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板書(91)清�明末清初の文化

2012年03月22日 | トリオDE世界史

(1)ザビエル �会派�典礼�中国布教
�イエズス会
�典礼容認
�広東沖の上川島で病死
(2)明代のイエズス会士3人
�ザビエル
�マテオ=リッチ
�アダム=シャール
(3)マテオ=リッチ �中国名�明高官の友人�主著
�利瑪竇
�徐光啓
�坤輿万国全図
(4)アダム=シャール �中国名�主著�明の官職
�湯若望
�崇禎暦書
�欽定監正に就任
(5)徐光啓の主著 �農業�数学�暦
�農政全書
�幾何原本
�崇禎暦書
(6)明代の実学書 �薬学�産業技術�農業
�本草綱目
�天工開物
�農政全書
(7)明代の実学者3人 �薬学�産業技術�農業
�李時珍
�宋応星
�徐光啓
(8)反清復明運動の3人
�顧炎武
�黄宗義
�王夫之
(9)顧炎武 �主著�主著�清との関係
�日知録
�天下郡国利病書
�清に仕えない
(10)黄宗義 �主著�主著の内容�評価
�明夷待訪録
�皇帝独裁を否定
�中国のルソー
(11)王夫之 �主著�主著の内容�同時期の皇帝
�読通鑑論
�資治通鑑の研究論
�康熙帝
(12)康熙帝時代の文化 �儒学�大編纂事業�外来文化
�考証学
�古今図書集成
�イエズス会から導入
(13)古今図書集成 �始めた皇帝�完成させた皇帝�内容
�康熙帝
�雍正帝
�百科事典
(14)乾隆帝時代の考証学の作品 �辞典�地理書�儒学書
�五体清文鑑
�大清一統志
�四書全書
(15)清代のイエズス会士3人
�フェルビースト
�ブーヴェ
�カスティリオーネ
(16)フェルビースト �中国名�業績�影響
�南懐仁
�大砲の製造
�三藩の乱の鎮圧に貢献
(17)ブーヴェ �中国名�主著�地図
�白進
�康熙帝伝
�皇輿全覧図
(18)カスティリオーネ �中国名�業績�その様式
�郎世寧
�円明園の建設
�バロック式





板書(89)明�明末清初

2012年03月22日 | トリオDE世界史

(1)万暦の三大征 �オルドス地方�朝鮮半島�貴州
�ボハイの乱
�壬申・丁酉の倭乱 
�楊応竜の乱
(2)明末の党争 �主流派�非主流派�非主流派の中心人物
�非東林党
�東林党
�顧憲成
(3)東林党 �学校�学院の場所�性格
�東林書院
�江蘇省無錫
�在野の文化人
(4)李自成の乱 �影響�明の守将�結果
�明滅亡
�呉三桂
�清が入関
(5)清の入関 �年�清の皇帝�万里の長城の関所
�1644年
�順治帝
�山海関
(6)残明勢力 �国�王�台湾
�南明
�英明王
�鄭氏台湾
(7)台湾 �先住民族�オランダ人の居城�明の亡命者
�高砂族
�ゼーランディア城
�鄭成功
(8)鄭氏台湾 �建国者�滅亡年�征服した皇帝
�鄭成功
�1683年
�康熙帝
(9)清建国期の皇帝3人 �1616年�1636年�1644年
�ヌルハチ
�ホンタイジ
�順治帝
(10)ヌルハチ �建国した国号�建国年�遼東半島の戦い
�後金
�1616年
�サルホの戦い
(11)ホンタイジ �国号�その年�征服地
�清
�1636年
�モンゴル高原と朝鮮半島
(12)順治帝 �業績�重要年代�協力した明の将軍
�中国内に進入(入関)
�1644年
�呉三桂
(13)清の正規軍と治安部隊 �ヌルハチ�ホンタイジ�順治帝
�満州八旗
�蒙古八旗・漢軍八旗
�緑営
(14)清による漢人統治政策 �強制�融和政策2つ
�辮髪(弁髪)の強制
�科挙実施
�満漢併用策
(15)中国の党争 �後漢�北宋�明
�党錮の禁
�新法党と旧法党の対立
�東林党と非東林党・宦官の対立


三跪九叩頭

2012年03月22日 | 高2用 授業内容をもう一度

中国皇帝に外国使節が謁見する際のマナー。皇帝のそばに行くまでに3回跪き、その都度3回頭を垂れる。イギリス国王の正式使節として来たイギリス人にはこのマナーは非常に屈辱的にうつり、文化摩擦を引き起こした。最初の使節【マカートニー】は受け入れて謁見を果たしたが、【アマースト】と【ネイピア】は受け入れずに謁見していない。


典礼問題

2012年03月22日 | 高2用 授業内容をもう一度

【フランチェスコ=ザビエル】以来、中国にキリスト教(カトリック)を布教する際に【イエズス会】は中国の伝統的な宗教観や宇宙観、宗教上の儀礼などといった【典礼】を利用して中国人にキリスト教を理解させようとした。すなわちイエズス会は【典礼を容認】したのである。また、布教には宮廷との結びつきが不可欠と考え、清朝宮廷に出入りして西洋技術を伝授する一方で、その代わりに布教のための便宜を受けていた。

 しかし、このような布教活動は後から中国にやってきた別の教団の宣教しから見れば、キリスト教を冒涜することにほかならず、彼らは教皇【クレメイス11世】にこのことを訴えたのである。これを受けて教皇クレメンス11世は1704年に【イエズス会の布教活動を禁止】した。これが、キリスト教会内の典礼問題を巡る対立である。

 しかし、当時の皇帝【康熙帝】はイエズス会師から逆に直訴され典礼を認めない他の教団、すなわち【ドミニコ会】や【フランチェスコ会】による中国における布教を禁止した。ここに典礼問題が西洋の価値観を全面に出す教皇側と中国の価値観を基準とする皇帝との異文化対立の国際問題に発展したといえる。

 さらにドミニコ会師が宮中の陰謀に関与したため、【1724】年に【雍正帝】は【キリスト教の全面布教禁止】に踏み切り、一部の宮廷内の宣教しを除いて【ポルトガル人】が居住権を持つ【マカオ】に宣教師を追放した。しかし、日本のような激しい弾圧は行われず、したがって殉教者も出なかった。