美濃屋商店〈瓶詰の古本日誌〉

呑んだくれの下郎ながら本を読めるというだけでも、古本に感謝せざるを得ない。

事あるごとに天邪鬼な(逆張りの)こけ威しを繰り出して名聞に腐心する人々の品性と知能の正体(吉田兼好・飯田季治)

2021年08月29日 | 瓶詰の古本

 人の心すなほならねば。偽なきにしもあらず。されどおのづから正直の人などかならん。おのれすなほならねど。人の賢を見て羨むは世の常なり。いたりて愚なる人は。たまたま賢なる人を見て是をにくむ。おほきなる利を得んがために。すこしきの利をうけず。いつはりかざりて名をたてんとすと謗る。おのれが心にたがへるによりて。此のあざけりをなすにて知りぬ。此の人は。下愚の性うつるべからず。いつはりて小利をも辞すべからず。
 かりにも愚をまなぶべからず。狂人のまねとて。大路を走らば則ち狂人なり。悪人のまねとて。人を殺さば悪人なり。驥をまなぶは驥のたぐひ。舜を学ぶは舜の徒なり。偽りても賢をまなばんを賢といふべし。

 人の心と云ふものは凡て廉直な物ではないのだから。虚偽が無いでも無いが。然し又其の中には自然に正直な人も無い事は無からう。自分は廉直な人間では無くても。物に潔白なる賢人を見て其人を豪い者だと羨むのは世の常で。之は普通の人間である。けれども極めて愚劣な人は。偶々賢人を見ると其人を妬み悪んで。彼奴は潔白な男だなど〻世間で褒めるが。其の実大利を獲得しやうと心懸けて居るものだから小利を辞して受けないのだ。左様して世を偽つて賢く見せて名を挙げやうと為るのだなど〻貶しめ譏るが。左様云ふ男は始終利にばかり奔つてゐるので。自己の心は廉潔なる賢人の心とは全然違つて居るからして斯う云ふ嘲りを為るのであるが。此の嘲の語に依つて能く知れる…………何が知れるかと云ふに………畢竟此の男は極めて下愚(愚昧)な性質で。論語に所謂「上智と下愚とは移らず」と在る通り。其の愚な性質は導いた所で迚も賢い性には移らない程の度し難い小人で。大利を獲んが為めに詐つて小利を受けないどころでは無い。詐つて小利をさへ辞しは為ぬ人物であると云ふ事が。彼の嘲つた言葉に依つて明らかに推知し得られる。さて賢人の行為は擬模ても宜いが。かりにも愚人の所業を学んではならぬ。狂人の真似をするのだと云つて。喚き叫んで大道を奔り歩けば。取りも直さず狂人である。悪人の真似を為るのだと云つて他人を殺さば。とりもなほさず悪人である。即ち尋常の馬であつても一瞬千里を走るの駿馬を学ぶ馬は駿馬の類で舜(支那の聖人。麌舜)を学ぶ者は舜の徒である。だから仮令偽つて〻゛も。賢を学ぶのを賢と謂ふべきである。

【附言】本文に『驥を学ぶは驥の類。舜を学ぶは舜の徒なり』とあるのは。揚氏法言に『驥を晞ふの馬は亦驥の乗也。顔を晞ふの人は亦顔の徒なり。』云々とあり。また孟子に『鶏鳴て起き。孳孳として善を為す者は舜の徒也。鶏鳴て起き。孳々として利を為す者は跖の徒也。』とあつて。註に孳々は勤勉の意。言未だ聖人に至らずと云ふと雖も。亦是れ聖人の徒也。跖は盗跖を云ふ也とある。

(「詳譯徒然草」 飯田季治)

 現実から余りに乖離した感想を平然と繰り返し述べることのできる神経は、わざとそうしているか本当に壊れているかにかかわらず、常軌を逸した域に達しているものと思わざるを得ない。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 有能な人が無能のふりをする... | トップ | 捨ててしまったことを今更後... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

瓶詰の古本」カテゴリの最新記事