顔が目に浮かぶようでした。

 

 

そのあとは、買い求めた恵方巻にお腹がすいたといって、かぶりついたさっちゃん。

それから、私のPCで好きな曲を聴きたい、と言って検索し始めました。

ママの話ですと、音楽が大好きとのこと。

ピアノのお稽古は、夏まで続けていたようです。

 

その時、今のさっちゃんに一番ふさわしい曲を思い付いた私です。

私が若い頃から、お気に入りの曲の一つ。

ペギー葉山の「学生時代」です。

このブログでも、以前ご紹介したことがあります。

この曲を二人で耳にしながら、さっちゃんの今後の恵まれた環境の学生生活を思い、、私も幸福感で胸一杯になりました

 

https://www.youtube.com/watch?v=W5ALFCfqCK4

 

次にさっちゃんが、私が大好きな曲なの、と言い、聴かせてくれたのが、中島みゆきの「時代」。

中学生に今からなろうとしているさっちゃんにしては、随分大人びた歌のように感じられた私でしたが、

実は、この曲も、私の大のお気に入り

このブログで、やはりご紹介したことがあります。

「おばあちゃんも大好きよ。でも、この曲は薬師丸ひろ子の声が一番よくあっていると思うわ」

と応えた私でした。

聴いていると、今の私の心情にも幾分添ってくれる歌詞のようにも感じられてきました。

私の気持ちを察して、さっちゃんがこの歌を持ち出したとは、とても思い難いけれど・・・・・・。

この曲を改めて聴き、元気づけられた私です。

 

http://video.search.yahoo.co.jp/search?p=%E6%99%82%E4%BB%A3+%E8%96%AC%E5%B8%AB%E4%B8%B8%E3%81%B2%E3%82%8D%E5%AD%90&tid=440fa67d28711c24315cb5f5843dad39&ei=UTF-8&rkf=2&dd=1

 

今後、同性同士のさっちゃんから、いろいろなことを学び教えてもらいたいです。

若くて瑞々しい感性を多少でも貰い、若返ることができたらいいな~、と思っています。

中島みゆきのファンのようだから、私がチケットをプレゼントするわ。

さっちゃんと一緒にライブに行く事を夢見る、ばあばでした。

 

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尊敬して止まなかった親友の突然の訃報

2016-03-08 07:19:55 | 

1月29日の夜、友人のお嬢様から電話がありました。

私は悪い知らせでは、と一瞬で悟りました。

その感覚は、夫の病院から朝、電話が掛ってきた時に、とてもよく似ていました。

 

電話を切った直後、目眩がしそうで足がふらつきました。

それほどのショックを受けた私です。

私はまだ、夫の悲しみから立ち直れていませんでした。

追い打ちをかけるようなこの悲報で、私は呆然。

その痛手と辛さは相当なものだったのです。

 

その方は、敬愛して止まない、かけがえのない友、Uさんです。

このブログにも、度々登場して頂きました。

夫の介護中、私はずっと心の支えにしていました。

 

 

右奥がUさんです。
お元気な頃は私より背が高く、スタイルもよくて、
とてもお洒落な方でした。

 

重いパーキンソン病を十数年に亘って患い、闘病生活を余儀なくされておられました。

ですのに一昨年、その奥様を介護していらしたご主人様が、学会先のホテルで、心筋梗塞にて突然お亡くなりになったのです。

心のみならず、お体の支えを失ったUさんの悲しみは、私どころではなかったでしょう。

お子様の気持ちを受け入れ、その後オリックスの介護施設に入居されました。

けれど、施設に入り、介護を受けながらも、精神的には自立した暮らしを気丈に貫いておられた彼女です。

彼女の潔さと、凛とした生きる姿勢は、尊敬以外の何物でもなく、私の人生の常に目標でした。

 

友人達と、昨年は数か月に一回は、その施設をお訪ねしたり、外のレストランで一緒にお昼食を共にしてきました。

けれど昨年の秋ごろから、私は自らの暮らしがかなり厳しい状況となり、おめもじが叶わなくなっていました。

残念でしたが、お断りせざるをえず、

「夫の症状が落ち着いたらたまた会いましょうね」

と言い、その日を待ち望んでいたのです。

年が明ければ、との思いでいました。

 

昨年の暮れに開かれた、その施設での友人数名によるお食事会の報告が、翌日私のもとにありました。

Uさんは気丈に頑張っておられるけれど、パーキンソン病の症状が急に進み、車椅子の乗降もままならないほどだとの事。

そのため、私はとても心配していたのです。

 

亡くなられた原因は、パーキンソー病にありがちな、唾液による嚥下肺炎でした。

風邪の症状を心配して、数日間病院で療養するだけのおつもりだったようでしたのに。

 

 

夫の死と同様に、あまりに突然で信じられず、その寂寥感と悲しみはたとえようがありませんでした。

頂いたお手紙はここ数年でも、数十通に上り、最近は代筆の美しい筆跡のお手紙でした。

自筆の時は、読むのに苦労が要るほど乱れた字でしたが、そこには彼女の優しさが溢れ、私を励ますお見舞いの言葉が並んでいました。

彼女の友情をひしひしと感じ、有難く、そのたびに感動したものです。

 

一方或る時の事。

わたしが施設を訪ねると、彼女の机の上に、私の手紙が額縁に収まって飾られていました。

とても恐縮し、恥ずかしさでいっぱいになりましたが、拙い私の便りでも、彼女の日々の励みになってくれたのでしょうか。

こんなに嬉しい事はありませんでした。

 

彼女からいただいたお手紙の一部です。

 

介護生活に突然終止符が打たれ、大きな空洞がぽっかりできたような心境の、今の私です。

夫にも同様の思いですが、彼女には、どんな姿でも生きていて欲しかった。

私たちはお互いに慰め励まし合い、良き時間をいつまでも共有できたでしょうに。

亡くなってしまっては、その思いをかなえることができなくて・・・・・・。

切なさだけが心を占め、悲しくて悲しくて仕方ありません。

娘の親友の突然死も最近あり、私の涙の壺は一杯です。

 

 

夫のこともあり、心の耐性が限界を超えてしまうのでは、と出かけることがためらわれた彼女のお通夜。

勇気を出して出かけました。

友人達には、事情が事情だから、参列はよした方がいいのでは、と言われましたが。

斎場まで1時間半かかりましたが、彼女の素敵な笑顔の遺影に、言葉をかけられて本当に良かったです。

もちろん棺に収まった彼女にも、ありがとうの言葉を感謝の気持ちをいっぱい込めて言ってきました

帰りは、途中から斎場にやってきた次女のMちゃんに、支えられるようにして帰宅の途に付いた私です。

 

生きとし生けるもの、別離は宿命と分かっていても、このような悲しいお別れは、当分もう堪忍してほしい。

夫もUさんも天国で私の事を見守っていてくれるでしょうか。

そう思い、襟を正して、良き日々が紡げるように頑張りたいと、今は強く願っています。

 

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お久しぶりです 

2016-03-07 07:32:13 | ブログ

春の兆しを感じ、喜んだのも束の間、真冬に逆戻り、といった不安定な天候が続いています。(2月17日記)

こんな書き出しで綴り始めたものの、この記事をいつになったら私は投稿できるのでしょう?

見当がつきません。

ですから、記述日を、記入してみました。

何だか変ですけれどね~

でも、今のところ、気ままなこのブログの書き方が、とても気に入っていて、私は止められそうにありません。

 

最後の投稿を終えて、すでに二週間以上が経過しました。

いつもですと、気ままに折ある毎に適当に綴った記事が、七編ぐらい既に用意できていて、推敲と写真のアップに取り掛かる頃なのですが・・・・・・。

今回は、前回の一連の記事終了後に、ざっとまとめた文章が二つあるのみ。

その後は、今もって白紙状態のままの記事編集画面です。

一言も書いていません。

 

 

二月の初めの事でした。

夫が亡くなり、まだ涙を拭う日々が続き、精神的に立ち直れていないでいる最中。

とても悲しい事と、とても喜ばしい事が同時に、我が身に起きました。

その時は、早朝、パソコンの前に座ると、自然と手が動き、記事らしきものが二つ、一気に出来上がったのです。

ブログなんて当分書く気になれない、と思っていた私にもかかわらず。

 

文章とは、そういうものですよね、

抑えがたい溢れるような思いや情がストレートであれば、書きたいという気持ちが自ずと湧いてきます。

素直な言葉が自然と連なって、文章がたちまちが出来上がってしまう

ブロガーには、幸いにも書く場が用意されているわけですから。

二つの記事が曲がりなりにも完成したときは、そんな心模様の時でした。

その時、すぐ投稿すれが良いのかもしれませんね~

けれど、推敲したり写真を選んだりの作業がめんどくさくなってしまって後回し。

 

 

その後の私はどうだったでしょうか?

私の感情は不安定なまま。

さざ波が立ち、時に大きな波に呑まれそうになったり、と。。

ブログには綴れないような、形容しがたいものでした。

まだ、とても平静で穏やかな心境とは、言い難いです。

 

そんな状況にもかかわらず、諸手続き用の文書が、郵便物となって次から次へと容赦なく届き、わたしを追い立てるよう。

他にも、自分で思い付く名義書き換えのあれこれで、気が焦るばかり。

相続関連もあり、何から手を付けましょう、といった感じでした。

やはり、ブログどころではなかったのです。。

gooブログの編集画面は、お礼状の下書きを認める場と化しました。

 

 

 けれど今は、四十九日法要は無事に終わり、主要な方々へのお礼状書きもほぼ終了。

お香典返しの発送も完了。

色々な諸手続きの準備は、妹の絶大なる協力のもと、前に進んでいます。

まだ半ばとはいえ、気になっていた目先の大きな務めを幾つかやり遂げ、肩の荷が少し軽くなりました。

暮らしにも、多少自分らしいリズムが戻ってきつつあります。

嬉しい~!

そろそろブログ書きを本格的に開始しなくっちゃ~。

そんな心境でいます。

 

旦那さまへの慕情は、私は相変わらず。

夫との想い出は、今はすべてが美化されてしまって・・・・・・。

溢れるような感謝の思いのみが湧き、一時も夫のことを忘れられない暮らしを送っています。

旦那さまの悪口なんて、口が裂けてももう言えない。

言う人も許さない。

そんな気持ちかしら。

元気なころは、よく愚痴も言っていましたのにね~

 

いつものように、折々の思いを綴った記事をまとめて、明日からまた投稿させて頂きますので、宜しくお願い致します。

 

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