自由の森日記

埼玉県飯能市にある自由の森学園の日常を校長をはじめ教員たちが紹介

使わなくなったグローブありませんか?

2005年04月28日 | 自由の森のこんなこと
 自由の森の公式HPの画像が更新されました。
 グランドは今、八重桜の真っ盛り。昨日の午後、寮生の野球大会が開かれました。そのとき教職員は会議室で
会議中。知っていたら、早く終わらせたのに・・・・。

 ところで、最近中庭や体育館周りでキャッチボールをしている生徒が目立ちます。中学生も高校生も男子も女子も不思議とボールを投げ合っています。選択授業「ソフトボール」を担当している体育科の横手さんの話です。

 「昨年、ソフトボールの受講生は50人もの大所帯になりました。そこから、ソフトボールの輪、キャッチボールの輪が講座をとっている子どもたちにとどまらず、学年を越えて広がっていきました。キャッチボールが子どもたちの文化になりつつある、そんなふうにも思っています。子どもたちが気軽にキャッチボールできる空間があるということはすてきだなと思っています。そこでお願いなのですが、グローブがもし家の片隅で眠っていましたら、ぜひともゆずって頂ければ幸いです。」

自由に借りていって遊べるためのグローブをそろえたいのだそうです。確かに地域社会の中で、ボールを思いっきり投げて遊べる場所はほとんど無くなってしまっています。自然にうまれたキャッチボールを通した生徒のコミュニケーションを応援したいと思います。使わなくなったグローブ、ありましたら学校に送っていただけませんか。


おにざわ

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足尾へ植樹に行ってきました。

2005年04月26日 | 自由の森のこんなこと
 久々に林業講座の話題です。
 日曜日に、昨年度の講座の生徒たちと足尾に行ってきました。
 「足尾に緑を育てる会」の春の植樹デーでした。夏の草刈りデーには毎年参加しているのですが、植樹は今回が初めて。さすがに炎天下の草刈りと違って、すごい人出でした。

 ちょうどさくらが満開の時期でしたので、山肌は緑が全く無く、今もって樹木が育たない様子がひと目で感じ取れます。心臓が痛くなるほど長く急な階段を登ってやっと植樹のエリアに到着。もう一人の引率堀内さんは、はるか下のエリアでリタイアです。山肌には植樹のために間伐材で囲いが作られ、そこに土が運び込まれていました。「この土はみんな運び上げたものなんだよ」と教えると、エーっと驚きの声。妙にフカフカの土はもとからあった土ではないのです。
 偶然ですが、毎年参加している立松和平氏といっしょに作業することになりました。生徒たちはなれなれしく植樹用の苗を彼に投げたり手伝ってもらったり。後で聞いてみたら作家だということも知らないとのことでした。プリントに書いてあっただろうに!
 植樹後に、旧松木の集落跡にこっそり行ってきました。墓石だけが残る草原でのんびりしていると、山頂近くにゴマ粒ほどの動くものが。目を凝らして見ると鹿の群れです。こちらに気づいているのか分かりませんが、悠々と10頭の鹿が一列に歩いていました。植樹した苗を食うのはちょっと待ってね。

おにざわ

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入学式をおえて

2005年04月25日 | 自由の森のこんなこと
桜の花もほとんど散り、あらゆる若葉が美しく輝いているような学園の風景がみられます。落葉樹のほとんどはこの4月から五月までの時期に1年のうちの成長のために必要な養分をこの時期に根から吸収します。さて、新入生のみなさんはどんな養分をこの2週間で吸収しましたか。

今の多くの学校や塾では自分だけの世界をもったり、個別指導の部屋でわけられたり、する事が多いと聞きます。自由の森学園では1人1人が大切な「学びの共同体」の一員です。皆違ってそれでいいのです。しかし、授業や
行事はみんながそれぞれの持ち味を活かして、お互いを支えあいながら、自分達でもびっくりするようなすてきな体験をすることができる学校です。

ヘーゲルというドイツの哲学者は「人間には価値ある自分でありたいという強い欲求があるが、それは他人から認めてもらう事なしには満たされない」と述べています。自由の森学園はお互いを認めあい、お互いを高めていくステージがたくさん用意されています。そういう「養分」を自分の根をはって、大きく成長してくれることを心から願っています。 

困った事やつらいことがあったら担任や校長室にもきてくださいね。(今は散ってしまいましたが、写真の満開の校長室から見える桜の写真も見て下さい)

モルゲン

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校長はどこに立つの?

2005年04月14日 | 自由の森のこんなこと
 高校入学式が終わり、いよいよ新一年生の学校生活がスタートしました。
 入学式 ―はじまりの会― は会場の飾りつけはシンプルですが、中国舞踊、民族舞踊、サンバが次々に演じられて、ちょっと新入生たちにカルチャーショックを与えます。そしてやはり自由の森の特長は在校生全員による合唱です。どこかの県では別な歌の声量が調査の対象となったとのことですが、ここでは在校生みんなが歓迎の気持ちを合唱にのせていました。文化が式を貫いていたと思います。


 式が終わって、芽吹き始めたケヤキの林をバックに各クラスごとの記念撮影。新入生はちょっと遅れて行った僕に真ん中の席をあけて待っていました。「僕は真ん中は嫌だよ。」
 僕は担任していたころから、生徒の真ん中に座ったり立ったりせず、端に立つようにしています。主役は生徒だと思うから。デンマークの小学校の入学式の様子を描いた本を読んだことがあります。そこでは各クラスごとに担任と生徒と保護者でパーティーがあるだけで、全体を集めての式典はありません。校長はなるべく権威的な立ち現れ方をしないように配慮されているといいます。そう考えると、なんで僕が写らなくてはいけないのか?なんて、ちょっと根本的な疑問も生まれてしまいます。個人的には照れ屋なので写らないで済むなら勘弁してほしい。
 みんなの立ち位置を確認しているとき、となりに立ったある新入生がつぶやきます。「クラス写真の時、ピースとかしたら怒られるんだよね。」写真は3カット撮りました。3カット目はみんな好きなポーズとって、という指示がカメラマンを務める教員から飛んでました。そこで、みんなちょっとぎこちなくピースサインしていました。

おにざわ

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「受けとる」ことの大切さ

2005年04月08日 | 自由の森のこんなこと
事務局前のソメイヨシノです。
 昨日、開花しましたが、まだ二分咲きというところでしょうか。
 飯能市内は満開ですから、小岩井はちょっと遅れているようです。
 たぶん、入学式には満開となると思います。新入生を待っているんじゃないでしょうか。


今日、始業の会。
 新年度が始まりました。
 始業の会で僕は自分たちの問題を語り合う場を大事にしようということを話しました。昨年度の高3生から投げかけられた宿題と思っています。たとえばホームルームを自分たちによる運営に変えていくこと、学年集会や全校の集まりでも教員から生徒へという一方通行でないあり方にしていくことの大切さを訴えました。
 
 その上で、いつもの始業、終業の会も当たり前のように校長が話をするのではなく、生徒も問題提起していく場にしたいと考え、新高3に何か話してもらえるようお願いしていました。引き受けてくれた彼女の話を紹介します。

 彼女は昨年度末に行われた学習発表会について、すごくいい発表や展示があったにもかかわらず、それを見ている生徒が少ないことをもったいないことだと語り、次のようなことを話しました。

 「しかし、それは高校の学習発表会だけの話ではないと思っています。自森の中には『受け止める』という行為が足りないと感じます。普段の授業や今のような全校集会の場でも、私を含め、みんなが『受け取ることをする』ということがあまりできていないのではないかと思います。受け取るということは相手を理解することでもあるし、まなびとることでもあると思います。それは発信することや表現することと同じくらい大事なことです。授業も、生徒の発表も、校長の話も、面倒くさいことかも知れないけど、自分から受けとろうとする、受けとる、ということをやってほしいと思います。意識して受けとるということを考えてみてください。」

 僕は自由の森の深い問題をとらえた問題提起だと思います。終了後、早速ある生徒が意見を言いにやってきました。そういう議論が生徒同士でつながっていくといいと思います。

おにざわ

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