昔々、鏡の前におばあさんがいました。おばあさんが鏡をのぞくと鏡の向こうには老婆がいました。おばあさんがじっと見つめていると、突然老婆は口を開きました。
「風邪か?」
「風邪じゃない」
おばあさんはすぐに返します。
「病院行ったかね」
「病院は人が多い」
「行った方がええでね」
「行くことはない」
「行きなさいな」
「風邪くらいで行くことはない」
「歯はどうかね」
「どうもない」
あまりしつこいとおばあさんは鏡の前を離れることにしていました。老婆は鏡から抜け出してまで追いかけてくることはできません。あまりしつこいのは好きではありませんでした。けれども、おばあさんは一日に一度は、気が向いた時には何度でも鏡の前に戻らなければなりません。なぜなら、他に特別に向かうべき所はどこにもなかったからでした。鏡の前に座ると鏡の向こうのおしゃべりな老婆はあれやこれやとたずねるけれど、そのほとんどはまるでどうでもいいようなことでした。
「あんた老けたかね」
「誰でも老ける」
「あんたは老けんと思うたが」
「誰でも老けるわ」
「そうかね」
「そうよ」
「幾つになったの」
「知らん」
「忘れたかね」
「忘れてない」
「教えんさい」
「どうでもええわ」
「ご飯食べたかね」
「食べた」
「食パンかね」
「食パンじゃない」
「火消したかね」
「消した」
「ヨーグルト食べたかね」
「食べてない」
「食べなさい」
「意味がない」
「歯医者行ったかね」
「行ってない」
「病院はね」
「人が多い」
「虫歯があったろうね」
「自然と治った」
「そうかね」
そう言うと老婆は少し納得のいかない顔をして黙り込みました。おばあさんは、次の質問に備えて鏡の前に腰を落ち着けていました。しばらくして老婆はようやく口を開きました。
「じゃあ私はそろそろ行くわね」
まさか向こうの方から別れを切り出されるとは! それは今までに経験したことのない出来事でしたし、おばあさんはすっかり裏切られたような気持ちでした。背を向ける仕草もなく、鏡の向こうの老婆はすーっと消えてしまいました。そして入れ替わるように魔女が現れました。魔女は静かに微笑を浮かべながら何でも望みが叶うに違いない杖を持ってじっとおばあさんの方を見つめていました。おばあさんは突然去った相棒のこと、唐突に現れた魔女の妖しさに多少は混乱しながらも、何だか恐ろしくなって気がつくと自分から口を開いていました。
「鏡よ鏡よ鏡の魔女さん、どうか私にとびきりの若さをくださいな」
魔女が杖を一振りすると魔女の顔が割れて中から2匹の蛇が出てきました。蛇が杖をくわえるとぱちぱちと音がして硝子の中の景色は歪み、絵の具箱をひっくり返したように混沌とした空は蛇を一瞬にして鬼の姿にみせかけたけれど、すぐに鬼は消えて涙ぐんだ風船が虹と竜を夕映えの橋に引き寄せた後に渦巻いて溶けていくチョコレートが、ゆっくりと新しいゲートを形作っていくようでした。魂を奪われたおばあさんは、吸い込まれるように鏡の中に飛び込みました。
気がつくとおばあさんは若い蝉になっていました。新しく任されたソロ・パートを急いで練習しなければなりません。(それは新しい蝉の役目でした)それにしても歌がこんなにも複雑なものだとは! なってみなければまるでわからないこともあります。
ナーン ナーン ナーン♪
そろそろみんなの夏休み♪
うれしいな うれしいか うれしいね♪
うれしかね うれしっかね うれしいね♪
海へ山へ わくわくわくわくわくわく♪
森へ野原へ わくわくわくわくわくわく♪
だけど わたしは おうちで作文を書くの♪
くる日もくる日もくる日もくる日もくる日も♪
ナーン ナーン ナーン♪
そろそろみんなの夏休み♪
めでたいな めでたいか めでたいね♪
めでたかね めでたっかね めでたいね♪
祭りに花火に わくわくわくわくわくわく♪
虫取りに怪談に わくわくわくわくわくわく♪
だけど わたしは おうちで作文を書くの♪
くる日もくる日もくる日もくる日もくる日も♪
ナーン ナーン ナーン♪
くる日もくる日もくる日もくる日もくる日も♪
くる日もくる日もくる日もくる日もくる日も♪
くる日もくる日もくる日もくる日もくる日も♪
ナーン ナーン ナーン♪
くる日もくる日もくる日もくる日もくる日も♪
くる日もくる日もくる日もくる日もくる日も♪
くる日もくる日もくる日もくる日もくる日も♪