遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『謎の渡来人 秦氏』 水谷千秋  文春新書

2013-12-11 13:07:14 | 
 京都に生まれ育ち、広隆寺、秦河勝、太秦、大堰川、松尾大社、稲荷大社、平安京遷都などを通じて、渡来人秦氏の存在というものを知識として受け入れてきた。しかし、それは漠然と知っているにとどまっていた。
 先般、本著者の『継体天皇と朝鮮半島の謎』を読んだとき、この『謎の渡来人 秦氏』が先に出版されていることを知った。本書は2009年12月に出版されていたのだ。そこで秦氏という渡来集団の実態について、一歩踏み込んで知りたいと思い、遅ればせながら本書を読んでみた。

 本書で渡来人秦氏の謎が明瞭に解明されたか? といえば、謎が残ったままであるとしか答えられない。しかし、先人の諸研究や著者の関連地・史跡現地踏査を踏まえて整理検討された思考プロセスとその論理により、謎の渡来豪族・秦氏の特徴についてその全体像を理解する助けとなった。断片的部分的知識を包括的に整理して拡充できた点が有益であった。

 著者の本書における研究の総括は、最後の弟8章「秦氏とは何か」で7ページにまとめられている。著者の総論を知るには、この章を参照されるとよい。それまでの7つの章はこのための各論であり、著者の思考の展開プロセスの記述といえる。
 著者は「私の推測では、中国の秦の遺民と称する人々を中心に、新羅・百済など朝鮮半島各地の人々も含まれていたもの」(p219)という立場をとる。6世紀前半頃の日本の人口の約5%を占めていたと推論されている。その人口の多さがかれらの経済力の源泉であり、農業、漁業、鉱業、土木などの技術面に秀で、殖産興業の民という生き方を貫いている集団であり、政治的な局面では秦河勝とその後の数人を除き、意識的に一線を画するという方針をとったのではないかとされる。政治と距離を置くことで、当時の最大の氏族規模に増殖し、経済的な側面から隠然たる影響力を持ったのだろうという。

 本書を読んで学んだことの主な要点を列挙してみよう。そのための実証資料の提示や論理展開については、本書を読んでいただきたい。覚書的な感想も付記しておいたい。
*日本の古代において最も多くの人口と広い分布を誇る氏族が秦氏である。 p9
  →山背国を本拠地に、北は下野・上野国から南は豊前・筑後国にまたがるそうだ。
   加藤謙吉氏の調査によれば、34ヵ国89部に及ぶという。p10
*秦氏とは、山背国を本拠とする秦氏本宗家(族長)を中心に、単一の血族だけではなくゆるやかな氏族連合を形成した集団と思われる。そして秦氏には、秦人(朝鮮半島からの移住民)、秦人部・秦部(共に倭人の農民)を包含するものとしてとらえることができる。 p10-p36
 おそらく秦氏の本宗家は、中国を祖国とする秦の遺民と称する人々といえる。 p38
  →秦氏については、秦の始皇帝の子孫、弓月の君の渡来説や、朝鮮半島慶尚北道蔚珍郡(海曲県の古名が波旦[ハタ])からの渡来説など諸説ある。 p29-34
*聖徳太子に登用された秦河勝以外、特定の王族や豪族と密着した関係を築くことなく、政治と距離をおいていたようだ。つまり、経済的な基盤形成に徹した。 p34-38
 蘇我氏が山背大兄王を討った時、秦氏は救援せず見放すという選択をしたと推定する。 p112-116
*秦氏は、最初大和朝津間・腋上(現在の御所市)に定着し、5世紀後半から末ころに本拠を置くようになる。平林章仁氏の見解を紹介し、山背への移住は葛城氏の衰退に伴うことと関係するとみる。賀茂氏(鴨氏)も同様である。 p39-43 
*秦氏には様々な系統があるとする。
 著者は『日本書紀』雄略天皇15年条にみえる秦酒公(秦造酒)を事実上の初代と推定する。太秦を本拠とした秦氏本宗家である。広隆寺を建てる秦河勝の本拠になる。葛野郡の嵯峨野一帯が重要な居地となる。
 一方、山背国紀伊郡深草の地には深草秦氏が居て、秦大津父の伝承の地である。稲荷山を奉斎し、伏見稲荷神社の創立に繋がっていく。ここに秦氏が狩猟祭祀から農耕祭祀へと脱却を図った跡が垣間見られるという。大津父は深草から伊勢へ商業活動をしていたことが記録から窺える。 p59-71
 治水のプロ集団としての秦氏の側面を取り上げ、秦氏による葛野川の大堰の造成や桂川の大改修、そして松尾大社も秦氏の奉斎する神社であることに言及する。 p82-88
 著者は河内国茨田(まんだ)郡(現在の寝屋川市)にいた秦氏と馬の飼育の関係やこの地に太秦・秦という地名の存在や太秦高塚古墳を例示する。 p73-76
 さらに、大化改新後に『日本書紀』に名前の出てくる近江愛知郡の秦氏-依知秦氏-の存在にふれ、朴市(えち)秦造田来津の例を挙げている。 p117-124
 →京都の神社や寺を訪れると、様々なところで秦氏を見いだす。系譜のことなる秦氏がそれぞれにその定着地の産土神や土着の信仰を採り入れ、秦氏の奉斎して行った結果だということが理解できる。上賀茂神社や下鴨神社に秦氏の影響が見られるのは、秦氏と鴨氏の融和の側面を示すというのもなるほどと思える。
*秦氏は地方に定着するにあたり、在来の神祇信仰に接近し、これと融和的な関係を築くことを重視した。秦氏は元からあった在来の神を祭る社と、新しく他の地域の神を勧請するというやり方を併用しているということ。後者には、大陸から持ち伝えてきた神もいた。「韓神(からかみ)」である。  p191-218
 →第7章では、上田政昭氏と北條勝貴氏の渡来・奉祀の神々の三類型化を踏まえながら、秦氏の関わる神社を考察していて、興味深い。取り上げられているのは、松尾大社、賀茂神社、葛野坐月読神社、蚕の社(木嶋坐天照御魂神社)、伏見稲荷、韓神、園韓神祭、平野神社である

 著者は第5章で摂津、播磨、豊前、若狭へと増殖し展開していった秦氏の経緯を具体的に説明する。秦氏が中央の政治とは距離を置き、経済の側面で実利的にその存続基盤を拡大している状況がよく分かる。
 著者は上野加代子氏による秦氏が水上交通の拠点としているところに妙見菩薩信仰が多く分布しているという推論を紹介してる。興味深いことだ。また、『風姿花伝』を引き、世阿弥が秦氏を名乗っていることについて論究している点も、私には興味深い。

 第6章「長岡京・平安京建都の功労者」において、秦氏の役割を考察している。
 知らなかったことで、本書を読み関心をいだいたのは、長岡京の築かれた乙訓郡が秦物集氏という枝氏の根拠地だったということ。平安京の造宮職の長官を務めた藤原小黒麻呂が秦氏と姻戚関係にあったこと。平安京の大内裏(平安京)のあった場所が、もとは秦河勝の邸宅があったところだということ。桓武天皇が多くの渡来系豪族出身の女性を娶ったということ。ただしそこに秦氏はいないという。
 桓武天皇の母高野新笠は渡来系豪族の娘であり、桓武朝においては、渡来系豪族が異例の抜擢・寵愛を受けた時代だったということ。この点は、桓武天皇が奈良の豪族旧勢力から一線を画するために、平城京から平安京に遷都することと関係するのだろう。
 
 クレオパトラのもしも・・・ではないが、著者は本書を次の段落で締めくくっている。
「あらためて考えてみると、蘇我氏と秦氏とは山背大兄王滅亡事件の際に衝突する可能性があった。結果的には秦氏の自重によって、戦乱は拡大しなかったけれども、あのとき秦氏が山背大兄王の側についていたら、あるいは蘇我氏の側についていたら、その後の歴史はどうなっていたことだろう。この事件は、秦氏にとっても自らの行く末を左右する大きな転機だったといえるのではないだろうか」と。


 ご一読ありがと。うございます。

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本書に出てくる語句関連でネット検索した項目の一覧をまとめておきたい。

秦氏 都市史01 :「フィールドミュージアム京都」
秦氏 :ウィキペディア
秦氏について :「渡来人研究会」
秦氏考 :「おとくに」
秦氏の末裔 渡来人秦氏と広隆寺の関係 :「世界のために日本は」
 さまざまな情報が収集されていて、広がりを知るにはおもしろいサイト記事です。
 
広隆寺 :ウィキペディア
伊奈利社創祀前史 :「伏見稲荷大社」ホームページ
御由緒 :「松尾大社」ホームページ
木嶋坐天照御魂神社 :ウィキペディア
葛野坐月読神社(山城国葛野郡) :「神道・神社史料集成」
月読神社 (京都市) :ウィキペディア
月神信仰/葛野坐月読神社(京都西京区)
 
はじめに:京都の古代の風景に想いを馳せる 
  広隆寺 という項も記されています。
 


   インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。


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