ネットテレビでは将棋の対局が毎日のように中継されている。
将棋の対局は基本的に長時間に及び、ずっとそれだけを見ているのは気が遠くなる。サッカーやテニスのようにボールがめまぐるしく動くわけではない。ほとんどの時間、何も動かないのだ。映し出される盤面は、難しい局面では、1時間に1センチ、ほんのひとこましか動かないこともある。動きとしては他に、棋士が正座になったり胡座になったり、お茶を飲んだり天を仰いだり俯いてため息を漏らしたりするくらいだ。
そこで登場するのが解説や聞き手と呼ばれる先生たちである。彼らは対局室とは離れたスタジオにいて、大盤を用いて指し手をわかりやすく解説してくれるのだ。それにしても専門的なことはよくわからない。早繰り銀だ超速銀だ棒銀だ銀冠だと言われても銀が関わるというくらいしかわからない。矢倉だ雁木だ振り飛車だ横歩取りだと言われてもついていけない。ひねり飛車だ猫式縦歩取りだとなるともうさっぱりわからない。
でも話はそんなに専門的なことばかりではない。大盤は常にそこにあるものの、局面がそう動かないのだから、そんなに解説することがあるわけがない。将棋の話はそこそこ、先生たちはその内に自由に話を広げ始めるのだ。言ってみればそれは長い長いフリートークだ。それならサッカー観戦のようにかじりついて見る必要もない。肩の力を抜いて見ることができる。見るまでもなく聞いていることもできる。
「将棋チャンネルはラジオのように聞くこともできる」
ランチタイムが近づくと話題は決まってご飯の話になる。対局室に係の人が出前の注文を取りに現れるのだ。メニューをパラパラとめくってこれという物に指をさす棋士。それが将棋メシ(勝負メシ)である。
勝負メシは後に写真つきで紹介もされる。その頃になるとちょうど見ている側もお腹が空いており、思わず同じものを食べたくなったりする。三間飛車の使い手も相振り飛車のスペシャリストも、自分たちと同じように、うどんを食べ親子丼を食べそばを食べカレーを食べる。今まで遙か遠いところに見えた棋士という存在が、急に身近に感じられる瞬間だ。うどんを食べて戻ってくる棋士を応援したくもなるというものだ。
「関西の丼には一緒にうどんがついてくる」
腹が減っては戦はできぬ。しかし、問題は無事に空腹を満たした後にも潜んでいるようだ。昼食休憩を終えて対局が再開される、次の一手に悪手が出やすいらしい。棋士も人間、正確な読みの隙間にうどんやそばの一切れが入り込み、誤算を生むのだろうか。勝負メシの後の一手に注目だ。
「メシのあとの悪手にご用心」
さて、魔の時間帯を無事に乗り越えるといよいよ戦いは本格的な局面に突入する。そうは言っても指し手はバタバタと進むものではない。依然として時間はたっぷりと残っており、解説の先生たちは難しい局面にのみ触れている場合ではない。プライベートな一週間を振り返ったり、朝からの指し手を振り返ったり、昼食の勝負メシを振り返ったりして時間をつなぐ。そうしている内に時は流れ、夕暮れともなると対局室にはメニューを持った係の者が姿を見せる。夜の将棋メシの注文である。長い夜戦を見越してしっかりとエネルギーを補給するのか、あまり胃に負担をかけないように軽いもので済ませるのか、それは局面の状態や考え方にもよる。休憩の間は持ち時間が消費されることはない。しかし、うどんを食べながら考えることはもちろん自由だ。
「長い戦いでは勝負メシは二度ある」
長時間に及ぶ解説(トーク)も楽ではない。夜遅くなると先生たちも順に出番を終えて帰って行く。勝負は終盤に向かい徐々に終局へと近づく。だいたい最後は玉の頭に金が乗って終わる。しかし、中には例外もある。玉の囲いの周辺で攻め手の金と受け手の金が取って打っての平行線をたどり始めたような場合だ。数手一組の手順を経て同一局面に戻っている。これが一定の回数繰り返されると「千日手」の成立である。
「千日だって繰り返される、それが千日手だ」
千日手はどちらも負けではない。その瞬間、一旦引き分けとなり、少しの休憩を入れて先後を変え指し直しとなる。深夜になっていたとしても、改めて初手から始まるのである。持ち時間は随分と減っており、そこからは短期決戦だ。
「千日手の後の短期決戦は集中力が試される」
深夜ともなれば見ている方も疲労が溜まっている。少し睡魔に寄られながら大盤を見ると解説の先生がついに一人になっている。
「ダブル解説からついにシングル解説へ」
一人で手順を述べ駒を動かし所見を示し頭をひねり駒を動かし……。一人仕事は何かと苦労が多そうで、ここに至って聞き手の存在の大きさを知る。局面は一気に終盤へと向かっていく。詰むや詰まざるや。そこが問題だ。持ち時間を使い果たすと一手60秒未満で指し続けなければならない。画面の端から先生が戻ってきた。再び安定のダブル解説へ。若手の先生は九段の先生を見捨ててはいなかった。
「帰ってきた先生。やはり解説には二人の力が必要」
ついに手段が尽きて敗者は頭を下げた。
黙ったまま一日を戦ってきた棋士がぼつりぼつりと話し始める。局面はふりだしに戻り。初手から改めて並べ直す。感想戦の始まりだ。
今まで言えなかった本音をぶつけ合う二人。それにしても難しい。それはまるで宇宙人の会話のようだ。
「それでは一局を振り返りましょう」
感想戦にもやっぱり解説があった方がいい。
「頼りは解説。対局者の言葉を翻訳し伝えてくれる」
将棋の対局は基本的に長時間に及び、ずっとそれだけを見ているのは気が遠くなる。サッカーやテニスのようにボールがめまぐるしく動くわけではない。ほとんどの時間、何も動かないのだ。映し出される盤面は、難しい局面では、1時間に1センチ、ほんのひとこましか動かないこともある。動きとしては他に、棋士が正座になったり胡座になったり、お茶を飲んだり天を仰いだり俯いてため息を漏らしたりするくらいだ。
そこで登場するのが解説や聞き手と呼ばれる先生たちである。彼らは対局室とは離れたスタジオにいて、大盤を用いて指し手をわかりやすく解説してくれるのだ。それにしても専門的なことはよくわからない。早繰り銀だ超速銀だ棒銀だ銀冠だと言われても銀が関わるというくらいしかわからない。矢倉だ雁木だ振り飛車だ横歩取りだと言われてもついていけない。ひねり飛車だ猫式縦歩取りだとなるともうさっぱりわからない。
でも話はそんなに専門的なことばかりではない。大盤は常にそこにあるものの、局面がそう動かないのだから、そんなに解説することがあるわけがない。将棋の話はそこそこ、先生たちはその内に自由に話を広げ始めるのだ。言ってみればそれは長い長いフリートークだ。それならサッカー観戦のようにかじりついて見る必要もない。肩の力を抜いて見ることができる。見るまでもなく聞いていることもできる。
「将棋チャンネルはラジオのように聞くこともできる」
ランチタイムが近づくと話題は決まってご飯の話になる。対局室に係の人が出前の注文を取りに現れるのだ。メニューをパラパラとめくってこれという物に指をさす棋士。それが将棋メシ(勝負メシ)である。
勝負メシは後に写真つきで紹介もされる。その頃になるとちょうど見ている側もお腹が空いており、思わず同じものを食べたくなったりする。三間飛車の使い手も相振り飛車のスペシャリストも、自分たちと同じように、うどんを食べ親子丼を食べそばを食べカレーを食べる。今まで遙か遠いところに見えた棋士という存在が、急に身近に感じられる瞬間だ。うどんを食べて戻ってくる棋士を応援したくもなるというものだ。
「関西の丼には一緒にうどんがついてくる」
腹が減っては戦はできぬ。しかし、問題は無事に空腹を満たした後にも潜んでいるようだ。昼食休憩を終えて対局が再開される、次の一手に悪手が出やすいらしい。棋士も人間、正確な読みの隙間にうどんやそばの一切れが入り込み、誤算を生むのだろうか。勝負メシの後の一手に注目だ。
「メシのあとの悪手にご用心」
さて、魔の時間帯を無事に乗り越えるといよいよ戦いは本格的な局面に突入する。そうは言っても指し手はバタバタと進むものではない。依然として時間はたっぷりと残っており、解説の先生たちは難しい局面にのみ触れている場合ではない。プライベートな一週間を振り返ったり、朝からの指し手を振り返ったり、昼食の勝負メシを振り返ったりして時間をつなぐ。そうしている内に時は流れ、夕暮れともなると対局室にはメニューを持った係の者が姿を見せる。夜の将棋メシの注文である。長い夜戦を見越してしっかりとエネルギーを補給するのか、あまり胃に負担をかけないように軽いもので済ませるのか、それは局面の状態や考え方にもよる。休憩の間は持ち時間が消費されることはない。しかし、うどんを食べながら考えることはもちろん自由だ。
「長い戦いでは勝負メシは二度ある」
長時間に及ぶ解説(トーク)も楽ではない。夜遅くなると先生たちも順に出番を終えて帰って行く。勝負は終盤に向かい徐々に終局へと近づく。だいたい最後は玉の頭に金が乗って終わる。しかし、中には例外もある。玉の囲いの周辺で攻め手の金と受け手の金が取って打っての平行線をたどり始めたような場合だ。数手一組の手順を経て同一局面に戻っている。これが一定の回数繰り返されると「千日手」の成立である。
「千日だって繰り返される、それが千日手だ」
千日手はどちらも負けではない。その瞬間、一旦引き分けとなり、少しの休憩を入れて先後を変え指し直しとなる。深夜になっていたとしても、改めて初手から始まるのである。持ち時間は随分と減っており、そこからは短期決戦だ。
「千日手の後の短期決戦は集中力が試される」
深夜ともなれば見ている方も疲労が溜まっている。少し睡魔に寄られながら大盤を見ると解説の先生がついに一人になっている。
「ダブル解説からついにシングル解説へ」
一人で手順を述べ駒を動かし所見を示し頭をひねり駒を動かし……。一人仕事は何かと苦労が多そうで、ここに至って聞き手の存在の大きさを知る。局面は一気に終盤へと向かっていく。詰むや詰まざるや。そこが問題だ。持ち時間を使い果たすと一手60秒未満で指し続けなければならない。画面の端から先生が戻ってきた。再び安定のダブル解説へ。若手の先生は九段の先生を見捨ててはいなかった。
「帰ってきた先生。やはり解説には二人の力が必要」
ついに手段が尽きて敗者は頭を下げた。
黙ったまま一日を戦ってきた棋士がぼつりぼつりと話し始める。局面はふりだしに戻り。初手から改めて並べ直す。感想戦の始まりだ。
今まで言えなかった本音をぶつけ合う二人。それにしても難しい。それはまるで宇宙人の会話のようだ。
「それでは一局を振り返りましょう」
感想戦にもやっぱり解説があった方がいい。
「頼りは解説。対局者の言葉を翻訳し伝えてくれる」