ある事情のために私は三月(みつき)ぐらゐこの町を離れてゐたが、冬になつてから家へ帰つてみると、アレキサンドル・ペトローウィチが秋ごろ亡くなつたこと、それも孤独のうちに死んで、一度も医者を呼ばうともしなかつたことを知つた。町の人々はすでに彼のことは忘れかけてゐた。彼の住んで居た部屋はまだ空いたままだつた。私は故人の家の主婦と直ぐさま知り合ひになつたが、彼は特に何をやつてゐたか、何か書きものでもしては居なかつたか、といふやうなことを彼女の口から聞き出さうといふ肚だつた。二十カペイカ銀貨一つ握らせると、老婆は故人が遺した反故を籠いつぱい持つてきた。そしてまだ二冊ほどノートがあつたが、自分が使つてしまつたと白状した。この老婆といふのが気むづかしげで無口で、その口から何かこみ入つた事でも聞き出さうといふのは無理だつた。亡くなつた間借人について特に耳新しいことは何も聞かしてくれなかつた。老婆の話によると、彼はいつも何もしないで、幾月も本を開いたことがなく、ペンを手にしたこともなかつた。その代り、幾晩も幾晩も、夜通し部屋の中を往つたり来たりして、断えず何か考へ込んで、をりをり独言を言つてゐたといふ。そして老婆の孫娘のカーチャを大変可愛がつて、殊にカーチャといふ名であることを知つてから、可愛がり様が目立つてきて、聖カテリーナの日には欠さずに誰かの供養を営みに出かけたといふ。彼は客を我慢することが出来なかつた。外へ出るのは子供を教へに行くときだけで、老婆が一週間に一ぺん、ざつと部屋の掃除に行くと、彼女に対してさへ、じろりと白眼を見せるといふ風で、三年の間、殆んど口を利いたことがなかつたといふ。私は試みにカーチャに向かつて、先生を覚えてゐるか、と訊ねてみた。するとカーチャは黙つて私を見てゐたが、急にくるりと壁の方を向いて、泣き出した。してみると、あゝいふ男でも確かに自分を愛するやうにすることが出来たのである。
(「死の家の記録」 ドストイエフスキイ 上脇進譯)