美濃屋商店〈瓶詰の古本日誌〉

呑んだくれの下郎ながら本を読めるというだけでも、古本に感謝せざるを得ない。

自己を面白おかしく読ませる先駆的な文章によって、同時代の精神へ近代の自我を吹き込んだ小説(二葉亭四迷)

2023年08月20日 | 瓶詰の古本

 医者の不養生といふ。平生思想を性命として、思想に役(えき)せられてゐる人に限つて、思想が薄弱で正可(まさか)の時の用に立たない。私の思想が矢張(やつぱり)其だった。
 けれど、思想々々と大層らしく言ふけれど、私の思想が一体何んだ?大抵は平生親しむ書巻の中から拾つて来た、謂はゞ古手の思想だ。此蒼褪めた生気のない古手の思想が、意識の表面で凝つて髣髴として別天地を拓いてゐる処を見ると、理想だ、人生観だといふやうな種々の観念が美しい空想の色彩を帯びて其中に浮游してゐて、腹が減(す)いた、銭が欲しいといふ現実界に比べれば、逈に美しいやうに見える。浮気な不真面目な私は直ぐ好い処を看附けたといふ気になつて、此別天地へ入り込んで、其処から現実界を眺めて罵つてゐたのだ。我存在の中心を古手の思想に託して、夫で自ら高しとしてゐたのだ。が、私の別天地は譬へば塗盆へ吹懸けた息気(いき)のやうな物だ。現実界に触れて実感を得ると、他愛もなく剥げて了ふ、剥げて木地が露(あら)はれる。古手の思想は木地を飾つても、木地を蝕する力に乏しい。木地に食入つて吾を磨くのは実感だのに、私は第一現実を軽蔑してゐたから、その実感を得る場合が少く、偶〻得た実感も其取扱を誤つてゐたから、木地の吾を磨く足(たし)にならなかつた。従つて何程古手の思想を積んで見ても、木地の吾は矢張(やつぱり)(もと)のふやけた、秩序(だらし)のない、陋劣な吾であつた。

(「平凡」 二葉亭四迷)

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