自由の森日記

埼玉県飯能市にある自由の森学園の日常を校長をはじめ教員たちが紹介

自由の森の体育祭

2013年05月22日 | 自由の森のこんなこと
朝、「年に一度の点数序列」という実行委員長のことばに、いつもは「点数序列を廃し」とか「競争に動機をつくらない学びのスタイル」とかあちこちで自分がしゃべっているのとは異なる響きがおもしろく聞こえてきたり、4人の団長たちがそれぞれの言葉を最後はラップに託して「宣誓」をしたりすることからも、その場に臨む緊張感や本気さをいただきました。夕方まで、長い1日でしたが終わる頃のみんなの表情がとてもよかったです。笑顔や泣き顔も含めて。

今日の1日中そうでしたが、「本気」の姿にやられます。ほんとうにうらやましいほどすごいなと思う。「年に一度の点数序列」の機会が年に一度だし、教室での普段の授業とは別の、ひとりひとりの自分の表し方があるのだなと思いました。ひどいケガとかしてなきゃいいけれど。

私もオープニングのラジオ体操のピアノやエンディングの「うた」の伴奏で混ぜてもらいました。ありがとうー。

20くらいの種目がありました。6学年の生徒たちが競ったり、それぞれの学年の種目で勝ち負けを争ったり。出ている人の本気の勝負にいつもでは遠いところにある「勝ち負け」へのこだわりや、それを超越して眺めている達観している姿を感じたりもします。初めて自由の森の体育祭を経験する人も、2度目や最後の体育祭を終えた人たちの感想も聴かせてもらいました。

今日1日、本当にとってもいい時間でした。
みんな、おつかれさま。いい体育祭だったなぁ~。
なかの

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2013年度 自由の森学園高等学校入学式 校長の言葉

2013年05月18日 | 自由の森のこんなこと


みなさん、はじめまして、この4月から高等学校の校長に就任しました新井達也です。昨年度までは高等学校の教頭をしていました。
4月はいろいろと忙しく日記を書けませんでした。少しずつ自由の森日記も更新していきます。どうぞよろしくお願いします。

まずは4月10日に行われた高等学校入学式の「校長の言葉」を掲載します。



2013年度 自由の森学園高等学校入学式 校長の言葉        
校長 新井達也

新入生の皆さん入学おめでとうございます。
保護者の皆様、おめでとうございます。

私はこの4月から高等学校の校長になりました新井達也です。
どうぞよろしくお願いします。

テストの点数で生徒を序列しない、「競争原理」を超えた教育を目指し、1985年に自由の森学園は開校しました。
創立者の遠藤豊さんは生徒を前に競争原理を超えた教育のイメージを「自由と自立への意志を持ち、人間らしい人間として育つことを助ける教育」だと語っていました。
自由と自立への教育、そして人間性追求の教育が自由の森学園の目指すところだと説いていたのです。

今日はこの人間らしさについて、自由について少しお話しをしたいと思います。

ここに一冊の本があります。フランクルの「夜と霧」という本です。とても有名な本なので読んだことがあるという人もいるでしょう。この本は今から60年以上前に書かれた作品で、原題は「心理学者、強制収容所を体験する」。その名の通りに、心理学者である著者フランクルが第二次世界大戦中に、ナチスにより強制収容所に送り込まれていた時の体験について書かれています。
アウシュビッツに代表されるナチスの強制収容所ではユダヤ人などの大量虐殺が行われたことは皆さんも少しは聞いたことがあると思います。
貨車に詰め込まれて何日も移動させられ、家族と引き裂かれ、身ぐるみはがれたうえで多くの人々を待っていたものは「ガス室」でした。一方で、「命の選別」で生き残った人々を待っていたのも、これもまた地獄でした。過酷な肉体労働、貧しい食料、殴られ蹴られ人間扱いされない劣悪な環境、そして、いつ「ガス室送り」になるか分からない恐怖がそこにありました。
そんな絶望的な極限状況におかれたフランクルは、まさに当事者として、同様な状況にいる人々の心理状態を分析することで、「人間とは何か」という奥深いところへと思索を広げていきました。その壮絶な体験記がこの「夜と霧」です。

実は、この本は私にとって大変思い入れのある作品なのです。
今からおよそ30年前に私が自由の森学園の社会科教員の採用試験で、生徒を前に授業をする時に、教材のひとつに選んだのがこの本でした。なんとかこの世界を伝えたいと思い授業をした記憶があります。

そして、3.11以降、この本は被災地を中心に静かなブームになっていると聞きました。

この本の中で私がとても印象に残っているところは、人間としての尊厳さえも奪われた絶望的な収容所生活の中で、人間らしくあろうとした人々の姿です。
収容所という特殊な異常空間のなかで人々の姿は一様ではなかったようです。ある人は自暴自棄になり、またある人は餓死した人のまだ温かい足から靴をはぎ取るような行為をしたり、またある人は看守に取り入りずるがしこく振る舞ったりしたようです。極限状況にあってそんな行動も仕方がないと言えるかもしれません。
しかし、そんな中にあって、絶望している仲間の相談に乗ってあげたり、あまりの夕日の美しさに過酷な労働で疲れてるにもかかわらず仲間を呼びに行き共に感動を分かち合ったり、一日一つは笑い話をつくろうと呼びかけ即席の演芸会を開いたりするなど、人間らしくあろうとした人々の姿をフランクルはつづっています。

そして、そのことをフランクルはこう分析しています。
「強制収容所にいたことのある者なら、点呼場や居住棟のあいだで、通りすがりに思いやりのある言葉をかけ、なけなしのパンを譲っていた人々について、いくらでも語れるのではないだろうか。そんな人はほんのひと握りだけだったにせよ、人は強制収容所に人間をぶち込んで全てを奪うことができるが、たったひとつ、与えられた環境でいかに振る舞うかという、人間としての最後の自由だけは奪えないのだ。」
ナチスは圧倒的な力をつかって人間から多くのものを奪いました。しかし、そのナチスさえも奪えなかったものが、「与えられた状況に対してどのような態度をとるのかという自由」だとフランクルはいうのです。そして、この「与えられた状況に対して自分の態度を決定する自由」は何も極限状況だけに限られているものではなく、日常生活の中で私たちひとり一人が常に問われている自由なのだと思います。

数日前、この自由の森学園の体育館で、福島県伊達市にある大石小学校の児童34名による「桑の実の見る夢」というアートパフォーマンスが行われました。
子どもたちの表現のすばらしさはもとより、震災と原発事故という今まで体験したことのない困難な状況の中で、このようなイベントを子どもたちと共に作り上げようとし、作り上げていった人々の「態度決定の姿」に、私は本当に圧倒されました。その人々の中に自由の森の卒業生が何人もいることを知り、本当にうれしくなりました。また、自由の森公演において、自由の森の在校生や保護者の皆さんがこのイベントを支えている姿に、「自分の態度を決定する自由」がすぐ近くにあることを知りました。

新入生のみなさん、いよいよ君たちの学びがスタートします。
自由とはなにか、自立するということはどういうことか、そして人間らしさとは何か、などなど、大いに悩み、そして考えていってください。自分の中だけを探し回ってもそうそう答えが見つかるものではありません。だからこそ授業があり、教員たちがいて、学ぶ仲間がいるのです。

そして、最後にひとつ。
「桑の実の見る夢」の中で私が印象に残った台詞があります。
それは「一人ひとりの物語が集まって、それがふるさとなんだ」というフレーズです。
自由の森も同じです。君たち一人一人の物語が集まって、それが自由の森学園です。
どうか自分の物語を、そしてまわりの人の物語を大切にしてください。
入学おめでとう。終わります。


新井達也

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