“氷姿雪魄”に背のびする……しろねこの日記

仕事の傍ら漢検1級に臨むうち、言葉の向こう側に見える様々な世界に思いを馳せるようになった日々を、徒然なるままに綴る日記。

「考える」ことと漢字の学習

2013-11-03 20:51:41 | 日記
今晩は。

しろねこの地域は、毎晩とても冷え込んでいます。
帰りの通勤バスには足元に暖房が入っています。
風邪引きさんも増えています。
今日は日本シリーズ第7戦なので、皆そんなことは二の次だと思いますが。
6回現在3ー0の楽天、このまま守り切れるのか?!
(これまで仕事で見られなかったので、今夜初めて中継見てます(笑))

本試から解答基準が届くまでの1週間は大体いつも、
①先送りにしていた仕事に掛かりきり
②本試の問題を過去問ファイルに分野別に書き加えている
③ケータイに本試の問題を打ち込んで、記事の準備をしている
このいずれかです。

この1週間(私には珍しく出張が3回もありました。)は、今が時期的に行事ラッシュが終わり、定期考査までは3週間近くあって、まだ一番ゆとりがあったため、ケータイに今日の段階で約8割は25ー2の問題を入力できています。
入力する際にはどうしても音訓を考えるので、そこで色々間違いに気付きます。
居たたまれない瞬間ですが、じっとやり過ごします。

あとは、四字熟語辞典を開き、25ー2直前で見終わらなかったところを復習ったりしていました(お陰で「ケンロの技」を再認識してしまいました。「○○之○」型の四字熟語は、本当に一度真面目に通しをしなければならないのです)。


ところで、先日東北地区の国語教育研究協議会に参加し、「どうすれば『考える力』を育てることができるのか」という演題で、東大大学院総合文化研究科教授 野矢茂樹先生の講演を拝聴する機会がありました。

哲学を専攻する野矢先生は、文科省のお題目だけで考えさせる授業をしようとしても、そもそも「考える」ことが何か解っていなければ、本当に子どもに考えさせることはできないとして、

「考える」こと
=「あらゆるものをその問いに関係づけて見る眼差しをもって、問いかけに応じようとする緊張の持続」
であると定義しています。

「思考(=考えること)」は本来、飛躍を許さず一貫性のある「論理的であること」とは全く別ものであり、
飛躍が許され新しいものを生み出していける作業であるため、
例えば教師が出した或る問いかけについて、子どもに散々議論させた挙げ句、教師が用意した゛落とし所゛が出た時点でそれを結論とする授業は、考える力を育てられない典型的な例だということです。

従って、単なる意見の言い合いで終わらせず、考えることをやめさせず、別の考え方を提示し(教師自身の意見を言うのではなく)、常に生徒を揺さぶり突き動かし、更なる思考の運動へと促すことが大事なわけです。

……とまあ、聴衆が私達教員なので、
どうしてもお話は゛如何に授業(教育)するか゛に関連づけられたものになるわけですが、
個人的に漢検リピーターの自分としては、次に挙げる一節が特に心に残りました。

・「考える」ということは、自分の意見をもつということではない。確固たる自分の意見をもち、そこから動こうとしない人は、それはそれで立派ではあるが、もはや「考える」ことをしなくなった人と言える。(←ベテランほど危険なことがある。)

・「考える」ことは、「もやもや」しているところから出発し、如何に明確な問いに問い直していけるかが肝心だ。

・「考える」ことは恋愛に似ている。「いつも君のことを考えているんだ」というように、あらゆるものを問題に関係づけて見る感度を全開にして敏感に保ち、ヒントが来たら逃さない態勢でいるということ。「恋愛」という比喩を引き継いだ言い方をするなら、「考える」ことは「悪女的」であり、考えることにはそれを止めたくなくなる魅力がある。


……とにかく野矢先生のお話で共通しているのは、「考えることは流動的であり、停滞していることが無い」ということです。

そこで思ったのが、
世の中には、漢検1級のための勉強を面白いと思える人とそうでない人がいるようだけれども、先の「考える」ことについてのお話の中に、この両者を分けるヒントがあるのではないか、ということです。

「漢字の奥が深く、毎回発見がある」と感じることができているということは、漢字学習をする過程で「考える」ことができているということです。

暗記はつまらないという言い方をよく聞きますが、型通りのことを何も考えずに頭に詰め込むだけなら、それはつまらないでしょうね。
また、得点するための漢字学習がある程度完成された人は、個々の漢字を固定して見るのではなく、さらに発見していく眼で学習を重ねていく必要があるのでしょう。
漢検1級ともなれば膨大な記憶力を要するので、それだけでも苦痛に感じる人もいるのでしょうが、ある程度それがクリアされたとして、その先やる気が出るには、漢字学習が所謂「悪女的」でなければならないわけです。
野矢先生は、考えるためには最初の「もやもや」が非常に大切だと話していましたが、漢字学習でも如何にその「もやもや」を多く抱いて取り組めるか、だと思います。

漢字は人間が創ったもので、人間界の森羅万象を表現したのが漢字なわけですが、この世に神秘があるかぎり、漢字学習にも果てしなく沢山の「もやもや」があって然るべきなのです。

リピーターにならずに一度切りの漢検1級受検をした人が、
「漢検1級に合格するには、漢字マニアになれることが不可欠だ」
という趣旨で記事をあげているのを目にすることがありますが、「漢字マニアになれる」ということは、漢字を生涯の友として、どこまでも多面的に観察・検証していける、ということなんでしょうね。
例えば六面体だと思っていた漢字が、より掘り下げていくことで面が増えていって、限りなく球なイメージに近づいていければ、それはその漢字について「考える」ことができているのだと思います。

そのために、日々音訓、字形、部首、例文、意味、他の文字との比較、と、際限なく追いかけていきます。