眠れない夜の言葉遊び

折句、短歌、言葉遊び、アクロスティック、夢小説

秘密のトランク

2012-10-31 00:20:03 | 夢追い
「着いたらトランクを開けるね」
 どこに着くの? どうして開けるの? どれくらいになるのか、わからないことが多すぎたので、いっそ何も知らないくらいがちょうどいいのかもしれないし、あれこれ聞きすぎるのも子供じみていると思った。着いたら着いた時に、開けたら開けた時に、その時々で必要なことを知ればいいのだし、知りすぎることは、時に自分から期待や楽しさを奪っていくものだ。何もわからなくても、適当に人に合わせることはできるし、返事をするくらいは簡単だった。
「暑い?」
「少し」
 本当は、暑くはなかった。暑いのかどうか正直わからなかったけれど、正直に答えることができなかったのだ。それで少しのうそをついてしまう。わからないと答えるほどの問題ではなかったから、少しのうそで話を済ませた方が問題を複雑化しない分だけ得なのだ。正直者にはなれそうもなかった。
 少し暑いため開けた窓から入り込んだ風が、胸のポケットに吹き付けて、何かを奪ってしまうほどの勢いだったけれど、勢いだけで奪えるほど、僕の用心は浅くはなかった。空っぽの胸から、奪えるものは何もないんだよ。そう言って、風をなだめると信号が赤に変わった。聞き覚えのあるメロディーの中を、人々がすぐ前を渡っていく。お婆さんの腰は傾いて、背中にある真っ赤なランドセルから突き出したフランスパンが、闘牛の角のように勇ましく前方に伸びているのが見えた。お婆さんの歩みに合わせて、徐々にメロディーはテンポを落としていった。
「着いたよ」
 姉が言った。
「もう着いたの?」
 僕は車から降りた。
 トランクを開ける前に、姉はお茶を入れてくれると言う。本当は、開けたくないのでは……。一瞬そんなことが浮かんだ。
 土の上に席を設けて、湯が沸くのを待った。

「はい。お待たせ」
 女はそう言って一番最後に運んできた丼を置いた。違うと直感しながらも、牛の一切れをつかんで口に放り込んだ。
「親子丼だった?」
 反転して、女は戻ってきた。
「遅かったか……」
「まだ、食べていません」
 食べるつもりはなかったので、気持ちを言葉に上乗せすると妙に清々しい気持ちになった。もしかしたら、本当に食べてなかったのかもしれない。
 女は丼を持ち上げて、厨房へ戻っていった。
 しばらく、待っていると案外早く女は戻ってきた。手の上に先ほどと同じような丼が載っている。よく見るとそれは全く同じもの。手にくっついて離れなくなったのだろうか。
「はあ、困った、困った」
 親子はあっても、突然米粒が尽きてしまったと言う。
「代わりにパンを膨らませたものでいい?」
 即答はできなかった。イメージが働かず、パニックになりそうだった。
「困った、困った」
「うどんはある?」
 傾いたものを立て直そうと必死だった。
「うどんがいい」
 新しく生まれた解決策の下で、僕らは以前よりも親密になれそうだった。
 そうしましょう。それがいい。そう言って行ったきり、女は、もう戻ってこなかった。

 女は鼻で裸足の女神を口ずさんでいる。知っているけど知らない振りをしていた。こちらを見たりはしなかったけれど、この距離でこちらの存在に気づいていないはずはなかった。聴いて欲しいのか、一緒に口ずさんで欲しいのかわからないけれど、こちらの存在が、彼女の節に強く影響を与えていることを意識した。それでいて少しも意識していないように装いながら、僕はスクリーンだけを見つめていた。聴こえないはずはないのに聴こえないような顔をしたままで、スクリーンに降り始めた文字を傍観した。そして、本当の終わりを待たずに、歩き出すことにした。関わってはならない。関わることで不幸を招いてはならない。
(おしあわせに)
 架空の主人公に伝言を残して、僕は左側から振り返った。
「どうぞ」
 女は、僕にバトンを託した。ごく自然に、それは手の中に納まってしまう。

 誰も僕の手にあるものに気を止めなかった。オレンジの光が背中に射して、一足先に行く僕を黒い巨人にしていた。兄よりも高く、兄よりも薄く、そして信頼に欠けた巨人だ。売物件と立てられた看板の裏側から突然猫が飛び出してきたが、人に慣れているのか悠然とすぐ傍を通り過ぎていく。細い道の中を、子供たちが駆け回っていた。だるまさんが、だるまさんが……。
 危なくないように、僕は手をナイフに被せた。その背の方を強く、強く手の平に当てて、歩いた。しっかりと、手に当たっている、その確信が強いほど、世界はきっと安全なのだから。確かにここに、今ここに、強くそれはある。
 けれども、何かが、間違っていた。
 どこを間違えたのか、ナイフが手を突き抜けている。
 赤くなるな。まだ、赤くなってはならない。
 仏壇を謳う旗が、空から覆い被さって、僕を赤く包むのがわかった。

 お茶を飲んでいる間に、誰かが勝手にトランクを開けてしまった。
「今日は何かある?」
 どこで聞いたのか、もう女たちが集まり始めていた。
「いかのいいのがありますよ」
 黒光りするエプロンをつけた男が、威勢良く答える。調子がよいためか、次々と札束が男のエプロンの中に入っていくのが見える。いったいどれほどのものが入っているのだろう。トランクの奥深いところから波の音が聞こえてくるようだった。お茶を一口含むとどこか潮の香りがした。バットを手にした少年が、転がっていく南瓜を追いかけていくが、砂に足を取られて転んでしまう。「駄目じゃない。蟹さんの邪魔をしたら」
「もう行くよ」
 お茶を飲んだから、もう行かないといけないと姉が言った。
 どこに行くの? もう時間が過ぎたので帰るのかもしれない。僕には知らなくてもいいことが、いつも多すぎた。
「半年くらいしかないからね」
 おかきの賞味期限のことを思い出して話した。家では、もらい物のおかきを積み上げている間に、すっかり壁ができてしまっていたのだ。本気になって食べなければならないと僕は主張した。
「一人一人が責任を持って食べないとなくならないよ」
「ほんと、そうね」
 乗り捨てた車に触れることなく、トランクの横を通り過ぎる。

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