遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『春風伝』 葉室 麟  新潮社

2013-05-30 22:16:14 | レビュー
 高杉晋作は通称で、名は高杉春風(はるかぜ)、字は暢夫(のぶお)だという。だから「春風伝」なのだ。知らなかった。
 高杉晋作の伝記小説だとは知らずに手に取り、冒頭のページでこのことを知った次第。迂闊! ところが著者は本のタイトルとしては、「しゅんぷうでん」と読ませている。

 本書は、晋作が前髪立ちの14歳であった嘉永5年(1852)2月、長門国萩城内の中庭で、時間内に100本の柴矢を作るという仕事をしているシーンから書き始められている。高杉家は長州藩において200石の家柄で、上士階級に属していたようだ。長州藩主毛利敬親に嗣子がなかったために養子となった世子・定広は同年の晋作に親近感を抱き、晋作を信頼していたようである。
 本書を読むと、晋作は幾度も脱藩を繰り返しながらその都度藩に戻り、定広の信認を失うことがない。危急の事ある毎に晋作が呼び出されるという絆の強さ、深さが描き込まれている。脱藩常習者である晋作が、なぜ、危急存亡の折に世子に頼りにされたのか。そこに著者が高杉晋作像を描きたい一つのテーマがあるのではないか。

 本書の始まりのところで、著者はさりげなく晋作と定広の会話を書き込んでいる。
 「若君、梅が今を盛りと咲き誇っております」
 「晋作は梅が好きか」
 「梅は厳しい寒気に負けず花を咲かせ、春の訪れを告げます。さように凛然とした様が好ましく感じられます」
 「そうか。そなたの諱は春風であったな。されば、そなたも梅のように春を呼ぶ風となるか」
 「さようありたいと願うております」

 尊皇攘夷論に雷同せず、日本という国を念頭に開国の道を模索し、尊皇攘夷の動きの中で、馬関における外国連合艦隊の反撃並びに四境戦争という長州藩の苦境のただ中に晋作は投げ込まれる。その厳しい状況の中で、新しい日本の国づくりを呼び込む風となる晋作の行動を象徴して、「しゅんぷうでん」と読ませたのだろう。

 晋作は、労咳、つまり肺結核が直接の原因で、4月14日未明、眠るがごとく逝ったという。享年は満27歳8ヵ月だった。少年から青年へのわずか10有余年を奔馬の如く駆け抜けて行った、とてつもない行動の人だったのだ。
 著者はその行動を詳細に活写していく。晋作の脱藩行為の繰り返しを眺めて行くと、晋作の思想の形成過程とそれを促した人との出会いが見えてくる。

 晋作は行動の人だった。自らの行動を通して、人と出会い、人から学び、己の思想を鍛え上げて行ったようである。晋作の父小忠太は、晋作にその迷妄を払わせる言を語る。「この後、そなたは迷うことがあるかも知れぬ。その時は、選んだ道を断固として進むことだ。おのれの迷いをひとに見せるのは見苦しい。選んだ道が正しいかどうかわからなくとも、意を曲げず進め。さすれば道は必ず開けるだろう。わしが言えるのはそれだけだ」(p78)と。
 晋作に影響を与えた人びととの出会いを本書の展開に即して列挙してみよう。この人びととの出会いが読ませどころの一つだと思う。

☆脱藩の罪に問われていた吉田寅次郎、号して松陰との出会い
 神道無念流の斎藤新太郎と和田の小五郎(桂小五郎)の後を久坂秀三郎(後の玄瑞)とつけていき、吉田松陰の家に行き着く。
 だが、晋作は松陰に対して「随分、軽率なひとだな」という思いを最初に抱いたと著者は描く。その印象がどう変化していくか、それが晋作を知る押さえ所にもなる。定広からこれを見てみよと手渡された「海戦策」が契機のようだ。それは、松陰の献策だった。
 晋作と玄瑞は、安政4年(1857)から松下村塾に通い始める。
 晋作が松陰から学んだキーワードを「草莽崛起」として著者は描いていく。
 一方、斎藤新太郎の後をつけたのは、桂小五郎との関わりの始まりでもあるようだ。
☆嘉永7年、ペルリの黒船再来。遠眼鏡で黒船を眺める佐久間象山との出会い
 定広の命で、松陰を探す晋作が、象山の供の中に松陰を発見して近づく。それが象山を知る機会のようだ。
 定広の命で、象山を長州に招聘し起用すべき人材かどうか、会いに行き判断する立場に置かれる。この時晋作は、象山から西洋列強のアジア侵略から国を守る方策を訊きたかったようだ。しかし、象山の開国論には失望したという。象山は晋作の思想を明確化するための反面教師の役割を果たしたのだ。
☆藩祐筆役の周布政之助との関わりの深まり
 開国の考えを基盤に藩政改革を考える中心人物。藩の観点から積極的に晋作を利用しつつ、またその行動を援護していく。こういう強力な支援者・弁護者がいたからこそ、脱藩を繰り返す晋作の存在が容認されたという側面があるように思う。一筋縄ではいかない修羅場を生き抜くこの人物に晋作は影響を受けている気がする。
☆横井小楠との出会い
 富国強兵の力を蓄えるために交易を行い開国すべきという特異な論法に晋作は引き込まれて行く。松陰の考えに通じるところを見出す。晋作は玄瑞宛てに、「横井はなかなかに英物、有一無二の士と存じ奉り候」(p94)と、書き送ったという。
☆長州藩の重臣、智弁随一と称される長井雅楽。その建議策
 「航海遠略策」に対して、晋作は感心するとともに、その弱点を惜しむ。著者は晋作の思いとして「藩の方針としてだけなら申し分ないが、公武一和のための方策としては空論だ」と記す。
☆馬関の廻船問屋小倉屋こと白石正一郎との関わり
 八雲という女を介して、晋作に近づいてくる人物。開国という一点において、晋作の後援を積極的に推進する。晋作の活動の資金源になったようだ。国学の素養深く、商人ながら尊皇攘夷の志を抱く人物。「商」を基軸にした視点は、晋作に影響を及ぼした人物でもありそうである。

 晋作の外交思想、開国論形成の糧になったのは、彼の上海渡航経験だろう。幕府が上海に幕吏を派遣するという計画に対し長州藩の世子定広が晋作を強引に一行に加えさせるという行動を取ったのだ。この上海渡航による晋作の現地情勢の探索、そして現地で出会う事件での活躍が、本書の読みどころでもある。中国、当時の太平天国の実情と西洋列強の現地での有り様が、晋作に日本という国家を具体的に考えさせる機会になったといえる。
 さらに、この上海渡航で知り合った若者達が、その後の晋作の活躍に大きく関わる人脈となっていく。これらの人びとからも晋作の学びが多かったのではないかと感じる。
 水夫の格好で千歳丸に乗り込んだ薩摩藩士の五代才助、幕吏の従者として乗船した佐賀藩の中牟田倉之助、宿館で同室となった名倉予何人との出会いである。晋作は、太平天国の実態に触れ、ふとしたことから陳汝欽と知り合い、その関連で周美玲の行動に深く関わって行くことになる。そして晋作の行動に彼ら3人も巻き込まれいくのだ。
 特に五代才助はオランダ商館が蒸気船を売りに出している話を晋作に伝えるなど、晋作との関わりが深まっていくことになる。

 本書で関心を惹かれるのは、八雲と呼ばれる巫女とその巫女に同行する少女卯月だ。この二人が、晋作の短い生涯の中で、要所要所に姿を変えて登場してくる。黒子の様な存在でもある。八雲は、馬関の商家の女番頭、卯月は馬関で芸妓となりその呼び名は此の糸、卯月という名をうのにし、姿あるいは名を変えて行き、晋作の前に登場する。晋作との関わりは深まっていく。
 彼女たちの関わり方は著者の想像力が織りなした創作なのだろうか。それとも、この二人に仮託されるた人びとが共に実在したのだろうか、興味が尽きない。ネット検索してみると、下関に愛妾おうのという女性が晋作の晩年には実在していたようだ。

 本書のもう一つのテーマは、尊皇攘夷論が沸騰する中で揺れ動く長州藩の実態と経緯の描出にあるように思う。その長州藩に晋作がどう関与して行ったのかである。
 馬関における攘夷戦としての外国軍艦への砲撃。それに対する列強諸国の報復行動。晋作は呼び出される。対抗の秘策として晋作は奇兵隊を創設する。それが藩内に波及していくという展開。その後、幕府軍と長州藩との間で、四境戦争が引き起こされ、晋作が関わって行かざるを得ない。危急存亡の折りには、晋作が人びとの意識に上り、晋作の発言と行動に注目が集まるというパターンの繰り返しだ。
 四境戦争との絡みの中で、銃器調達を介して晋作と坂本龍馬の交流が出来ていくということを初めて知った。二人の出会いは長崎のグラバーの邸だったということ、そして、晋作が購入し所持していた短銃を、坂本龍馬に晋作が贈ったのだということも。
 福岡藩の月形洗蔵を仲介として、晋作は西郷隆盛とも対面しているようだ。薩摩と長州が関わりを深めていく遠因は、このあたりにあったのかもしれない。著者は、さりげなく対面のシーンを書き込んでいる。

 ステップを踏みながら、高杉晋作という人物像が少しずつクリアーになっていく。

 小説としての読ませどころの山場は、上海における晋作の行動、及び奇兵隊の創設・運用における晋作の行動であり、奇兵隊の働きの描出にある。晋作の人生はまさに波瀾万丈で、機略に富み、柔軟で実におもしろい展開となる。

 晋作の家庭という側面も伝記小説の一つの軸としてごくわずかだが描き込まれている。安政7年(1860)1月18日に、「萩で一番の美人」と評判だった江戸藩邸留守居役・井上平右衛門の娘雅との見合いの後、祝言をあげた。しかし、晋作が物理的に雅の傍に居て過ごした期間はわずかだったようだ。梅之進という息子が生まれているが、親子の対面があったものの、一緒に生活することはほとんどなかったようだ。息子の視点から見た父親像はどうだったのか。著者は語っていない。
 「戦の場を捨てるわけにはいかない。それでは今までしてきたことがすべて無になる。」(p423)それが晋作の立場だったのだろう。
 だが、一方で著者は雅にこう言わせている。「未練と思われるかもしれませんが、わたくしは旦那様に生きて萩へ戻っていただくことを念じております。なんとおっしゃられましても、この願いは捨てられませぬ」(p422)と。
 容態の悪化する晋作を自らの手で看護することもままならぬ物理的状況に置かれていた雅。妻としての雅の思いは悲痛であっただろう。

 晋作の死を看取ったのはうのと望東尼である。望東尼と晋作の会話が実にいい。
 会話の最後に晋作が言う。「ならば戻って参りましょう。春風の吹くころに」

 晋作の妻雅は、大正11年、78歳で亡くなったという。晋作の手紙を懐かしみ、
  文見てもよまれぬ文字はおほけれどなほなつかしき君の面影
という歌を詠んだと記されている。

 晋作は最後に、梅の枝に遊ぶ鶯に賦した詩を残したそうだ。その最後の章句が、
  君が為に鞭を執って生涯を了らん
 「まさに晋作の一生を表した絶唱だった」という一文で、著者はこの伝記小説を閉じる。
 鶯には様々な意味が重ねられているように感じている。

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高杉晋作 :ウィキペディア
高杉晋作 :「萩市観光ポータルサイト」
幕末の革命児 高杉晋作 :「吉田松陰.com」
高杉晋作.com 

吉田松陰 :ウィキペディア
吉田松陰 :「吉田松陰.com」
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久坂玄瑞 :ウィキペディア
久坂玄瑞 :「吉田松陰.com」

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幕末維新諸隊一覧 :「日本の歴史学講座」


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