「ぶつかった歩は取る」
これは将棋の基本である。取らないことによって損をしてしまうリスクがある。まずは損をしないことを最初に学ぶ必要がある。初心者の内はそれでよい。ところがそこから先へ進む段階では、基本を疑うことも必要になってくる。
ぶつかった歩は何も考えずに取る。
まずは取ってから考える。
そうした姿勢では上級に進むことは難しい。
「ぶつかった歩は取らない」
局面によっては、こちらもまた基本となるのだ。
例えば対抗形の棒銀の形だ。5段目で75歩と居飛車が歩をぶつけてきた局面は有名だ。これを素直に取ると居飛車の銀が進出して攻めが成功しやすいとされる。(局面を加速させたければ取るのも有力)手抜きすることによって、逆に76歩と取り込ませ振り飛車は銀を前に出すことができる。このような理屈が成立することから、ぶつかった歩を互いになかなか取らないという状況が発生する。その筋には触れず、また異なる筋の歩をぶつけてみたりすると局面はより複雑化する。
(歩があちこちとぶつかっていれば有段者)
などと言われるのはそうした理屈からだろう。
「歩がどこでぶつかっているのか」
それも重要だ。もしも自陣の深いところでぶつかった歩なら、と金になるリスクが大きいので、手抜けるケースは少なくなる。逆に5段目から敵陣に向かえば、手抜きの選択が有力になっていく。
振り飛車党がさばくためには、ぶつかった歩を取らないという知恵は重要だ。同歩は無難で収まりやすいが、半面相手にポイントを与えたり、さばきのチャンスを逸してしまうことも考えられる。大事なことは、「取る取らない」を常に意識しながら感性を磨いていくことだ。
(攻められた筋に飛車を振り直す)
攻められた筋とは、歩がぶつかったところだろう。そうして争点を一段低いところにずらして居飛車の攻めを迎え撃つ手は、さばきの基本手筋として身につけておきたい。
歩を取らないことには様々なメリットがある。
・取らせることによって自分の駒を前に出す。
(相手の駒を前に出させない)
・取る一手を他の有効手にまわすことができる。
・何でも言いなりにはならないという意志を育むことができる。
・相手の読み筋を外すことができる。
「何でも(いつでも)取る一手ではない」
これは逆に言うと取ってももらえないということだ。
取ってもらえる時に……、
(突き捨てを入れておく)(利かしておく)
例えば、対抗形における86歩(24歩)などは永遠のテーマのようなものだ。敵陣深くであろうとも、玉から遠いほど手抜きの機会は増えていく。「入る、入らない」というぎりぎりのところを、上級者はいつも突き詰めて悩んでいるのではないだろうか。振り飛車党にとっても、86歩の対応は腕の見せ所でもある。遅いとみれば手抜いて中央に殺到する。また、早すぎるなら同歩の後88飛車として緩やかな流れに持って行くことが有力だ。
手抜きが有力となるのは歩に限ったことではない。「取って取って……」というやりとりは明快で華々しくもあるが、単純にわるくなることだってある。例えば、片美濃の49金に58金のように絡まれている局面でどう受けるか。
「いったいどう受けたらいいものか……」
振り飛車を指していれば、誰しも経験する悩みではないだろうか。これにはいくつかのパターンがあり、経験を積むほど判断が明るくなっていく。金を取って攻める手が早ければ同金。持ち駒が潤沢でゼットを維持したければ39金打。相手の戦力が薄いならば39金とかわすのが有力。意表の受けとしては、69金!のように58金の足を引っ張るような捨て駒で時間を稼ぐ手筋も知っておいて損はない。そして、今回のテーマは、それ以外の手。手抜きの一手だ。絡まれた状態を放置して攻め合う。終盤の寄せ合いの局面では、この選択が正解になることが最も多いはずだ。
「どう受けたらいいの……」
受けというテーマを抱えた時、視野は自陣の狭いエリアに固定されがちだ。しかし、将棋はどんな時も盤面全体(攻防一如)でとらえなければならない。例えば、自陣に打ち込まれた飛車も相手玉を動かすことによって、王手飛車で抜けることもある。自陣しか見ていないとそうした筋を見落としがちだ。より厳しい攻め手が存在すれば、相対的に相手の攻めを甘くすることもできる。一見厳しげに映る攻めも、盤面を広く見ればそうでもないことは多い。攻め対受けの構図が定着してしまうと、主導権が攻撃側にあるように思え、(サッカーでボールウォッチャーになるように)視点が凝り固まってターンする機会を逸してしまうことがある。攻められている局面が続いていても、攻撃の谷をみて反撃に出る姿勢は大事だ。
49金は取られても同銀と応じることで自動的に駒が入る。そこから詰めろがくるだろうか。すると更に駒が入るかもしれない。39金と埋めて再構築する手もまだ残っている。
「受けない」とい選択も、「どう受けるか」というテーマの中に持っておくべきだ。(相手の攻めがどんどん早くなっていくような受けは、だいたい駄目だ。自分の攻めが完全になくなるような受けも希望がない)
「ぶつかった歩は取る」
「ぶつかった歩は取らない」
将棋は歩からはじまる。そして金や銀や飛車や角へと続いていく。角と角がぶつかっている。その状況でも、取らなければ? かわすと? そのままだとどうなるのか? 色んな可能性を考えることが必要だ。
ぶつかった形は不安ではないだろうか。不安は早く解消したいというのも人情ではある。不安(不安定)であることは、含みがあるということでもある。そこに工夫の余地が生まれ、ちょっとした手順の差で技が決まったりすることがある。
取る手の方が普通で素直だ。素直さは日常生活では歓迎される態度だろう。突かれた端歩は受ける。(端歩は挨拶)挨拶も社会では大切だ。もしも挨拶を怠ったりすれば、全人格を否定されてしまう恐れもある。素直さは上達を助けることができるが、一対局の中ではむしろ強情なくらいの自己主張があってよいだろう。(相手の言いなりになっていては負けてしまう)
「何を考えているのだ?」
取る一手。取るしかない。当然のようにみえるところで、強い人ほど足を止めて考えることができる。
ほとんどの場合、取る手は正解だ。しかし、時によっては緩手となったり悪手となったりする。
(ところによっては雨でしょう)
ほとんどは降らないとわかっているのに、あなたは傘を備えて歩くことを選ぶだろうか。だが、真実(棋理)を探究するということは、すべて疑ってかかるということだ。局面をゼロベースでみることが理想となるが、それには人間に与えられた時間が限られているという現実もある。
「挨拶しないことは許されない」
(決して手抜いてはいけない)
将棋の中でそれは唯一王手だけだ。だから王様が一番偉い。プロアマを問わず、王手を無視することは、どんな時も決して許されない。早く自分が王手をかけたいからといって、自玉にかけられた王手を手抜くことはできないのだ。だが、王手をかけられた状況で敵玉に王手をかける手段も存在する。それが逆王手だ。(飛車角香による距離のある王手に対する合駒によって成立する)その逆王手にしても、王手を無視してできるものではない。ちゃんと王手を防ぎながら、同時に(逆に)王手をかけているに過ぎない。
野球の日本シリーズなどで角番に追い込まれていた側のチームが追いついた時に、新聞やテレビ等で「逆王手」をかけたなどと表現されることがある。将棋を指す人からみれば、これに違和感を覚える人も多いだろう。逆王手をかけたからには一方の王手が消えていなければ棋理に合わないからだ。
(マッチポイントを握っているのはどちらか一方でなければならない)
互いに王手をかけたまま玉を取る権利を持ち続けている。そのようなことは将棋では起こり得ない。だから、強いて用いるならば「同時王手」の方が的確だろうか。そもそも王手を切ってないのだから、逆でも何でもない。単に後から追いついたというだけだ。
将棋でないものを将棋用語で表現すれば、少しの矛盾が生じてもおかしくはない。だが、矛盾というのは遊び心(ファンタジー)でもある。言葉と言葉、世界観と世界観をぶつけ合ってこそ新しいものは生まれていくのではないだろうか。
「言葉は正確であることだけが正しいのか?」
そのようなことから疑いながら、歩を前に進めて行こう。
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