遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『さわらびの譜』  葉室 麟   角川書店

2013-12-08 10:36:01 | レビュー
 著者の作品ではめずらしく爽やかさの余韻を残しハッピーエンドとなる作品だ。読後感が重たくなくてやはり良い。『さわらびの譜』という書名にも照応しているように感じる。

 著者が弓術を題材にするのは本書が初めてではないだろうか。有川将左衛門は祖父が扇野藩の弓術師範であり、父の代から勘定奉行に任じられたことから、弓術師範は遠慮し、勘定奉行職を勤めている。日置(へき)流雪荷(せっか)派について父子相伝で印可を伝えている人物。子供は娘ふたりであり、将左衛門は姉の伊也が6歳になった時、弓術の稽古を始めさせた。日置流雪荷派弓術は御家芸であり他流派経験者に伝えては作法に乱れが生じると将左衛門は主張した。それで伊也が雪荷派弓術を相伝する。父は伊也に弓術の天稟を見ていたのだ。伊也は弓の稽古に熱中し、18歳になるまで一日も欠かさず弓の稽古を続けてきた。
 正月に城下の八幡神社での弓術奉納試合に、日置流雪荷派として男装で出場、大和流の樋口清四郎に一個多く的を射貫かれて試合を制されたのだが、たちまち弓矢小町との評判が立つ。伊也は再度樋口と試合をしたいという望みを抱く。

 扇野藩の弓術師範は20年前から大和(やまと)流の磯貝八十郎が努めており、家中の若侍はこの流派の稽古をしている。樋口清四郎は磯貝門下で四天王の一人とされる。後の3人は河東大八、猪飼千三郎、武藤小助である。この3人はそれぞれに弓術での特技を持っている。

 有川家に樋口清四郎との縁談が持ち込まれる。将左衛門は姉の伊也ではなく、妹の初音との縁談として話を進めると娘たちに告げる。まずは許嫁ということで婚儀は2年後と決まる。だが伊也は奉納試合をした樋口清四郎の凛々しく武士としての覚悟の定まった姿に心惹かれる想いを抱き始めていたのだ。それを感じる妹は、「姉上、よろしいのでしょうか」と尋ねると、姉は「縁組は家同士で決めるものです。父上が承知なされたのであれば、それに従うしかありません」と答えるのだが・・・・。ここから清四郎を巡って伊也と初音のそれぞれの想いが様々に展開されていく。ある意味で「しのぶ恋」の様相・心の葛藤が始まるといえる。著者は二人の思いを実に巧みに織り上げていく。この恋心、心奥での葛藤と変転が一つの読みどころである。

 この有川家には、新納(にいろ)左近という武士が寄寓している。江戸の旗本の三男で25歳。学問の道を志し、儒学者粕谷一斎の推薦で扇野藩での召し抱え話が進んでいるという人物。その仲介に将左衛門が関与している。じつは藩政治の局面からある意図での謀が進められていたのである。

 江戸時代、京の三十三間堂では<通し矢>に挑んで数々の記録が生み出されていた。扇野藩でも<通し矢>に挑ませるべく、八幡神社本殿脇に板塀をめぐらせた堂形、長さ60間の射場が作られていた。そして、毎年この堂形で千射祈願を試みる藩士がいたのだ。
 清四郎が有川家を訪ねてきたおりに、伊也は清四郎がこれに挑むつもりではないかと尋ね、また伊也自身も千射祈願を試みたい旨父に願い出る。将左衛門は伊也の振る舞いに激怒するのだが、話が思わぬ方向に進んでいく。
 千射祈願希望者が多いため、一刻の間に百射するという<通し矢>の御前試合を行い、千射祈願の挑戦者を選りすぐるという機会が藩で設定されることになる。
 藩主が帰国し御前試合が行われるまでの間に、伊也は堂形で稽古をする清四郎に一度だけ通し矢のやり方について手ほどきを受ける機会を得る。御前試合では、伊也が清四郎を制する結果になるのだが、その後に御前試合についての奇怪な噂が出来し、伊也の千射祈願は延期となる。伊也は汚名を晴らす機会が与えられるよう願い出る。弓矢の勝負から出た噂は弓矢にて打ち消すしかないとして、互いが十間(約18m)離れたところから相手を射るという御前試合を望むのだ。藩主はそれを許可するが、その願い出が清四郎と伊也を窮地に追い込んでいくことになる。この辺りから、このストーリーが大きく展開を始めるといえる。

 御前試合の弓術での因縁話にかこつけた形で、まったく異なる思惑が進展していたのである。藩主の素行及び藩政治に関わる派閥次元の確執が重なっている。純粋な弓術試合が、どんどんと藩主や重臣の政治的な思惑で汚されていくことになる。

 著者はおもしろい組み合わせを作品として構想したものである。清四郎をめぐる伊也・初音の姉妹の想いの葛藤・変転、弓術試合のステップアップ、それに絡められた藩政治の確執、つまり藩主の思惑と重臣の派閥・勢力争いの確執、政治の局面でキーパーソンになっていく新納左近の存在、清四郎の思考と行動。そして、新納左近の謎とその立場が徐々に解明されていく。弓術による夜討ちという暗殺計画(四天王のうちの3人が関わっていく)の出来・・・・
 そして、伊也による千射祈願の描写が最後にストーリーを高揚させている。この作品の終わり方が爽やかでうれしい。

 著者の作品には、構想の底辺に詩歌が置かれていることが多い。時には、著者の関心を惹いた詩歌が最初にあり、その詩歌に触発され、詩歌の言葉が触媒となり、ストーリーが湧き出てきたのではないかと感じさせる。それほどに詩歌がストーリーの色調を染めているように感じる。
 この作品では次の詩歌が採り入れられている。

 石ばしる垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも  万葉集

 この春はたれにか見せむなき人のかたみにつめる峰のさわらび  源氏物語 <早蕨>

 あな尊
 今日の尊さや
 いにしえも はれ
 いにしえも かくやありけむや
 今日の尊さ
 あはれ
 そこよしや 今日の尊さ           催馬楽 <安名尊>

これらがストーリーにどのように織り込まれていくかを、お楽しみいただきたいと思う。「さわらび」が本書の基調になっている。著者は本書末文の後半を「早蕨の萌え出づるころだった」で結んでいる。心憎いエンディングである。

 いくつか、印象深い文を覚書としてとどめたい。

*仮にそうであったとしても、ひとを愛おしむ心を煩悩とお蔑みくださいますな。ひとをたいせつにする思いがあってこそ、忠もあり、孝もあり、慈悲もまたあるのだと存じます。   p61
*「あなたには心から謝ります。わたしは立ち合う前に自らの心を正しておかねばなりませんでした。」
 「いいえ、姉上は少しも間違ってはおられません。矢のごとく自らの心に真っ直ぐに生きておられますもの」   72
*初音に武の心があると言った将左衛門の言葉を慮ると、武の心とは、ひとを想い、相手のために危うい目にあおうとも悔いぬ心持ちをいうのかもしれない。  p128



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本書に出てくる語句で関心を抱いたものをネット検索してみた。一覧にまとめておきたい。

弓術 :ウィキペディア
弓道 :ウィキペディア
日置流 :ウィキペディア
日置流 :「Heki_To_Ryu ~日置當流の歴史~」
大和流 :ウィキペディア
 
通し矢 :ウィキペディア
三十三間堂の通し矢 京の祭礼と行事 :「甘春堂」
 
蓮華王院三十三間堂 ホームページ
京都 蓮華王院 三十三間堂  :YouTube
 
催馬楽 :ウィキペディア
催馬楽 更衣  :YouTube
催馬楽 桜人 :YouTube

さ‐わらび【▽早×蕨】 :「goo辞書」
ワラビ :ウィキペディア
 


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『陽炎の門』 講談社
『おもかげ橋』 幻冬舎
『春風伝』  新潮社
『無双の花』 文藝春秋
『冬姫』 集英社
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『この君なくば』 朝日新聞出版
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『花や散るらん』 文藝春秋

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