神護寺(じんごじ)は、京都市右京区高雄にある高野山真言宗遺跡(ゆいせき)本山の寺院で、山号を高雄山と号します。京都市内では、いち早く紅葉
が始まりモミジの名所としても知られこの時期は、特に多くの観光客で賑います。
京都市街の北西、愛宕山(924メートル)山系の高雄山の中腹に位置する山岳寺院で、清滝川に架かる高雄橋から長い参道を歩いた先の山中に金堂、
多宝塔、大師堂などの堂宇が建ちます。神護寺は空海が東寺や高野山の経営に当たる前に一時住した寺であり、最澄もここで法華経の講義をしたこと
があるなど、日本仏教史上重要な寺院であると説明されております。
階段の参道を約10分上りますと山門に到着いたします。
参道の途中には、茶店が何軒もあり紅葉を愛でながらお茶屋、食事が出来ます。
左手の山の中腹に三尾山の一つ西明寺があり山を越えると高山寺につながります。三尾とは、神護寺の高雄、西明寺の槙尾、高山寺の栂尾を合わ
せて三尾と呼びます。
硯石 弘法大師空海が神護寺に在山の時、嵯峨天皇が空海に「金剛定寺」の門額を書くよう勅使を送り額の依頼をうけられましたが、急な五月雨で
橋が流されたため、この石を硯として対岸に立てかけた額に向けて筆を投げられたところ見事に「金剛定寺」の四文字を書かれたという言い伝えがあり
ますが、このお寺は現存していないそうです。
寺号は詳しくは「神護国祚真言寺(じんごこくそしんごんじ)」と言うそうですが、入口の楼門に架かる板札にも「神護寺」とあることなどから神護寺の通称
で通っております。「神護国祚真言寺」とは、「八幡神の加護により国家鎮護を祈念する真言の寺」という意味で、この寺が密教寺院であることを明確に
示しております。
神護寺本坊ですが、公開はされておりません。
本坊内の書院
神護寺は、いずれも和気清麻呂氏の私寺であったと云われ「神願寺」と「高雄山寺」という2つの寺院が824年に事実上合併してできた寺です。2つの
前身寺院のうち、神願寺は、和気清麻呂(733 - 799)により8世紀の末頃に建てられた寺でありますが、その所在地については河内説、大和説など
諸説あり、いずれも決め手を欠いております。
和気清麻呂は奈良時代末期~平安時代初期の高級官僚で、歴代天皇の側近として平安京遷都などに力を発揮した人物で、また、僧・道鏡の皇位継
承問題にからんで流罪になったことでも知られております。称徳天皇(女帝・孝謙天皇重祚)の信任が厚かった僧・道鏡は「八幡大菩薩のお告げ」により
皇位を継ぐ者とされていおりましたが、称徳天皇は神意を再確認すべく、和気清麻呂を八幡大菩薩が鎮座する九州の宇佐八幡宮へ派遣いたしました。
宇佐から戻った清麻呂は「宇佐八幡は、臣下の者が皇位に就くことを望んでいない」と奏上したため、道鏡の怒りにふれ、清麻呂と姉の和気広虫(法均
尼)は神護景雲3年(769年)それぞれ大隅と備後へ流罪となりました。
道鏡が実際に皇位を望んでいたのかどうか、事件の真相には不明な部分もありますが、翌宝亀元年(770年)には、称徳天皇が死去し、天皇の信望
厚かった道鏡は左遷され入れ代わるように清麻呂と広虫は許されて都に戻ってまいりました。清麻呂が和気氏の私寺である神願寺の建立を願い出た
のはそれから10年後の宝亀11年(780年)とも言われ、少し後の延暦年間(782年~)とも言われており、神願寺という寺号は宇佐八幡の神意に基づ
いて建てた寺という意味だそうです。延暦12年(793年)には「神願寺に能登国の墾田五十町が寄進された」旨の記録(「類聚国史」所収)があり、この
年が神願寺建立時期の下限とされております。
もう1つの前身寺院である高雄山寺(または高雄寺)は、現在の神護寺の地に古くから存在した寺院であり、和気清麻呂の墓所が今の神護寺境内にあ
るところから、ここも和気氏ゆかりの寺院であることは確かですが、創立の時期や事情については明確になっておりません。伝承では、洛北の鷹峯(京
都市北区鷹峯)に鎮座していた愛宕権現を愛宕山に移座した際に、他のいくつかの山岳寺院とともに建立されたと云われております。
高雄山寺の歴史上の初見は延暦21年(802年)であり、この年、和気氏の当主であった和気弘世(清麻呂の長男)は伯母に当たる和気広虫(法均尼)
の三周忌を営むため、最澄を高雄山寺に招請し、、最澄はここで法華会(ほっけえ、法華経の講説)を行ないました。弘仁3年(812年)には空海が高
雄山寺に住し、ここで灌頂(密教の重要な儀式)を行ったとあり、この時、灌頂を受けた者の氏名を書き付けた空海自筆の名簿 (灌頂歴名)が現存し
国宝に指定されており、そこにも「高雄山寺」の寺号が見えます。
宝蔵
和気公霊廟
霊廟後方の鐘楼
鐘楼は、毘沙門堂などと同様元和9年(1623年)の再建とされ、楼造の鐘楼で、楼上に国宝の梵鐘が収まっており
ます。
明王堂
右手、五大堂と左手、毘沙門堂
五大堂 毘沙門堂の背後に建つ五大堂は、元和9年(1623年)の建築とされております。
毘沙門堂 金堂へと上る石段の下に建ち、金堂が建つ前はこの堂が金堂であり、本尊の薬師如来像もここに安置されていたと云われます。元和9年
(1623年)の建築で、内部の厨子に平安時代の毘沙門天立像(重文)を安置しております。
毘沙門堂前の燈籠と大師堂
大師堂 入母屋造りで杮(こけら)葺きの住宅風の仏堂で、空海の住房であった「納涼房」を復興したもので、現
存するものは近世初期の再建とみられており、内部の厨子に正安4年(1302年)作の板彫弘法大師像(重文)を安
置しております。
五大堂
五大堂の左手の階段の上に金堂は建ちます。
金堂 入母屋造り、本瓦葺きの本格的な密教仏堂でありますが、建築年代は新しく、昭和9年(1934年)に実業家山口玄洞氏の寄進で建てられたも
のです。山口玄洞氏とは、1863年医師の子として生まれ、父の死後、大阪の太物商土井善助商店に住み込み、事務に奮闘する。21歳の時に主家
の破産に遭遇。独立して毛布、金巾、モスリンなど洋反物のブローカーを始めると数年で商運が開け、巨万の富を得る。合資会社山口綿花商店を創設
して屈指の綿花商となり、多額納税者として貴族院議員にも就任した。第三十四銀行、大阪モスリン、共同火災海上保険などの重役も務めるが、大正
6年には事業から手を引き、自宅で茶道と信仰の生活に入る。自らの財産を公共事業や社寺への寄進という形で社会還元、神護寺の金堂、毘沙門堂
など他に100棟にも及ぶ堂塔を神社仏閣名刹などに寄進されております。
金堂の後方に建つ多宝塔
金剛右手奥に建つ石像
霊廟後方の鐘楼は、金堂の右手の位置します。
金堂本尊は、像高170.6センチの木造薬師如来立像が安置されており、日光・月光(がっこう)菩薩立像が、両脇侍として祀られております。本尊は平
安時代初期のものであるとみられておりますが、神護寺の前身寺院である神願寺または高雄山寺のいずれかにあった像と思われますが、どちらの寺
に属していた像であるかについては定説がないそうです。
金堂後方の多宝塔 金堂からさらに石段を上った高みに建ち、金堂と同様、昭和9年(1934年)、実業家山口玄
洞の寄進で建てられたもので、内部に国宝の五大虚空蔵菩薩像を安置いたします。
竜王堂
多宝塔の立つ位置は、金堂の屋根の高さになります。
金堂左手から閼伽井を通り地蔵院に抜けます。
閼伽(あか)は、仏教において仏前などに供養される水のことで、サンスクリット語のargha(アルガ)の音写で、功徳水(くどくすい)と訳されます。閼伽井
から汲まれた水に香を入れることがあり、閼伽香水とも呼ばれることもあるそうです。 インドでは古く、来客に対し足をそそぐための水と食事の後口をす
すぐための水が用意されたといい、それが仏教に取り入れられ、仏前や僧侶に供養されるようになったものであると説明されております。
地蔵院
かわらけ投げは、この寺が発祥とされており、境内西の地蔵院から谷に向けて素焼きの円盤(釉薬を使わない土器製の盃)を投げて厄除けを祈願する
ならわしです。
この清滝川の谷に向かって投げます。
清滝川沿いは散策路になっており、愛宕山の登り口の清滝まで3キロの行程が続きます。
週末の高尾方面は、大変混み合い神護寺の数カ所の駐車場もすぐに埋まってしまいますので、お車で来られる事はお勧め出来ません。お気を付け下
さい。朝一なら大丈夫かもしれませんが、三尾の三ヶ寺をまとめて回られることをお勧めします。
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