どんでん返しの卑弥呼の墓・邪馬台国ーー10・1倭女王卑弥呼発見なるを変更しました。

卑弥呼の墓の新発見、王都の位置、本名および魏志倭人伝の解明について書きつけます。

犬戎国1

2011年01月26日 09時12分46秒 | 海(わた)


地図:中国地図長 平凡社2008に七海書き入れ。
左端上部の固原県が高辛氏の王庭。犬戎国のあった所は、平涼市霊台朝那鎮です。豳地(ひんち)は、長武県辺りです。太白山あり。

犬戎国1

1潜夫論・五徳志。
後継ぎ帝コクは、顓頊(せんぎょく)に代わって、その相は、戴干(たいかん)。その号は、高辛。
2史記五帝本紀。
帝コク高辛氏は、黄帝の曾孫なり。・・・高辛の顓頊に於けるは、族子たり。
3史記集解。
顓頊以来、天下の号はその名に因る。・・・・高陽・高辛は、みな、興る所の地なり。
4詩経小雅六月
獫狁(げんいん)は、鎬および方を侵し、陽(けいよう)に至れり。
(鎬は高に同じ。獫狁は、犬戎のこと。)陽は、川辺り。

5周礼夏官・職方氏。
正西を雍州という・・・その川は、・汭(ぜい)なり。
(鄭玄注)汭は、豳地(ひんち)にあり。
漢書地理志・右扶風洴県の条。
洴水(へいすい)は、西北に出ず、北流して渭水に入る。汭水は、西北に出て東流して水に入る。
(林梅村の注記)
漢代の洴県は現在の隴県であり、芮水は甘粛省崇信県を流れる汭水である。
汭水は東北に向かって水に流れ込み、東流して、豳国(ひんこく)現在の長武県を経由する。
古代の瞼国(ケンコク)は、漢代の安定郡・陰槃(インバン)県。現在の陝西省長武県付近に比定でき、明らかになっている。
(七海注)瞼は、まぶたの義。南蛮の原語で、州を意味するので、州国です。槃瓠(バンコ)の槃は、顔を洗う「たらい」で、盤に同じ。

6漢書地理志・安定郡の条
朝那は、端旬の祠15所、胡巫の祝有り、又、湫淵の祠あり。
史記封禅書にも、湫淵(しゅうえん)は、朝那に祠(まつ)る。
(注)祠は宗廟。端旬は、高辛氏の先祖・顓頊の廟である。

7穆天子伝・巻1
穆天子は、北のかた、犬戎を征伐し、犬戎胡は、天子を當水の陽に觴(さが)す。
(林梅村の注記)
當水は、嘗水の誤り。嘗(じょう)の字は、朝那の二字の合成音である。
彰陽県古城郷から出土した漢代の鼎は、もともと烏氏県にあったものが、後になって、朝那に移され、標準計量器になったに違いない。
実のところ、先秦時代の文献資料からも、犬戎が、朝那に居住していたと、うかがい知れる。

林梅村の結論
Aもと犬戎の居た所は、朝那。現・平涼市霊台県朝那鎮とされている。
B高辛氏の都は、漢代安定郡の高平県で、現在の寧夏回族自治区・固原県である。

山海経・海内北経
陀巫(だふ)の山の上に人が居て、杯を持って東に立つ。西王母が机にもたれて勝(かみ飾り)と杖を載せている。その南に三羽の青い鳥が居て西王母のために食物を運ぶ。崑崙の丘の北にあり、人あり、大行伯といい、戈(ほこ)を持つ。その東に犬封国あり、弐負(じふ)臣の尸は、大行伯の東にあり。
犬封国は、犬戎国と言う。状は犬のごとし。一女子あり、方に跪いて杯食を進めている。文ある馬あり。縞の身で朱の鬛たてがみ、目は黄金ようで、名は吉量といい、吉量に乗れば寿命千年という。鬼国は、臣の弐負の尸の北にあって、この物は人面にして一つ目。トウ(虫+匋)犬のごとく青色で、人を首から食いはじめる。
窮奇は、状が虎のようで翼があり、首から人を食う。食われるものは、髪をふり乱している。トウ(虫+匋)犬の北にあり。以上海内北経。
(郭璞注)
昔、盤瓠は、犬戎(の房王)を殺す。高辛の美女を以て盤瓠の妻となす。以て訓(おし)うべからず。すなわち、盤瓠を会稽の東海中に浮かべ、300里の地を得てこれを封ず。男を生めば狗となり、女は美人となる。これ、狗封国と為すなり。(元中紀では、狗民國)
(林梅村注)犬封とは、犬方のことで、犬戎という。方は国の意味。
(七海注)臣の弐負がアツユを殺した尸を鬼国としている。のちの殷のころに鬼方がでてきます。また、西王母信仰は、中国のあちこちに信仰者が居るから、当地の太白山3767mは、そのひとつでしょう。

以上、山海経の細部は不詳ですが、みな、太白山3767mの北に在ると考えられます。

そこで、妙なことを思い浮かべました。
元中記では、会稽の東南、2万1000里の地。これが30里四方という。

この2万1000里があって初めて、犬戎国の位置が解るのですが、実は、犬信仰は、チベットを含む中国も日本も非常に多く、朝鮮にもある。
また、インドやローマにも狼信仰がある。
古代の日本は、犬だらけと言ってもよい。犬戎胡というから、胡はエビスで、北テキの東胡の連中です。
中国の帝都の周りを中原中華となし、その外の国を柵外というが、南蛮、北テキ、西戎、東夷の四エビスが取り巻いていると考えます。
盤瓠夫妻の行った土地は、後漢書南蛮伝によると、南蛮の南山の洞窟です。これは、湖南省邵陽市の巨大な洞窟です。その後人口が増えたのでしょう。

福建省泉市の崇武鎮には、1400年ころ、倭寇の海賊除けの崇武古城があります。
山口県萩市見島を先に見つけて、会稽郡の海岸沿いを探すと、ここが、適地と考えられます。
21000里×77km/千里=1617kmです。
福建省泉市の崇武鎮から見島は、約1600km強で、丁度、山口県見島となります。

なお、崇武鎮というのも、昭武九姓(先祖の月氏)を知ってのこと、こんな地名がついたのではないか。犬戎は、その一派で中国の周りに沢山居ます。
昭武九姓は、三国志の魏国の曹氏がそのひとつで、西域のカブータンでした。
また、三国史記の高句麗の東明(前37年即位)は、高辛氏の後と明紀されています。

何時の時代か
中国では、五帝時代、帝コク高辛氏、帝堯唐陶氏と続き、帝舜有虞氏が三苗を追放する時代には、日本や朝鮮に来ていると考えます。
なぜならば、前2200年頃、淅江省や福建省から、良渚文化などの連中が、太平洋の島々へ飛び出して行った経緯があります。あれだけ、広大な人工の丘・良渚の連中が居らなくなってゆくのは、不思議です。そして、青森県弘前市の猪の土偶もこの時代と遠く離れないのではないか。
また、帝舜の墓は、南蛮の九疑山で、湖南省馬王堆の地図が、証明しているように、舜が四凶を追放したのではないか。
次の夏王朝初代禹(ウ)が前2070年即位だから、洪水を止める前で、大津波や大洪水も十分に考えられます。

第120代窮奇さん
魏志倭人伝、狗奴國王・卑弥弓呼素は、168年、拘奴国王をやっつけて、従えました。金官の拘耶国も狗邪韓国に交代しました。少昊氏の不肖の息子窮奇は、卑弥弓呼素とみます。宀をとられ、身もとられ、弓だけ残った。天上から追放されました。
第120代とは、七海がデッチあげたデタラメの数字です。特定の人物ではなく、何代も年月を襲(かさね)て、きたから、色あせずに残っていたのでしょう。世襲制があるから、却って解るようになっています。なお、三国史記の慶州新羅は、少昊氏の後裔となっています。


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