中国の王朝時代の税制を,その柱である地租に注目して,土地制度と関連させながらみてみよう。
孟子以降の儒家が,土地制度の理想的モデルとしたのは,周代に行なわれたとされる囲田制である。この制度は土地を9等分し,1区画ずつ8軒の農家に与え,残りの1区画を公田として8軒の農家が共同で耕作し,収穫を地租として納めるというものである。しかしこの理想的モデルが周で実際に実施されたかどうかは,その証拠となる遺跡が発見されていないことから,未だに不明である。
春秋戦国時代に入ると,鉄製農具の普及や牛耕農法により農業生産力が高まった。あわせて手工業や商業が発展し,貨幣の使用が進んだことから,富裕層が出現して土地の私有化が進んだ。その結果,農民の階層は分化し,富裕層は豪族化していく。
中国を統一した秦は,荒れ地を開墾した田の永久所有や土地の売買を認めたので,豪族の大土地所有は加速した。漢になると,中小農民は課税負担に苦しみ,大土地所有者に隷属したり,流民化した。これを解消するために,土地所有を制限し,小農民を保護するため限田制を施行しようとしたが,反対が強く実現しなかった。
三国時代の魏は,屯田制により国の主たる財源を得た。西晋では魏の屯田制を引き継ぎ課田法を実施したほか,占田法で豪族の大土地所有を制限したとされるが,いずれも実際の内容ははっきりしていない。北魏の孝文帝は,国力増強のため戦後の荒れ地を耕作地化しようと,均田制を開始した。施行に先立ち戸籍調査を行なって,土地をもたない農民にも給田したので,税収が増加した。この制度は理想的モデルに近く,隋・唐まで受け継がれた。
唐では安史の乱によって均田制が機能しなくなったため徳宗は宰相楊炎の意見をいれ,新しい税制である両税法を施行した。これは実際に所有している耕地などの財産に応じて年2回徴税するもので,大土地所有を事実上認めるものであったことから,形勢戸という新興地主が登場した。
五代十国時代を経て統一した宋では,江南デルタ地帯の開発や土地改良,在来種よりも日照りに強く早熟の占城米(チャンパ米)の伝来・普及などにより米の生産量が増加し,桑などの農作物の商品化も進んだが,新興地主による土地の独占により,小農民は没落しつつあった。王安石は新法を策定して富国強兵をめざす諸政策を実施したものの,司馬光を中心とする旧法党の反対にあい,失脚した。
明は農業再興を図り,農民を直接把握して脱税を防止するために,土地台帳の魚鱗図冊と戸籍簿の賦役黄冊を作成した。また,租税の徴収などを行なう里甲制を組織して,官吏の不正請求を防いだ。16世紀になり大航海時代の幕開けとともに海外との活発な交易が行われ、スペインによるメキシコ銀や日本銀が流入した。その結果,、また銀塊が貨幣として流通し始め,貨幣経済はさらに発展した。それを反映し,雑多な賦課を土地税に繰り込み,人頭税と二本立てにして一括銀納する一条鞭法という新しい税制に転換した。この財政改革は1570年代に張居正により施行された。
清は康煕帝から重農主義をとり,雍正帝は徴税の簡便化のために,土地税と人頭税を一本化した地丁銀を始め,18世紀には全国で実施した。