Kおばちゃんのつぶやき

日々徒然に思うことの備忘録

第6地区(ケープタウン)

2014-08-20 18:50:00 | 南アフリカ
今日は朝からものすごく暑かった。
でも、暑い暑いと騒いでいられるのはまだ幸せなほうなのかな・・広島での水害を聞くと胸が痛む。

それに暑いながらも、美味しい物いただけたので満足。ええ、先輩が美味しいお弁当を携えてご来訪いつでも歓迎です。

ああ、それにしても・・暑い。

3月2日(日)

kおばちゃんのバス観光は続きます。

街中を一巡してやってきたのはこんな殺風景な場所です。


kおばちゃんの画像の撮りようが悪いのですけれども・・一面雑草が生い茂った場所です。
このKeizersgrachtとオランダ風の名前の通りがある地区は、ある意味ここケープタウンを代表する観光地です。
そして、それはマイナスの遺産でもあります。

Keizersgracht通りのある地区は第六地区District Six (Distrik Ses)とよばれる地域だったそうです。
ここ、ケープタウンのある南アフリカ共和国はつい20年前1994年4月まで人種隔離政策アパルトヘイトApartheidを行っていた国です。
白人と非白人を分けて政治を行っていた国です。
kおばちゃんの子どもの頃は教科書にたしか『犬と黒人(カラード)入るべからず』という標識が載っていた記憶があります。

現在でこそ『平等』に扱われるようになったけれども、ちょっと前までははアメリカだってそうですよね。

で、その人種隔離政策下の時に、ここには大勢の有色人種、解放された奴隷、船員、商人、職人、労働者がひしめきあって住んでいたそうです。
その有色人種を1966年2月11日にここから追い出す決定、ここは『白人専用エリア』と宣言をしたそうです。
そのために、ここに居住していた6万人の有色人種は強制的に立ち退かされ、ブルドーザーで整地されてしまったということです。

ここを立ち退かされた有色人種はケープフラッツCape Flatsと呼ばれる25キロも離れたところに移住をしいられたそうです。
後で調べて見たら、このCape Flatsと呼ばれる地区の多聞北限を空港からの高速道路が走っているようなので、昨日空港を出て直ぐに目にしたスラム地区がこの移住後の住居にあたるのでしょう。

元々何故この地に、彼ら有色人種が住みついたか。それは港からも遠からずの地域なので、港湾労働者たちにっとってはかっこうの場所だったのでしょう。
そして、同じような理由から、つまり港湾地区の再開発を考えた政府から目を付けられてしまった土地だったのでしょう。

当時の人種隔離政策上、ここに住んでいた住民は反対運動をすることも文句をいうことも出来なかったのでしょう。
また、文句をいったところでどうなる・・と言うものではなかったかもしれません。

kおばちゃんのお国の『マッカーサー道路』と呼ばれる国道が、それこそマッカサーが日本にいた時代に計画されていながら出来上がったのはついこの前、数ヶ月前・・というようなことにはなかったと言うことです。強制的に立ち退かせることが出来たのでしょう。

しかし、そんな強攻策は国内外から大批判を浴び、再開発と言う目的に手をつけることはできなかったようです。

そして、見事な荒地だけ残ってしまった・・ということのようです。


その後の人種隔離政策の撤廃にされたものの、元の居住者の手に戻る事は一部をのぞいてないようです。
権利関係が複雑。この再開発地区に投資した人物も居る訳ですからね。

そんな複雑な歴史の流れの解説を聞きながら、バスは先に進みます。


山の方には雲がかかってきましたね。

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